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アマガタリ  作者: ひよりの
第二章
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68/136

見えたもの

 


 寝台《しんだい》に横《よこ》たわるミナギの呼吸《こきゅう》は荒《あら》く、途切《とぎ》れがちだった。


 胸《むね》は苦《くる》しそうに大《おお》きく上下《じょうげ》し、そのたびに喉《のど》の奥《おく》からかすかな音《おと》が漏《も》れる。



 ――一日目《いちにちめ》。


 ミナギには、まだ言葉《ことば》を返《かえ》す力《ちから》が残《のこ》っていた。


 だが、その声《こえ》は弱《よわ》い。


 熱《ねつ》は高《たか》かった。


 肌《はだ》に触《ふ》れれば焼《や》けるようなのに、指先《ゆびさき》だけは冷《つめ》たい。


 薬師《くすし》のトグサは何度《なんど》も脈《みゃく》を取《と》り、額《ひたい》に手《て》を当《あ》てた。


 そして首《くび》をひねる。


 煎《せん》じた薬《くすり》を飲《の》ませる。


 けれど薬《くすり》が喉《のど》を通《とお》るたび、ミナギの呼吸《こきゅう》は乱《みだ》れ、顔《かお》がわずかに歪《ゆが》んだ。


 効《き》いている様子《ようす》は――ない。



 その夜《よる》、タヅマの祈祷《きとう》が行《おこな》われた。


 低《ひく》く長《なが》い祈《いの》りの詞《ことば》が、宮中《きゅうちゅう》に響《ひび》く。


 火《ひ》が揺《ゆ》れ、煙《けむり》がゆっくりと立《た》ち昇《のぼ》る。


 だが――


 ミナギの呼吸《こきゅう》は変《か》わらなかった。


 むしろ胸《むね》の内側《うちがわ》を何《なに》かが締《し》め付《つ》けるように、呼吸《こきゅう》はさらに浅《あさ》く、速《はや》くなっていく。



 ――二日目《ふつかめ》。


 もう言葉《ことば》は、ほとんど出《で》なかった。


 呼《よ》びかけにも応《おう》じない。


 苦《くる》しそうな吐息《といき》だけが漏《も》れる。


 寝台《しんだい》の上《うえ》で身体《からだ》が小《ちい》さく跳《は》ねる。


 内側《うちがわ》から押《お》し上《あ》げられるような震《ふる》えだった。


 侍女《じじょ》が布《ぬの》を替《か》え、汗《あせ》を拭《ぬぐ》う。


 だが拭《ぬぐ》ったそばから、また汗《あせ》が滲《にじ》み出《で》る。


 薬師《くすし》は薬《くすり》の配合《はいごう》を変《か》えた。


 熱《ねつ》を下《さ》げる薬《くすり》。


 痛《いた》みを和《やわ》らげる薬《くすり》。


 乱《みだ》れた気《き》を整《ととの》える薬《くすり》。


 考《かんが》えられる限《かぎ》りの手《て》を尽《つ》くした。


 それでも――


 脈《みゃく》は乱《みだ》れたままだった。


 弱《よわ》くなり、不規則《ふきそく》に跳《は》ねる。



 タヅマの祈祷《きとう》も再《ふたた》び行《おこな》われた。


 今度《こんど》はさらに強《つよ》く。


 神《かみ》をその身《み》に招《まね》くかのような気迫《きはく》で。


 声《こえ》は荒《あ》れ、額《ひたい》には汗《あせ》が滲《にじ》む。


 指先《ゆびさき》まで震《ふる》えていた。


 それでも――


 何《なに》も変《か》わらない。


 ミナギの苦《くる》しみは深《ふか》まるばかりだった。



 そして――三日目《みっかめ》。


 もはや意識《いしき》はほとんどない。


 半《なか》ば閉《と》じた瞳《ひとみ》は焦点《しょうてん》を結《むす》ばず、時折《ときおり》かすかに揺《ゆ》れるだけ。


 呼吸《こきゅう》だけが荒《あら》く続《つづ》いていた。


 胸《むね》が大《おお》きく上下《じょうげ》するたび、喉《のど》の奥《おく》から小《ちい》さな音《おと》が漏《も》れる。


 言葉《ことば》ではない。


 ただ痛《いた》みだけが形《かたち》になったような音《おと》だった。


 肌《はだ》は青白《あおじろ》い。


 血《ち》の気《け》はすっかり失《うしな》われていた。



 宮《みや》の者《もの》たちは、もう声《こえ》も出《だ》せなかった。


 ただ祈《いの》ることしかできない。


 薬師《くすし》は黙《だま》っていた。


 打《う》つ手《て》が残《のこ》されていないことを、誰《だれ》より知《し》っている顔《かお》だった。


 タヅマもまた長《なが》く頭《こうべ》を垂《た》れたまま、なかなか顔《かお》を上《あ》げられない。


 重《おも》い沈黙《ちんもく》が部屋《へや》を満《み》たしていた。


 その中心《ちゅうしん》で、ミナギの呼吸《こきゅう》だけが続《つづ》いている。


 今《いま》にも途切《とぎ》れそうで。


 それでも、かろうじて繋《つな》がっている。



 やがて――


 沈黙《ちんもく》を破《やぶ》るように、薬師《くすし》がゆっくり口《くち》を開《ひら》いた。



「――今宵《こよい》が、峠《とうげ》となりましょう」



 その言葉《ことば》は刃《やいば》のように場《ば》へ落《お》ちた。


 声《こえ》を殺《ころ》して嘆《なげ》く者《もの》。


 眉《まゆ》を深《ふか》く寄《よ》せる者《もの》。


 唇《くちびる》を強《つよ》く噛《か》み締《し》める者《もの》。


 誰《だれ》もが、自分《じぶん》の無力《むりょく》さを噛《か》みしめていた。



 空気《くうき》は重《おも》く沈《しず》み、息《いき》を吸《す》うことさえためらわれる。


 その中《なか》で、アサの意識《いしき》がふらりと揺《ゆ》れた。


 耳《みみ》に届《とど》くはずの音《おと》が遠《とお》くなる。


 視界《しかい》の輪郭《りんかく》がぼやける。


 胸《むね》の奥《おく》に重《おも》い石《いし》が沈《しず》むような苦《くる》しさが広《ひろ》がっていった。



 そんな――



 アサは必死《ひっし》に顔《かお》を上《あ》げた。


 そして引《ひ》き寄《よ》せられるように、寝台《しんだい》のミナギを見《み》る。



 ――その時《とき》だった。



 アサには見《み》えた。


 黒《くろ》く渦巻《うずま》く影《かげ》。


 煙《けむり》のようで、霧《きり》のようで、はっきりした形《かたち》はない。


 だが確《たし》かに、それはミナギの身体《からだ》を内側《うちがわ》から締《し》め付《つ》けていた。


 心《こころ》まで食《く》い尽《つ》くそうとする何《なに》か。



 アサは息《いき》を呑《の》んだ。


 驚愕《きょうがく》と恐怖《きょうふ》に駆《か》られ、周囲《しゅうい》へ視線《しせん》を走《はし》らせる。


 ――だが。


 誰《だれ》も見《み》ていない。


 寝台《しんだい》のそばにいる志摩《しま》は、ただミナギの青白《あおじろ》い顔《かお》を見《み》つめている。


 臣下《しんか》たちも、現実《げんじつ》の容態《ようだい》について低《ひく》く話《はな》しているだけだった。


 兵《へい》たちも沈《しず》んだ顔《かお》で立《た》ち尽《つ》くしている。


 誰一人《だれひとり》として、その黒《くろ》い影《かげ》に気《き》づいていない。



 アサの喉《のど》が小《ちい》さく震《ふる》えた。


(……誰《だれ》にも……見《み》えてないの……?)


 その時《とき》、タヅマが重臣《じゅうしん》のクラジと小声《こごえ》で話《はな》しているのが目《め》に入《はい》った。



 ――言《い》おうか。



 いや。


 言《い》えない。


 口《くち》にした瞬間《しゅんかん》、自分《じぶん》の無力《むりょく》さまでさらしてしまう気《き》がした。


 タヅマも深《ふか》い落胆《らくたん》の中《なか》にいるように見《み》える。


 どうすれば――


 胸《むね》の奥《おく》で絶望《ぜつぼう》と焦《あせ》りが渦《うず》を巻《ま》く。



 でも。


 このままでは、ミナギは――


 指先《ゆびさき》が震《ふる》えた。


 止《と》めようとしても止《と》まらない。


 怖《こわ》い。


 胸《むね》の奥《おく》が冷《つめ》たくなる。


 けれど。


 アサはその思《おも》いを振《ふ》り払《はら》った。



 ――違《ちが》う。


 怖《こわ》くない。


 こんな恐《おそ》れなど、どうでもいい。


 誰《だれ》に咎《とが》められようと。


 自分《じぶん》がどうなろうと。


 本当《ほんとう》に恐《おそ》ろしいのは――


 ミナギを失《うしな》うことだ。



 アサはゆっくり息《いき》を吸《す》った。


 目《め》を伏《ふ》せる。


 そして静《しず》かに開《ひら》いた。



 その時《とき》だった。


 胸元《むなもと》の赤《あか》い瑪瑙《めのう》が、かすかに脈打《みゃくう》った。


 まるで生《い》き物《もの》のように。


 応《こた》えるように。


 どくり、と。


 確《たし》かな反応《はんのう》が返《かえ》ってくる。


 同時《どうじ》に――


 意識《いしき》の奥《おく》に、ひとつの光景《こうけい》が浮《う》かび上《あ》がった。



 揺《ゆ》れる炎《ほのお》。


 円《えん》を描《えが》くように踏《ふ》みしめる足《あし》。


 風《かぜ》を切《き》る腕《うで》の軌跡《きせき》。


 母《はは》の姿《すがた》だった。


 なぜ今《いま》、この記憶《きおく》がよみがえるのか。


 それはわからない。


 だが、ただの思《おも》い出《で》ではなかった。


 魔《ま》を祓《はら》う炎《ほのお》。


 穢《けが》れを焼《や》く炎《ほのお》。


 邪《じゃ》なるものを退《しりぞ》ける炎《ほのお》。


 その力《ちから》が、身体《からだ》の奥《おく》へ流《なが》れ込《こ》んでくる。


 考《かんが》えるより先《さき》に。


 理屈《りくつ》ではなく感覚《かんかく》として。


(……できる)


 理由《りゆう》はない。


 確《たし》かな根拠《こんきょ》もない。


 それでも。


(……私《わたし》ならできる。ミナギを救《すく》える……)


 そう思《おも》えた。


 胸《むね》の奥《おく》で、何《なに》かが静《しず》かに定《さだ》まる。


 迷《まよ》いが消《き》えていく。


 アサは一歩《いっぽ》、前《まえ》へ踏《ふ》み出《だ》した。




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