炎舞
「タヅマ様、私――できます」
アサの声は、迷いのかけらもなく、覚悟に満ちていた。
「ミナギ様に取り憑いている影を、私が引き剥がします」
タヅマは眉を僅かに寄せる。
「──なんと……一体何が見えておられるので?」
だが、目を逸らさずに彼女を見据えた。
「……黒いモヤモヤ……何か、形ははっきりしませんが――ミナギ様を苦しめているものです」
アサは言葉に詰まりながらも、その瞳には強い決意が光っている。
タヅマは落ち着いた声音でアサに問う。
「……詳しくお聞かせくだされ」
声の端に、冷静さと鋭い洞察が潜む。
アサはまっすぐ寝台の主を見つめる。
苦しげに身を微かに揺らしながら、荒い呼吸を繰り返すミナギ。
その胸の奥、身体の内側で渦巻く、黒い靄。
視線を逸らすことなく、アサはその輪郭を口にする。
「――牙が……互い違いに組み合わさっているような形が見えます……それから……」
言葉を選び、ぎこちなく続ける。
「……黒い髑髏」
牙が互い違いに合わさった形――
それは――狗奴国の文様だった。
タヅマの脳裏に、暗い予感がよぎる。
そして、黒い髑髏。
呪い――
まさか。
「私なら、焼き払えるかもしれません」
重臣クラジは、一瞬言葉を失った。
目を見開き、呟くように漏らす。
「何をたわけたことを……」
荒唐無稽、非現実――
しかし、事態の緊迫さがそれを超えている。
タヅマは目を閉じ、深く息を吸い込む。
迷いの猶予はない。
寝台のミナギの姿を見つめる。
命の灯が、今にも掻き消えそうに揺れている。
可能性が少しでもあるならば、すべてを託すべきだと判断する。
そして、静かに口を開いた。
「──では……頼みましたぞ」
「はい」
アサの返事には力がみなぎり、確かな覚悟が込められていた。
寝台のミナギの傍らに、簡易的な祭壇が整えられ、香が静かに焚かれる。
微かに立ち上る白い煙が、室内を満たす。
その前に、まっすぐ立つアサは、上質な白い布で仕立てられた巫女装束を身に纏っていた。
ゆったりとした袖は、少し動くだけで風を孕んでふわりと広がる。
「何をするつもりだ?」
クラジの声には、疑念と警戒が混ざっていた。
「――踊ります」
アサの声は低く、しかし決然としている。
その一言に、侍女や兵たちは息を飲み、場は騒然となる。
アサは大きく息を吸い込み、胸元の赤い瑪瑙に指をかける。
(母様……見守って)
頭の中で、亡き母を想う。
冷たくも確かなその石が、彼女の掌の中で小さく振動するように感じられ、心を鼓舞する。
ゆっくりと足を踏み出す。
最初の動きはわずかにぎこちない。
腕は空気を掴むように広がり、指先は宙をなぞる。
だが、徐々に足取り軽やかに、しかし確実に床を踏みしめるたび、身体の内側から熱が溢れ出す。
肩や腰の動きは炎のように波打ち、指先や手首の旋回は煙の渦を描くかのように流麗だ。
次第に舞は激しさを増す。
見る者を捉えて離さない何かが、その動きのひとつひとつから立ち昇る。
目はアサから離せず、呼吸を忘れたように人々は静止する。
腕は振り下ろされ、足は宙を蹴る。
アサの髪や衣は舞の勢いに揺れ、空気の振動が微かに香の煙を揺らす。
その姿はもはや、単なる舞踊ではなく、内に宿る炎そのもの。
見る者の心を揺さぶり、息を呑ませる。
部屋の隅々にまで、彼女の意志と力の余韻が満ちる。
そんなアサの舞を見守りつつ、タヅマは静かに部屋を後にした。
自室の小さな文机に膝をつき、平らに置かれた麻紙に筆を取る。
迷いはなく、しかし慎重に、筆を走らせる。
書き終えると、紙をくるりと巻き、細い紐で結ぶ。
羽を休めていたムスビの元へ行くと、その紐を静かに足首に巻きつける。
その手つきは、緊張と敬意を伴っていた。
ムスビの小さな瞳が瞬き、羽根がわずかに震える。
「頼みましたぞ……」
タヅマの声は低く、落ち着いているが、言葉の奥には深い願いがこもる。
ムスビは軽く一声鳴き、地面を蹴るように力強く羽ばたく。
瞬く間に高く舞い、やがて見えなくなるほど遠くへ。
タヅマはその背を見つめ、心の奥で、委ねた願いが無事に届くよう、
静かに――
しかし力強く祈りを込めていた。
舞を続ける中で、アサの身体と意識は、自然と深い集中の境地に入っていた。
瞬間――室内の空気が重く、黒い帷のように垂れこめる。
まるで闇そのものがアサを取り込もうと這い上がってくるかのようだった。
視界は歪み、呼吸が胸に引っかかる。
焼けるようで、凍るようで、全身の神経が鋭く疼く。
――だが、その感覚を拒まない。
絡みついてくるそれを、逆に掴み取ろうとする。
アサは深く息を吸い込み、胸の奥に宿る熱と血の流れを意識する。
体内の細胞が震え、心臓の脈拍が耳の奥で響く感覚。
濁り、歪み、異物――
それを剥がす。
黒く渦巻く影を、指先で掴むように、意識の端まで届ける。
決意とともに意思を集中させた瞬間、激しい抵抗が走る。
「……ッ!」
手を伸ばすと、それは強く絡みつき、皮膚の奥に食い込む。
侵食する力に抗うため、肩から指先まで、筋肉のひとつひとつに力を満たす。
(ミナギから、離れろ……!)
言葉ではなく、意思そのもので掴む。
――引く。
無理やりに、しかし揺るぎなく。
裂けるような痛みが腕に走り、千切れるような感触が手のひらに伝わる。
次の瞬間。
闇の塊が、重く鈍く――
音もなく、空間から外れた。
「……っ、は……」
ミナギの胸の上下がゆっくりと戻り、呼吸のリズムが確かに整う。
「おおっ」
見守る者たちから、驚きと安堵が混じった声が漏れ、室内に緊張の余韻と共に震えが走る。
アサの膝はわずかに崩れかけ、全身の力が抜けていく。
だが、倒れることはない。
まだ終わりではない――
焼き切るまで、完全に断つまでは。
足元から背筋、指先まで残る熱を意識しながら、アサは踊り続ける。
髪や衣が汗で張り付く感触も、空気を切る音も、すべてが一体となる。
――この手を、絶対に離さない。
力だけでなく、意志と覚悟が、舞そのものに宿る。
炎のように揺れるその身体から、黒い闇を焼き尽くす力が放たれているかのようだった。




