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アマガタリ  作者: ひよりの
第二章
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届かぬ領域



 アサが倒(たお)れた、その瞬間(しゅんかん)を、志摩《しま》は、誰(だれ)よりも冷静(れいせい)な目(め)で見(み)ていた。


 青(あお)ざめた顔(かお)。


 今(いま)にも消(き)えてしまいそうな細(ほそ)い息(いき)。


 力(ちから)なく崩(くず)れ落(お)ちた身体(からだ)を、ミナギは迷(まよ)うことなく抱(だ)き留(と)める。


 その腕(うで)は、壊(こわ)れ物(もの)を包(つつ)むように優(やさ)しく――それでいて、二度(にど)と離(はな)さぬと誓(ちか)うように強(つよ)かった。


 肩(かた)も。


 背(せ)も。


 指先(ゆびさき)までも。


 全身(ぜんしん)が「離(はな)さない」という意思(いし)だけでできているようだった。



「アサ……」



 震(ふる)えた声(こえ)が落(お)ちる。


 王(おう)として人前(ひとまえ)に立(た)つ時(とき)の、あの揺(ゆ)るぎない声(こえ)ではない。


 一人(ひとり)の男(おとこ)が、大切(たいせつ)なものを失(うしな)う恐怖(きょうふ)に耐(た)えきれず漏(も)らした、掠(かす)れた声(こえ)。



 ミナギの視界(しかい)には、もう何(なに)も映(うつ)っていなかった。


 駆(か)け寄(よ)る家臣(かしん)も。


 息(いき)を呑(の)む侍女(じじょ)たちも。


 そして。


 志摩《しま》のことも。


 誰一人(だれひとり)として、目(め)に入(はい)っていない。


 彼(かれ)が見(み)つめているのは、腕(うで)の中(なか)の少女(しょうじょ)ただ一人(ひとり)。


 額(ひたい)に触(ふ)れる髪(かみ)を払(はら)い。


 冷(ひ)えた頬(ほお)に手(て)を添(そ)え。


 その細(ほそ)い呼吸(こきゅう)を、必死(ひっし)に確(たし)かめる。


 まるで、自分(じぶん)の命(いのち)がそこに繋(つな)がれているかのように。


 その姿(すがた)を見(み)た瞬間(しゅんかん)――


 志摩《しま》の胸(むね)の奥(おく)で、何(なに)かが静(しず)かにほどけた。



(……ああ)


 理解(りかい)してしまう。


 これは、もう。


 勝(か)ち負(ま)けの話(はなし)ではない。


 自分(じぶん)がどれほど妃(きさき)として相応(ふさわ)しくあろうと。


 どれほど伊都国(いとこく)との縁(えん)が国益(こくえき)になると説(と)こうと。


 どれほど理(ことわり)を積(つ)み重(かさ)ねようと。


 あの腕(うで)をほどくことはできない。


 政(まつりごと)も。


 国(くに)も。


 立場(たちば)も。


 何(なに)ひとつ入(はい)り込(こ)む隙間(すきま)がない。


 あの腕(うで)と腕(うで)の間(あいだ)には。


 あの視線(しせん)の先(さき)には。


 自分(じぶん)の立(た)つ場所(ばしょ)など、最初(さいしょ)から存在(そんざい)していなかった。



 志摩《しま》は、小(ちい)さく息(いき)を吐(は)いた。


 胸(むね)の奥(おく)が、痛(いた)む。


 涙(なみだ)が出(で)るほどではない。


 泣(な)き叫(さけ)びたいほどでもない。


 ただ。


 手(て)を伸(の)ばす前(まえ)から届(とど)かない場所(ばしょ)があるのだと知(し)った時(とき)の、静(しず)かな痛(いた)みだった。



 羨(うらや)ましい、とも思(おも)った。


 あれほど一人(ひとり)だけを見(み)つめられることが。


 あれほど誰(だれ)かに必要(ひつよう)とされることが。


 そして。


 少(すこ)しだけ、美(うつく)しいとも思(おも)ってしまった。


 だからこそ。


 これ以上(いじょう)、この想(おも)いの間(あいだ)へ踏(ふ)み込(こ)むことは、自分自身(じぶんじしん)への侮辱(ぶじょく)になる。



 志摩《しま》は静(しず)かに目(め)を閉(と)じる。


 一度(いちど)だけ深(ふか)く息(いき)を吸(す)い、胸(むね)の奥(おく)の痛(いた)みごと飲(の)み込(こ)んだ。


 再(ふたた)び目(め)を開(あ)けた時(とき)には、もう伊都国(いとこく)の姫(ひめ)だった。



「父上(ちちうえ)」


 静(しず)かな声(こえ)が響(ひび)く。


 布留根(ふるね)が振(ふ)り返(かえ)る。


「この話(はなし)は、ここまでにいたしましょう」


 父(ちち)の眉(まゆ)が寄(よ)る。


「得(え)るべきものは、すでに得(え)ております」


 志摩《しま》は、まっすぐ父(ちち)を見据(みす)えた。


「投馬国(とうまこく)との結(むす)びつきは、婚姻(こんいん)だけではございません」


 布留根(ふるね)が何(なに)かを言(い)い返(かえ)そうとする。


 だが、志摩《しま》は静(しず)かに言葉(ことば)を重(かさ)ねた。


「これ以上(いじょう)は――無理(むり)に求(もと)めるべきではありません」


「何(なに)を弱気(よわき)なことを――」


「父上(ちちうえ)」


 その声(こえ)が、わずかに震(ふる)えた。


 志摩《しま》は一瞬(いっしゅん)だけ視線(しせん)を伏(ふ)せる。


 整(ととの)えていた呼吸(こきゅう)が乱(みだ)れる。


 そして、胸(むね)の奥(おく)から絞(しぼ)り出(だ)すように呟(つぶや)いた。


「……これ以上(いじょう)、わたくしを惨(みじ)めにしないでくださいまし」


 その一言(ひとこと)だけは――


 姫(ひめ)でも外交(がいこう)の才女(さいじょ)でもなく、一人(ひとり)の娘(むすめ)として零(こぼ)れ落(お)ちた、本音(ほんね)だった。



 布留根(ふるね)は言葉(ことば)を失(うしな)う。


 志摩《しま》はすぐに顔(かお)を上(あ)げる。


 もう、その瞳(ひとみ)に揺(ゆ)らぎはない。


「国(くに)としての盟(ちか)いは、別(べつ)の形(かたち)で結(むす)べばよろしいでしょう」



 淡々(たんたん)と。


 何事(なにごと)もなかったかのように。


「婚姻(こんいん)に拘(こだわ)る理由(りゆう)は、もはやございません」


 

 布留根(ふるね)は苦々(にがにが)しく舌打(したう)ちをひとつ鳴(な)らす。


 しかし、それ以上(いじょう)は何(なに)も言(い)わない。


 志摩《しま》は最後(さいご)にもう一度(いちど)だけ、ミナギへ視線(しせん)を向(む)けた。


 彼(かれ)は今(いま)もなお、腕(うで)の中(なか)のアサしか見(み)ていなかった。


 その姿(すがた)を見届(みとど)けると、志摩《しま》は静(しず)かに踵(きびす)を返(かえ)す。


 これ以上(いじょう)見(み)ていては、自分(じぶん)の誇(ほこ)りまで失(うしな)ってしまう気(き)がしたからだ。



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