届かぬ領域
アサが倒れた、その瞬間を、志摩は、誰よりも冷静な目で見ていた。
青ざめた顔。
今にも消えてしまいそうな細い息。
力なく崩れ落ちた身体を、ミナギは迷うことなく抱き留める。
その腕は、壊れ物を包むように優しく――それでいて、二度と離さぬと誓うように強かった。
肩も。
背も。
指先までも。
全身が「離さない」という意思だけでできているようだった。
「アサ……」
震えた声が落ちる。
王として人前に立つ時の、あの揺るぎない声ではない。
一人の男が、大切なものを失う恐怖に耐えきれず漏らした、掠れた声。
ミナギの視界には、もう何も映っていなかった。
駆け寄る家臣も。
息を呑む侍女たちも。
そして。
志摩のことも。
誰一人として、目に入っていない。
彼が見つめているのは、腕の中の少女ただ一人。
額に触れる髪を払い。
冷えた頬に手を添え。
その細い呼吸を、必死に確かめる。
まるで、自分の命がそこに繋がれているかのように。
その姿を見た瞬間――
志摩の胸の奥で、何かが静かにほどけた。
(……ああ)
理解してしまう。
これは、もう。
勝ち負けの話ではない。
自分がどれほど妃として相応しくあろうと。
どれほど伊都国との縁が国益になると説こうと。
どれほど理を積み重ねようと。
あの腕をほどくことはできない。
政も。
国も。
立場も。
何ひとつ入り込む隙間がない。
あの腕と腕の間には。
あの視線の先には。
自分の立つ場所など、最初から存在していなかった。
志摩は、小さく息を吐いた。
胸の奥が、痛む。
涙が出るほどではない。
泣き叫びたいほどでもない。
ただ。
手を伸ばす前から届かない場所があるのだと知った時の、静かな痛みだった。
羨ましい、とも思った。
あれほど一人だけを見つめられることが。
あれほど誰かに必要とされることが。
そして。
少しだけ、美しいとも思ってしまった。
だからこそ。
これ以上、この想いの間へ踏み込むことは、自分自身への侮辱になる。
志摩は静かに目を閉じる。
一度だけ深く息を吸い、胸の奥の痛みごと飲み込んだ。
再び目を開けた時には、もう伊都国の姫だった。
「父上」
静かな声が響く。
布留根が振り返る。
「この話は、ここまでにいたしましょう」
父の眉が寄る。
「得るべきものは、すでに得ております」
志摩は、まっすぐ父を見据えた。
「投馬国との結びつきは、婚姻だけではございません」
布留根が何かを言い返そうとする。
だが、志摩は静かに言葉を重ねた。
「これ以上は――無理に求めるべきではありません」
「何を弱気なことを――」
「父上」
その声が、わずかに震えた。
志摩は一瞬だけ視線を伏せる。
整えていた呼吸が乱れる。
そして、胸の奥から絞り出すように呟いた。
「……これ以上、わたくしを惨めにしないでくださいまし」
その一言だけは――
姫でも外交の才女でもなく、一人の娘として零れ落ちた、本音だった。
布留根は言葉を失う。
志摩はすぐに顔を上げる。
もう、その瞳に揺らぎはない。
「国としての盟いは、別の形で結べばよろしいでしょう」
淡々と。
何事もなかったかのように。
「婚姻に拘る理由は、もはやございません」
布留根は苦々しく舌打ちをひとつ鳴らす。
しかし、それ以上は何も言わない。
志摩は最後にもう一度だけ、ミナギへ視線を向けた。
彼は今もなお、腕の中のアサしか見ていなかった。
その姿を見届けると、志摩は静かに踵を返す。
これ以上見ていては、自分の誇りまで失ってしまう気がしたからだ。




