均衡の外側
どれほどの時間が経ったのか。
――誰も、口を挟まなかった。
侍女たちは息を潜め、兵たちは視線を凝らす。
見てはならないものを見ているようで。
だが、目を離すこともできない。
誰もが理解している。
今、この場で交わされているものは――
単なる主従の情でも、偶発的な出来事でもない。
もっと深い、もっと剥き出しの何かだと。
――やがて。
「……その辺りで、よろしいのでは」
静かに落とされた声が、空気にわずかな波紋を広げた。
タヅマだった。
常と変わらぬ穏やかな声音。
だが、その一言は確かに場の均衡へと触れる。
ミナギの腕が、ぴたりと止まる。
遅れて、ゆるやかに顔が上がった。
視線が、タヅマを射抜く。
言葉はない。
しかしその目は雄弁だった。
――まだ、離さない。
明確な拒絶ではない。
だが、譲る気もない。
タヅマは、それを正面から受け止める。
わずかに、目を細めた。
「そのままでは、さすがに息が詰まりましょう」
諫めるでもなく、咎めるでもなく。
ただ、理を置くように。
ミナギは、短く息を吐く。
熱のこもった空気が、ようやく外へ逃げる。
わずかに、腕の拘束が緩む。
だが。
決して、解かれはしない。
依然として、アサの身体は腕の中に閉じ込められたままだ。
タヅマは、それ以上踏み込まなかった。
言葉を重ねることが無意味であると理解している。
代わりに、静かに視線を巡らせる。
場の空気を読むように、ひとりひとりの存在を拾い上げる。
「……見世物ではございませんよ」
低く、簡潔な一言。
だがそれは、十分だった。
侍女たちははっと息を呑み、慌てて目を伏せる。
兵たちは無言のまま一歩退き、距離を取る。
衣擦れすら控えめに。
音を立てぬように、人の気配が後退していく。
視線が消える。
意識が散る。
場は、ようやく閉じた。
残されたのは、淡く揺れる灯りと、沈んだ静寂。
タヅマはその変化を見届けると、再びミナギへと視線を戻す。
言葉は交わさない。
だが、その眼差しは明確だった。
――承知している。
――止めはしない。
ミナギもまた、何も返さない。
応じる必要がない。
理解は、すでに交わされている。
ただ――
その腕の中で。
アサを抱きしめたまま、離さずにいた。
廊へ出た瞬間、空気が変わった。
閉ざされた室内の熱が嘘のように、夜気は冷えている。
アオバ、モモジ、チガヤ、ヒシンの四人は、ほぼ同時に息を吐いた。
ようやく肺に入った空気は、少しだけ軽かった。
誰も、すぐには口を開かなかった。
板を踏む足音だけが、かすかな音として続く。
その音すら、どこか遠く感じる。
「……なぁ、おい」
最初に崩れたのは、やはりモモジだった。
小声のつもりなのに、抑えきれず震えている。
「さっきの、俺ら見ていいやつだったのか?」
即座に、横から手が伸びた。
チガヤだ。
すっと自然な動きで、モモジの口を塞ぐ。
「声が大きい」
小さく、鋭く。
モモジは「んぐ」と喉を鳴らし、ようやく大人しくなる。
少し間を置いて、ヒシンが低く言った。
「見ていいかどうかで言えば――完全に駄目だろうな」
壁に軽く背を預け、腕を組む。
いつもの落ち着きが、逆に現実味を帯びさせる。
沈黙が落ちる。
モモジが、今度は慎重に声を潜めて言う。
「いや、なんつーか……あれって……」
言葉を探すように、空を見上げる。
夜の闇が、やけに深い。
「……いわゆる、二人の世界ってやつ?」
「まぁ、どう見ても、ただの王と侍女の空気じゃないよね」
チガヤが、小さく息を吸った。
ヒシンは否定しなかった。
ただ、わずかに目を細める。
