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アマガタリ  作者: ひよりの
第二章
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均衡の外側



 どれほどの時間《じかん》が経《た》ったのか。


 ――誰《だれ》も、口《くち》を挟《はさ》まなかった。


 侍女《じじょ》たちは息《いき》を潜《ひそ》め、兵《へい》たちは視線《しせん》を凝《こ》らす。


 見《み》てはならないものを見《み》ているようで。


 だが、目《め》を離《はな》すこともできない。



 誰《だれ》もが理解《りかい》している。


 今《いま》、この場《ば》で交《か》わされているものは――


 単《たん》なる主従《しゅじゅう》の情《じょう》でも、偶発的《ぐうはつてき》な出来事《できごと》でもない。


 もっと深《ふか》い、もっと剥《む》き出《だ》しの何《なに》かだと。



 ――やがて。


「……その辺《あた》りで、よろしいのでは」


 静《しず》かに落《お》とされた声《こえ》が、空気《くうき》にわずかな波紋《はもん》を広《ひろ》げた。


 タヅマだった。


 常《つね》と変《か》わらぬ穏《おだ》やかな声音《こわね》。


 だが、その一言《ひとこと》は確《たし》かに場《ば》の均衡《きんこう》へと触《ふ》れる。



 ミナギの腕《うで》が、ぴたりと止《と》まる。


 遅《おく》れて、ゆるやかに顔《かお》が上《あ》がった。


 視線《しせん》が、タヅマを射抜《いぬ》く。


 言葉《ことば》はない。


 しかしその目《め》は雄弁《ゆうべん》だった。

 


