確かなぬくもり
――息が、戻る。
深い水の底に沈んでいた意識が、ゆっくりと浮かび上がってくる。
重く閉じていたまぶたを、アサはほんの少しだけ持ち上げた。
光が滲む。
白く霞んだ視界の中で、何かが揺れている。
人影だった。
近い。
顔の輪郭さえ、はっきりしない。
ただ、すぐそばで誰かが息をしている。
わずかに乱れた呼吸。
それから――
「……アサ?」
聞こえてきた声は、少し掠れていた。
低い声だった。
落ち着いているようで、その奥には、張りつめたものがある。
その声を聞いた瞬間、ぼやけていた意識のどこかに、ひとつの名前が浮かんだ。
――ミナギ。
けれど、確かめるより先に――
「……ッ」
身体が強く引き寄せられた。
視界が大きく揺れる。
胸元に押しつけられ、息が詰まった。
背中に回された腕が、容赦なく身体を抱き込んでいる。
強い。
あまりにも強くて、少し苦しい。
けれど――嫌ではなかった。
「……よかった……」
耳元で、低い声が落ちる。
押し殺した声だった。
アサは瞬きをした。
耳のすぐそばに、ミナギの息がかかる。
その呼吸が、ほんの少し震えている。
ミナギが。
あのミナギが。
震えている。
そのことに気づいた瞬間、胸の奥がきゅっと締めつけられた。
アサは、まだ思うように動かない指をゆっくりと持ち上げる。
確かめたかった。
夢ではないと。
幻ではないと。
指先が、震えながら背中に触れる。
衣の感触。
その下にある身体。
そして――確かな体温。
温かい。
生きている人の熱だった。
その瞬間、胸の奥で張り詰めていたものが、ふっと緩んだ。
「……ミナギ……」
声になったのは、ほんのかすかな囁きだった。
それでも――
ミナギには届いた。
背中に回された腕が、びくりと震える。
その腕に、さらに力が込められた。
まるで、腕の力を少しでも緩めれば、この身体がまた自分の手から消えてしまうとでも思っているようだった。
その抱き方が、言葉よりも雄弁に伝えている。
――怖かったのだ。
失うことが。
もう間に合わないかもしれないことが。
「……二度と」
耳元で、ミナギが呟いた。
けれど、その先が続かない。
アサは黙ったまま、その声を待った。
ミナギの喉がかすかに動く。
何かを飲み込むように、一度、息を止める。
そして――
「……こんな真似はするな」
低い声が落ちた。
叱るような言葉だった。
けれど、怒っているのではない。
責めているのでもない。
アサは、何も言わなかった。
代わりに、ミナギの背に触れていた指を、ほんの少しだけ握る。
その小さな動きを感じたのか、ミナギの身体がわずかに強張った。
そして――
抱く腕が、ほんの少しだけ震えた。
アサは目を閉じる。
今は、言葉などいらない気がした。
ただ、この腕の中にいる。
それだけでいい。
ミナギの胸に頬を押しつける。
耳を澄ませば、鼓動が聞こえた。
どくん。
どくん。
少し速い。
――生きている。
この人は、生きている。
失われてはいない。
ここにいる。
触れられる。
声が聞こえる。
温もりがある。
そして――
自分も、ここにいる。
それがようやく、身体の奥まで届いた。
張りつめていたものが、ひとつずつほどけていく。
息苦しさを覚えるほど強く抱きしめられている。
それでも、嫌ではなかった。
むしろ、その強すぎるほどの腕が、今のアサには必要だった。
もう離れていないと確かめるように。
ここにいるのだと教えてくれるように。
アサはその温もりに、静かに身を委ねた。
胸の奥に、温かなものが満ちていく。
それは、喜びというより――
ようやく帰ってこられたという、深い安堵だった。
今は、それだけでよかった。
二人とも、生きている。
二人とも、ここにいる。
それだけで――十分だった。




