見えたもの
寝台に横たわるミナギの呼吸は荒く、途切れがちだった。
胸は苦しそうに大きく上下し、そのたびに喉の奥からかすかな音が漏れる。
――一日目。
ミナギには、まだ言葉を返す力が残っていた。
だが、その声は弱い。
熱は高かった。
肌に触れれば焼けるようなのに、指先だけは冷たい。
薬師のトグサは何度も脈を取り、額に手を当てた。
そして首をひねる。
煎じた薬を飲ませる。
けれど薬が喉を通るたび、ミナギの呼吸は乱れ、顔がわずかに歪んだ。
効いている様子は――ない。
その夜、タヅマの祈祷が行われた。
低く長い祈りの詞が、宮中に響く。
火が揺れ、煙がゆっくりと立ち昇る。
だが――
ミナギの呼吸は変わらなかった。
むしろ胸の内側を何かが締め付けるように、呼吸はさらに浅く、速くなっていく。
――二日目。
もう言葉は、ほとんど出なかった。
呼びかけにも応じない。
苦しそうな吐息だけが漏れる。
寝台の上で身体が小さく跳ねる。
内側から押し上げられるような震えだった。
侍女が布を替え、汗を拭う。
だが拭ったそばから、また汗が滲み出る。
薬師は薬の配合を変えた。
熱を下げる薬。
痛みを和らげる薬。
乱れた気を整える薬。
考えられる限りの手を尽くした。
それでも――
脈は乱れたままだった。
弱くなり、不規則に跳ねる。
タヅマの祈祷も再び行われた。
今度はさらに強く。
神をその身に招くかのような気迫で。
声は荒れ、額には汗が滲む。
指先まで震えていた。
それでも――
何も変わらない。
ミナギの苦しみは深まるばかりだった。
そして――三日目。
もはや意識はほとんどない。
半ば閉じた瞳は焦点を結ばず、時折かすかに揺れるだけ。
呼吸だけが荒く続いていた。
胸が大きく上下するたび、喉の奥から小さな音が漏れる。
言葉ではない。
ただ痛みだけが形になったような音だった。
肌は青白い。
血の気はすっかり失われていた。
宮の者たちは、もう声も出せなかった。
ただ祈ることしかできない。
薬師は黙っていた。
打つ手が残されていないことを、誰より知っている顔だった。
タヅマもまた長く頭を垂れたまま、なかなか顔を上げられない。
重い沈黙が部屋を満たしていた。
その中心で、ミナギの呼吸だけが続いている。
今にも途切れそうで。
それでも、かろうじて繋がっている。
やがて――
沈黙を破るように、薬師がゆっくり口を開いた。
「――今宵が、峠となりましょう」
その言葉は刃のように場へ落ちた。
声を殺して嘆く者。
眉を深く寄せる者。
唇を強く噛み締める者。
誰もが、自分の無力さを噛みしめていた。
空気は重く沈み、息を吸うことさえためらわれる。
その中で、アサの意識がふらりと揺れた。
耳に届くはずの音が遠くなる。
視界の輪郭がぼやける。
胸の奥に重い石が沈むような苦しさが広がっていった。
そんな――
アサは必死に顔を上げた。
そして引き寄せられるように、寝台のミナギを見る。
――その時だった。
アサには見えた。
黒く渦巻く影。
煙のようで、霧のようで、はっきりした形はない。
だが確かに、それはミナギの身体を内側から締め付けていた。
心まで食い尽くそうとする何か。
アサは息を呑んだ。
驚愕と恐怖に駆られ、周囲へ視線を走らせる。
――だが。
誰も見ていない。
寝台のそばにいる志摩は、ただミナギの青白い顔を見つめている。
臣下たちも、現実の容態について低く話しているだけだった。
兵たちも沈んだ顔で立ち尽くしている。
誰一人として、その黒い影に気づいていない。
アサの喉が小さく震えた。
(……誰にも……見えてないの……?)
その時、タヅマが重臣のクラジと小声で話しているのが目に入った。
――言おうか。
いや。
言えない。
口にした瞬間、自分の無力さまでさらしてしまう気がした。
タヅマも深い落胆の中にいるように見える。
どうすれば――
胸の奥で絶望と焦りが渦を巻く。
でも。
このままでは、ミナギは――
指先が震えた。
止めようとしても止まらない。
怖い。
胸の奥が冷たくなる。
けれど。
アサはその思いを振り払った。
――違う。
怖くない。
こんな恐れなど、どうでもいい。
誰に咎められようと。
自分がどうなろうと。
本当に恐ろしいのは――
ミナギを失うことだ。
アサはゆっくり息を吸った。
目を伏せる。
そして静かに開いた。
その時だった。
胸元の赤い瑪瑙が、かすかに脈打った。
まるで生き物のように。
応えるように。
どくり、と。
確かな反応が返ってくる。
同時に――
意識の奥に、ひとつの光景が浮かび上がった。
揺れる炎。
円を描くように踏みしめる足。
風を切る腕の軌跡。
母の姿だった。
なぜ今、この記憶がよみがえるのか。
それはわからない。
だが、ただの思い出ではなかった。
魔を祓う炎。
穢れを焼く炎。
邪なるものを退ける炎。
その力が、身体の奥へ流れ込んでくる。
考えるより先に。
理屈ではなく感覚として。
(……できる)
理由はない。
確かな根拠もない。
それでも。
(……私ならできる。ミナギを救える……)
そう思えた。
胸の奥で、何かが静かに定まる。
迷いが消えていく。
アサは一歩、前へ踏み出した。