 ――まだ、離《はな》さない。



 明確《めいかく》な拒絶《きょぜつ》ではない。


 だが、譲《ゆず》る気《き》もない。


 タヅマは、それを正面《しょうめん》から受《う》け止《と》める。


 わずかに、目《め》を細《ほそ》めた。


「そのままでは、さすがに息《いき》が詰《つ》まりましょう」


 諫《いさ》めるでもなく、咎《とが》めるでもなく。


 ただ、理《り》を置《お》くように。


 ミナギは、短《みじか》く息《いき》を吐《は》く。


 熱《ねつ》のこもった空気《くうき》が、ようやく外《そと》へ逃《に》げる。


 わずかに、腕《うで》の拘束《こうそく》が緩《ゆる》む。


 だが。


 決《けっ》して、解《と》かれはしない。


 依然《いぜん》として、アサの身体《からだ》は腕《うで》の中《なか》に閉《と》じ込《こ》められたままだ。



 タヅマは、それ以上《いじょう》踏《ふ》み込《こ》まなかった。


 言葉《ことば》を重《かさ》ねることが無意味《むいみ》であると理解《りかい》している。


 代《か》わりに、静《しず》かに視線《しせん》を巡《めぐ》らせる。


 場《ば》の空気《くうき》を読《よ》むように、ひとりひとりの存在《そんざい》を拾《ひろ》い上《あ》げる。


「……見世物《みせもの》ではございませんよ」


 低《ひく》く、簡潔《かんけつ》な一言《ひとこと》。


 だがそれは、十分《じゅうぶん》だった。



 侍女《じじょ》たちははっと息《いき》を呑《の》み、慌《あわ》てて目《め》を伏《ふ》せる。


 兵《へい》たちは無言《むごん》のまま一歩《いっぽ》退《しりぞ》き、距離《きょり》を取《と》る。


 衣擦《きぬず》れすら控《ひか》えめに。


 音《おと》を立《た》てぬように、人《ひと》の気配《けはい》が後退《こうたい》していく。  



 視線《しせん》が消《き》える。


 意識《いしき》が散《ち》る。


 場《ば》は、ようやく閉《と》じた。


 残《のこ》されたのは、淡《あわ》く揺《ゆ》れる灯《あか》りと、沈《しず》んだ静寂《せいじゃく》。


 タヅマはその変化《へんか》を見届《みとど》けると、再《ふたた》びミナギへと視線《しせん》を戻《もど》す。


 言葉《ことば》は交《か》わさない。


 だが、その眼差《まなざ》しは明確《めいかく》だった。



 ――承知《しょうち》している。


 ――止《と》めはしない。



 ミナギもまた、何《なに》も返《かえ》さない。


 応《こた》じる必要《ひつよう》がない。


 理解《りかい》は、すでに交《か》わされている。


 ただ――


 その腕《うで》の中《なか》で。


 アサを抱《だ》きしめたまま、離《はな》さずにいた。





 廊《ろう》へ出《で》た瞬間《しゅんかん》、空気《くうき》が変《か》わった。


 閉《と》ざされた室内《しつない》の熱《ねつ》が嘘《うそ》のように、夜気《やき》は冷《ひ》えている。


 アオバ、モモジ、チガヤ、ヒシンの四人《よにん》は、ほぼ同時《どうじ》に息《いき》を吐《は》いた。


 ようやく肺《はい》に入《はい》った空気《くうき》は、少《すこ》しだけ軽《かる》かった。


 誰《だれ》も、すぐには口《くち》を開《ひら》かなかった。


 板《いた》を踏《ふ》む足音《あしおと》だけが、かすかな音《おと》として続《つづ》く。


 その音《おと》すら、どこか遠《とお》く感《かん》じる。


「……なぁ、おい」


 最初《さいしょ》に崩《くず》れたのは、やはりモモジだった。


 小声《こごえ》のつもりなのに、抑《おさ》えきれず震《ふる》えている。


「さっきの、俺《おれ》ら見《み》ていいやつだったのか?」


 即座《そくざ》に、横《よこ》から手《て》が伸《の》びた。


 チガヤだ。


 すっと自然《しぜん》な動《うご》きで、モモジの口《くち》を塞《ふさ》ぐ。


「声《こえ》が大《おお》きい」


 小《ちい》さく、鋭《するど》く。


 モモジは「んぐ」と喉《のど》を鳴《な》らし、ようやく大人《おとな》しくなる。


 少《すこ》し間《ま》を置《お》いて、ヒシンが低《ひく》く言《い》った。


「見《み》ていいかどうかで言《い》えば――完全《かんぜん》に駄目《だめ》だろうな」


 壁《かべ》に軽《かる》く背《せ》を預《あず》け、腕《うで》を組《く》む。


 いつもの落《お》ち着《つ》きが、逆《ぎゃく》に現実味《げんじつみ》を帯《お》びさせる。


 沈黙《ちんもく》が落《お》ちる。


 モモジが、今度《こんど》は慎重《しんちょう》に声《こえ》を潜《ひそ》めて言《い》う。


「いや、なんつーか……あれって……」


 言葉《ことば》を探《さが》すように、空《そら》を見上《みあ》げる。


 夜《よる》の闇《やみ》が、やけに深《ふか》い。


「……いわゆる、二人《ふたり》の世界《せかい》ってやつ?」


「まぁ、どう見《み》ても、ただの王《おう》と侍女《じじょ》の空気《くうき》じゃないよね」


 チガヤが、小《ちい》さく息《いき》を吸《す》った。


 ヒシンは否定《ひてい》しなかった。


 ただ、わずかに目《め》を細《ほそ》める。


「……アサちゃん、今後《こんご》どうなるんだろ?」


 モモジが調子《ちょうし》を取《と》り戻《もど》しかける。


「ミナギ様《さま》を救《すく》ったんだ――少《すく》なくとも……もう、ただの侍女《じじょ》じゃいられないだろうな」


 ヒシンが淡々(たんたん)と継《つ》ぐ。


「じゃあもう、完全《かんぜん》に上《あ》がりだろ……いやでも待《ま》てよ」


 モモジが顎《あご》に手《て》を当《あ》てて、妙《みょう》に真剣《しんけん》な顔《かお》になる。


「志摩様《しまさま》いるじゃん、どうなるんだ?」


 その名《な》が出《で》た瞬間《しゅんかん》、空気《くうき》が少《すこ》しだけ引《ひ》き締《し》まる。


 再《ふたた》び沈黙《ちんもく》。


