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アマガタリ  作者: ひよりの
第二章
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確かなぬくもり



 ――息《いき》が、戻《もど》る。


 深《ふか》い水《みず》の底《そこ》に沈《しず》んでいた意識《いしき》が、ゆっくりと浮《う》かび上《あ》がってくる。


 重《おも》く閉《と》じていたまぶたを、アサはほんの少《すこ》しだけ持《も》ち上《あ》げた。



 光《ひかり》が滲《にじ》む。


 白《しろ》く霞《かす》んだ視界《しかい》の中《なか》で、何《なに》かが揺《ゆ》れている。


 人影《ひとかげ》だった。


 近《ちか》い。


 顔《かお》の輪郭《りんかく》さえ、はっきりしない。


 ただ、すぐそばで誰《だれ》かが息《いき》をしている。


 わずかに乱《みだ》れた呼吸《こきゅう》。


 それから――


「……アサ?」


 聞《き》こえてきた声《こえ》は、少《すこ》し掠《かす》れていた。


 低《ひく》い声《こえ》だった。


 落《お》ち着《つ》いているようで、その奥《おく》には、張《は》りつめたものがある。


 その声《こえ》を聞《き》いた瞬間《しゅんかん》、ぼやけていた意識《いしき》のどこかに、ひとつの名前《なまえ》が浮《う》かんだ。



 ――ミナギ。



 けれど、確《たし》かめるより先《さき》に――


「……ッ」


 身体《からだ》が強《つよ》く引《ひ》き寄《よ》せられた。


 視界《しかい》が大《おお》きく揺《ゆ》れる。


 胸元《むなもと》に押《お》しつけられ、息《いき》が詰《つ》まった。


 背中《せなか》に回《まわ》された腕《うで》が、容赦《ようしゃ》なく身体《からだ》を抱《だ》き込《こ》んでいる。


 強《つよ》い。


 あまりにも強《つよ》くて、少《すこ》し苦《くる》しい。


 けれど――嫌《いや》ではなかった。


「……よかった……」


 耳元《みみもと》で、低《ひく》い声《こえ》が落《お》ちる。


 押《お》し殺《ころ》した声《こえ》だった。


 

 アサは瞬《まばた》きをした。


 耳《みみ》のすぐそばに、ミナギの息《いき》がかかる。


 その呼吸《こきゅう》が、ほんの少《すこ》し震《ふる》えている。


 ミナギが。


 あのミナギが。


 震《ふる》えている。


 そのことに気《き》づいた瞬間《しゅんかん》、胸《むね》の奥《おく》がきゅっと締《し》めつけられた。


 アサは、まだ思《おも》うように動《うご》かない指《ゆび》をゆっくりと持《も》ち上《あ》げる。


 確《たし》かめたかった。


 夢《ゆめ》ではないと。


 幻《まぼろし》ではないと。


 指先《ゆびさき》が、震《ふる》えながら背中《せなか》に触《ふ》れる。


 衣《ころも》の感触《かんしょく》。


 その下《した》にある身体《からだ》。


 そして――確《たし》かな体温《たいおん》。



 温《あたた》かい。


 生《い》きている人《ひと》の熱《ねつ》だった。


 その瞬間《しゅんかん》、胸《むね》の奥《おく》で張《は》り詰《つ》めていたものが、ふっと緩《ゆる》んだ。


「……ミナギ……」


 声《こえ》になったのは、ほんのかすかな囁《ささや》きだった。


 それでも――


 ミナギには届《とど》いた。


 背中《せなか》に回《まわ》された腕《うで》が、びくりと震《ふる》える。


 その腕《うで》に、さらに力《ちから》が込《こ》められた。


 まるで、腕《うで》の力《ちから》を少《すこ》しでも緩《ゆる》めれば、この身体《からだ》がまた自分《じぶん》の手《て》から消《き》えてしまうとでも思《おも》っているようだった。


 その抱《だ》き方《かた》が、言葉《ことば》よりも雄弁《ゆうべん》に伝《つた》えている。


 ――怖《こわ》かったのだ。


 失《うしな》うことが。


 もう間《ま》に合《あ》わないかもしれないことが。



「……二度《にど》と」


 耳元《みみもと》で、ミナギが呟《つぶや》いた。


 けれど、その先《さき》が続《つづ》かない。


 アサは黙《だま》ったまま、その声《こえ》を待《ま》った。


 ミナギの喉《のど》がかすかに動《うご》く。


 何《なに》かを飲《の》み込《こ》むように、一度《いちど》、息《いき》を止《と》める。


 そして――


「……こんな真似《まね》はするな」


 低《ひく》い声《こえ》が落《お》ちた。


 叱《しか》るような言葉《ことば》だった。


 けれど、怒《おこ》っているのではない。


 責《せ》めているのでもない。


 アサは、何《なに》も言《い》わなかった。


 代《か》わりに、ミナギの背《せ》に触《ふ》れていた指《ゆび》を、ほんの少《すこ》しだけ握《にぎ》る。


 その小《ちい》さな動《うご》きを感《かん》じたのか、ミナギの身体《からだ》がわずかに強張《こわば》った。


 そして――


 抱《だ》く腕《うで》が、ほんの少《すこ》しだけ震《ふる》えた。


 アサは目《め》を閉《と》じる。


 今《いま》は、言葉《ことば》などいらない気《き》がした。


 ただ、この腕《うで》の中《なか》にいる。


 それだけでいい。


 ミナギの胸《むね》に頬《ほお》を押《お》しつける。


 耳《みみ》を澄《す》ませば、鼓動《こどう》が聞《き》こえた。


 どくん。


 どくん。


 少《すこ》し速《はや》い。


 

 ――生《い》きている。


 この人《ひと》は、生《い》きている。


 失《うしな》われてはいない。


 ここにいる。


 触《ふ》れられる。


 声《こえ》が聞《き》こえる。


 温《ぬく》もりがある。


 そして――


 自分《じぶん》も、ここにいる。


 それがようやく、身体《からだ》の奥《おく》まで届《とど》いた。


 張《は》りつめていたものが、ひとつずつほどけていく。


 息苦《いきぐる》しさを覚《おぼ》えるほど強《つよ》く抱《だ》きしめられている。


 それでも、嫌《いや》ではなかった。


 むしろ、その強《つよ》すぎるほどの腕《うで》が、今《いま》のアサには必要《ひつよう》だった。


 もう離《はな》れていないと確《たし》かめるように。


 ここにいるのだと教《おし》えてくれるように。


 アサはその温《ぬく》もりに、静《しず》かに身《み》を委《ゆだ》ねた。


 胸《むね》の奥《おく》に、温《あたた》かなものが満《み》ちていく。


 それは、喜《よろこ》びというより――


 ようやく帰《かえ》ってこられたという、深《ふか》い安堵《あんど》だった。


 今《いま》は、それだけでよかった。


 二人《ふたり》とも、生《い》きている。


 二人《ふたり》とも、ここにいる。


 それだけで――十分《じゅうぶん》だった。



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