「……アサちゃん、今後どうなるんだろ?」
モモジが調子を取り戻しかける。
「ミナギ様を救ったんだ――少なくとも……もう、ただの侍女じゃいられないだろうな」
ヒシンが淡々と継ぐ。
「じゃあもう、完全に上がりだろ……いやでも待てよ」
モモジが顎に手を当てて、妙に真剣な顔になる。
「志摩様いるじゃん、どうなるんだ?」
その名が出た瞬間、空気が少しだけ引き締まる。
再び沈黙。
「あの場にいなくて、よかったよね」
チガヤは、ぽつりと言い切った後で、少しだけ肩をすくめる。
「いたら修羅場どころじゃねえよ……」
そう言いつつ、モモジが妙に楽しげに身を乗り出す。
「じゃあ何? やっぱ……傍に置かれたりすんのかね?」
言ってから、自分で首を傾げる。
「いやでも……あれ見てたらさぁ……」
言葉を切る。
思い出してしまったからだ。
あの腕。
あの目。
「……溺愛、って感じじゃね?」
その言葉は、やけに真っ直ぐに響いた。
誰も、否定しなかった。
その間。
アオバだけが、何も言っていない。
足を止めてもいない。
だが、どこか遅れている。
「……」
喉が乾く。
息がうまく入らない。
「アオバ?」
モモジが顔を覗き込む。
反応が遅れる。
ようやく、瞬き。
「お前、顔怖えぞ」
アオバは、ゆっくりと視線を上げた。
「……別に」
短い。
だが、明らかに力が抜けている。
少しの沈黙。
それを破ったのは、モモジだった。
「……お前、どうするんだよ」
ぽつり。
「何が」
返しは即座。
だが、視線は動かない。
「何がって……」
モモジが、顎で示す。
さっきまでいた場所の方向へ。
アオバの目が、わずかに揺れた。
言葉は出ない。
ヒシンが、静かに口を開く。
「どうもしないのが正解だ」
即断だった。
「お前、あの間に割って入れると思うか?」
夜気が、一瞬だけ冷たく感じる。
アオバは答えない。
視線を落とし、ゆっくりと息を吐く。
――分かっている。
自分が入り込む余地などないことは。
王と――選ばれた者。
それは、誰が見ても明らかだった。
でも。
アオバの脳裏で、火は、まだ揺れていた。
アサの舞の残像が、視界の奥に鮮烈に焼きついて離れない。
あの足取り。
腕のしなり。
振り向いた時の、どうしようもなく胸を焦がすような、瞳に宿る火――
アオバは息を止め、魅入っていた。
吸うことも、吐くことも忘れ――ただ、目が離せなかった。
彼女の動きのひとつも取りこぼしたくないと、思った。
それらすべてが、いまだに自分の中で脈打っている。
なのに。
彼女はミナギの腕の中にいる。
夜気が、肌に刺さるように冷える。
指先に、力が入る。
気づけば、拳を握っていた。
どうしようもない。
どうにもできない。
それでも。
胸の奥で、何かがじりじりと焼ける。
舞を見ていたときの熱とは、違う。
もっと鈍くて、重くて、逃げ場のない熱。
喉の奥が、たまらなく乾く。
ヒシンが、一歩だけ近づく。
ぽん、とアオバの肩に手を置く。
強くもなく、優しくもなく。
ただ――そこにいる、という感触。
モモジが、わざとらしく空気を変える。
「……まあ、飯でも食おうぜ」
いつもの調子に、少しだけ戻す。
チガヤが小さく頷く。
「そうだね」
ヒシンは、踵を返す。
「いい加減戻るぞ。これ以上ここにいると、本当に首が飛ぶ」
現実的な一言。
四人は、再び歩き出す。
灯りの列を抜け、影の中へ。
だが――
胸に残ったものは、同じではない。
畏れ。
興味。
理解。
そして。
抗いがたい、熱の記憶。
夜風にさらされても消えないそれが、それぞれの内側で、静かに燻り続けていた。