「あの場《ば》にいなくて、よかったよね」


 チガヤは、ぽつりと言《い》い切《き》った後《あと》で、少《すこ》しだけ肩《かた》をすくめる。


「いたら修羅場《しゅらば》どころじゃねえよ……」


 そう言《い》いつつ、モモジが妙《みょう》に楽《たの》しげに身《み》を乗《の》り出《だ》す。


「じゃあ何《なに》? やっぱ……傍《そば》に置《お》かれたりすんのかね?」


 言《い》ってから、自分《じぶん》で首《くび》を傾《かし》げる。


「いやでも……あれ見《み》てたらさぁ……」


 言葉《ことば》を切《き》る。


 思《おも》い出《だ》してしまったからだ。


 あの腕《うで》。


 あの目《め》。


「……溺愛《できあい》、って感《かん》じじゃね?」


 その言葉《ことば》は、やけに真《ま》っ直《す》ぐに響《ひび》いた。


 誰《だれ》も、否定《ひてい》しなかった。



 その間《あいだ》。


 アオバだけが、何《なに》も言《い》っていない。


 足《あし》を止《と》めてもいない。


 だが、どこか遅《おく》れている。


「……」


 喉《のど》が乾《かわ》く。


 息《いき》がうまく入《はい》らない。


「アオバ?」


 モモジが顔《かお》を覗《のぞ》き込《こ》む。


 反応《はんのう》が遅《おく》れる。


 ようやく、瞬《まばた》き。


「お前《まえ》、顔《かお》怖《こえ》えぞ」


 アオバは、ゆっくりと視線《しせん》を上《あ》げた。


「……別《べつ》に」


 短《みじか》い。


 だが、明《あき》らかに力《ちから》が抜《ぬ》けている。


 少《すこ》しの沈黙《ちんもく》。


 それを破《やぶ》ったのは、モモジだった。


「……お前《まえ》、どうするんだよ」


 ぽつり。


「何《なに》が」


 返《かえ》しは即座《そくざ》。


 だが、視線《しせん》は動《うご》かない。


「何《なに》がって……」


 モモジが、顎《あご》で示《しめ》す。


 さっきまでいた場所《ばしょ》の方向《ほうこう》へ。


 アオバの目《め》が、わずかに揺《ゆ》れた。


 言葉《ことば》は出《で》ない。


 ヒシンが、静《しず》かに口《くち》を開《ひら》く。


「どうもしないのが正解《せいかい》だ」


 即断《そくだん》だった。


「お前《まえ》、あの間《あいだ》に割《わ》って入《はい》れると思《おも》うか?」


 夜気《やき》が、一瞬《いっしゅん》だけ冷《つめ》たく感《かん》じる。


 アオバは答《こた》えない。


 視線《しせん》を落《お》とし、ゆっくりと息《いき》を吐《は》く。



 ――分《わ》かっている。


 自分《じぶん》が入《はい》り込《こ》む余地《よち》などないことは。


 王《おう》と――選《えら》ばれた者《もの》。


 それは、誰《だれ》が見《み》ても明《あき》らかだった。


 でも。


 アオバの脳裏《のうり》で、火《ひ》は、まだ揺《ゆ》れていた。



 アサの舞《まい》の残像《ざんぞう》が、視界《しかい》の奥《おく》に鮮烈《せんれつ》に焼《や》きついて離《はな》れない。


 あの足取《あしど》り。


 腕《うで》のしなり。


 振《ふ》り向《む》いた時《とき》の、どうしようもなく胸《むね》を焦《こ》がすような、瞳《ひとみ》に宿《やど》る火《ひ》――


 アオバは息《いき》を止《と》め、魅入《みい》っていた。


 吸《す》うことも、吐《は》くことも忘《わす》れ――ただ、目《め》が離《はな》せなかった。


 彼女《かのじょ》の動《うご》きのひとつも取《と》りこぼしたくないと、思《おも》った。


 それらすべてが、いまだに自分《じぶん》の中《なか》で脈打《みゃくう》っている。



 なのに。


 彼女《かのじょ》はミナギの腕《うで》の中《なか》にいる。


 夜気《やき》が、肌《はだ》に刺《さ》さるように冷《ひ》える。


 指先《ゆびさき》に、力《ちから》が入《はい》る。


 気《き》づけば、拳《こぶし》を握《にぎ》っていた。



 どうしようもない。


 どうにもできない。


 それでも。


 胸《むね》の奥《おく》で、何《なに》かがじりじりと焼《や》ける。


 舞《まい》を見《み》ていたときの熱《ねつ》とは、違《ちが》う。


 もっと鈍《にぶ》くて、重《おも》くて、逃《に》げ場《ば》のない熱《ねつ》。


 喉《のど》の奥《おく》が、たまらなく乾《かわ》く。



 ヒシンが、一歩《いっぽ》だけ近《ちか》づく。


 ぽん、とアオバの肩《かた》に手《て》を置《お》く。


 強《つよ》くもなく、優《やさ》しくもなく。


 ただ――そこにいる、という感触《かんしょく》。


 モモジが、わざとらしく空気《くうき》を変《か》える。


「……まあ、飯《めし》でも食《く》おうぜ」


 いつもの調子《ちょうし》に、少《すこ》しだけ戻《もど》す。


 チガヤが小《ちい》さく頷《うなず》く。


「そうだね」


 ヒシンは、踵《きびす》を返《かえ》す。


「いい加減《かげん》戻《もど》るぞ。これ以上《いじょう》ここにいると、本当《ほんとう》に首《くび》が飛《と》ぶ」


 現実的《げんじつてき》な一言《ひとこと》。


 四人《よにん》は、再《ふたた》び歩《ある》き出《だ》す。


 灯《あか》りの列《れつ》を抜《ぬ》け、影《かげ》の中《なか》へ。


 だが――


 胸《むね》に残《のこ》ったものは、同《おな》じではない。


 畏《おそ》れ。


 興味《きょうみ》。


 理解《りかい》。


 そして。


 抗《あらが》いがたい、熱《ねつ》の記憶《きおく》。


 夜風《よかぜ》にさらされても消《き》えないそれが、それぞれの内側《うちがわ》で、静《しず》かに燻《くすぶ》り続《つづ》けていた。



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