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アマガタリ  作者: ひよりの
第二章
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怨嗟



 志摩《しま》とミナギの距離《きょり》は、すでに限《かぎ》りなく消《き》えかけていた。


 その一線《いっせん》の上《うえ》で。


 ――刹那《せつな》。


 ミナギはふいに視線《しせん》を外《はず》した。


 ほんの小《ちい》さな動《うご》きだったが、すべてを断《た》ち切《き》るには十分《じゅうぶん》だった。


「……すまん」


 低《ひく》く、抑《おさ》えた声《こえ》。


 志摩《しま》の動《うご》きが、ぴたりと止《と》まる。


「――今宵《こよい》は、少《すこ》し疲《つか》れている」


 言葉《ことば》は穏《おだ》やかだが、明確《めいかく》に一線《いっせん》を引《ひ》く響《ひび》き。


 甘《あま》やかに満《み》ちかけていた空気《くうき》が、すっと引《ひ》いていく。


 志摩《しま》は一瞬《いっしゅん》だけ息《いき》を止《と》めた。


 胸《むね》の奥《おく》で何《なに》かがわずかに軋《きし》む。


 だが、すぐに整《ととの》える。


「……そう、ですか」


 声《こえ》は静《しず》かで、乱《みだ》れはない。


 ミナギは壁《かべ》から身《み》を離《はな》し、すくっと立《た》ち上《あ》がった。


 先《さき》ほどまでの緩《ゆる》みは、もうどこにもない。


「悪《わる》いが、今日《きょう》はこれで――」



 その時《とき》。


 ふらり、と視界《しかい》が歪《ゆが》んだ。


 足元《あしもと》が、崩《くず》れる。


「―――」


 膝《ひざ》が床《ゆか》を打《う》つ。


 鈍《にぶ》い音《おと》。


 志摩《しま》の顔色《かおいろ》が一瞬《いっしