怨嗟
志摩とミナギの距離は、すでに限りなく消えかけていた。
その一線の上で。
――刹那。
ミナギはふいに視線を外した。
ほんの小さな動きだったが、すべてを断ち切るには十分だった。
「……すまん」
低く、抑えた声。
志摩の動きが、ぴたりと止まる。
「――今宵は、少し疲れている」
言葉は穏やかだが、明確に一線を引く響き。
甘やかに満ちかけていた空気が、すっと引いていく。
志摩は一瞬だけ息を止めた。
胸の奥で何かがわずかに軋む。
だが、すぐに整える。
「……そう、ですか」
声は静かで、乱れはない。
ミナギは壁から身を離し、すくっと立ち上がった。
先ほどまでの緩みは、もうどこにもない。
「悪いが、今日はこれで――」
その時。
ふらり、と視界が歪んだ。
足元が、崩れる。
「―――」
膝が床を打つ。
鈍い音。
志摩の顔色が一瞬で変わる。
「ミナギ様――!?」
駆け寄る。
ミナギは片手を床についたまま、動かない。
いや、動けない。
肩が――震えている。
小刻みに。
抑えきれないほどに。
「……来るな」
低く、押し殺した声。
だが、その声自体が揺れている。
志摩は足を止めるが、目を逸らさない。
「何が――」
言い終わる前に。
ミナギの喉がひくりと引き攣る。
次の瞬間。
「――ッ、ぐ……!」
吐き出されたものが、床に散った。
黒い。
濁った、赤黒い液。
異様な色。
異様な気配。
志摩の呼吸が止まる。
「……な……」
言葉にならない。
ミナギは片手で口元を押え、荒い呼吸を繰り返す。
指の隙間から、なおも黒い血が滴る。
床に落ちたそれは、じわりと広がり――
わずかに、蠢くように見えた。
「……くそ……」
低く、掠れた声。
体の震えが、止まらない。
まるで内側から何かに掴まれているように。
志摩は、蒼白なまま一歩踏み出す。
「ミナギ様!」
今度は止まらない。
迷いなく、その側へ膝をつく。
「触れるな――」
拒む声。
だが、力がない。
「――人を呼んで参ります!」
志摩の声が、鋭く響いた。
次の瞬間には、もう動いている。
迷いも躊躇もなく、戸口へと駆ける。
足音が、遠ざかる。
――静寂。
取り残されたのは、ミナギひとり。
「……っ、は……」
呼吸が荒い。
肩が大きく上下し、息を吸うたびに喉がひりつく。
吐き出す息は浅く、細く、まともに整わない。
その時。
視界の端で、黒い影がゆらりと揺れた。
灯りの届かぬ隅から、滲み出るように。
耳元――いや、頭の内側に直接触れるように、声が落ちる。
――殺したな
――奪ったな
低く、湿った響き。
逃げ場のない囁きが、まとわりつく。
――我が名も、息も、未来も
――すべて、断ち切ったのは貴様だ
胸の奥が、ぎしりと軋む。
その声を、ミナギは知っていた。
忘れるはずがない。
狗奴国の王子。
――久志奈。
ミナギ自らが討ち取ったはずの男。
その声だった。
――返せ
――血で返せ
――その命で償え
黒く、重い怨嗟の奔流。
意志を持った泥のように蠢きながら、ミナギの内側へと流れ込む。
歯を食いしばる。
「……黙れ……!」
喉の奥から絞り出すような声。
だが、その抵抗を嘲るように――
――黙るものか
――刻み込め
怨嗟は、さらに深く食い込んでくる。
ミナギの体は、なおも震え続ける。
まるで体の内側を掴まれ、無理やり揺さぶられているような震え。
肺が焼ける。
息を吸っても足りない。
何度吸っても、胸の苦しさは消えなかった。
視界が揺れる。
足元から力が抜けていく。
体が傾き、支えを失った。
ゆっくりと。
抗う力もないまま、崩れ落ちていく。
床が近づく。
遠のいていく意識の中でも、怨嗟の声だけははっきりと響いていた。
――逃げ切れると思うな
――最後の一息まで、離さぬ
ミナギは歯を食いしばる。
だが、その力さえ失われていく。
最後に、かすかな息が漏れた。
そして――
ミナギは床に伏した。




