代償
闇の底で、声がしていた。
遠く。
けれど、はっきりと。
――ミナギ。
何度も。
何度も。
そのたびに、沈みかけた意識が少しずつ引き上げられる。
冷え切った闇の中に、かすかな熱が差し込む。
誰かが触れている気配。
押し戻されるような感覚。
――離れるな。
言葉ではない。
だが、確かにそう伝わってきた。
必死に、その声へ手を伸ばす。
届くはずのない場所なのに。
その声だけは、決して途切れなかった。
(……アサ)
名を思い浮かべた瞬間――
意識が浮かび上がる。
息を吸う。
肺が焼けるように痛んだ。
だが――
呼吸が通る。
目を開ける。
見えたのは天井だった。
見慣れているはずなのに、やけに遠く感じる。
身体は重い。
けれど。
さっきまでまとわりついていた何かがない。
あれほど身体の奥を蝕んでいたものが。
――消えている。
(……どういうことだ)
考えるより先に違和感が走った。
胸の奥が、ぽっかり空いたような感覚。
そして――
揺れる視界の先に、一人の少女が倒れていた。
(……アサ!)
その周りには侍女たちが集まっていた。
青ざめた顔で息を呑む者。
膝をつき、アサの肩や背に手を添える者。
だがミナギは、そんな様子を見る余裕もなかった。
跳ね起きるように身体を起こす。
「……ッ」
視界が揺れる。
足元も定まらない。
「殿! 急に動かれては――」
クラジが慌てて声を上げる。
だが、ミナギは聞いていなかった。
真っ直ぐアサへ向かう。
そして、その前に膝をついた。
震える手で身体に触れる。
アサの顔は汗で濡れていた。
乱れた髪が額に張りついている。
けれど――
身体に熱がない。
「……アサ」
呼ぶ声に焦りが滲む。
返事はない。
肩を掴む。
揺する。
それでも反応はなかった。
熱がない。
いや――違う。
触れた瞬間、分かった。
これは冷えているのではない。
――燃え尽きかけている。
「……何をした」
答えは返らない。
だが、分かってしまう。
自分の中にあったはずの何かが消えている。
あれほど絡みついていた黒いものが。
跡形もなく。
その代わりに――
目の前の少女が倒れている。
理解は、一瞬だった。
夢の中で何度も聞こえた声。
引き戻される感覚。
――すべてが繋がる。
「……馬鹿なことを」
声が震えた。
王としての声ではない。
一人の男の声だった。
抱き起こした指先に、かすかな熱が残っている。
その事実が胸に重く沈む。
「……アサ」
もう一度、名を呼ぶ。
消えかけた現実を繋ぎ止めるように。
身体を抱く腕に力が入る。
喉が詰まる。
それでも、無理やり声を押し出した。
「……行くな」
掠れた声だった。
「行かないでくれ――」
命令ではない。
懇願ですらない。
ただの本音だった。
ミナギは腕を回し、アサを抱き寄せる。
細い身体を胸に引き寄せるように。
強く。
逃がさないように。
額を寄せる。
息が触れるほど近くで、その存在を確かめる。
――まだ、ここにいる。
それでいい。
それだけでいい。
他には何もいらない。
遅すぎることくらい分かっている。
それでも――
ここで手を離すくらいなら。
王であることなど、どうでもいい。
国も。
責も。
未来も。
全部いらない。
お前さえ、ここにいてくれるなら。
だから――
どこにも行くな。
ここにいろ。
俺の手の届く場所に。
その想いを、言葉の代わりに腕へ込める。
離した瞬間に終わってしまう気がした。
だから。
その温もりが消えないように。
失わないように。
ミナギは、ただ強く抱きしめ続けた。




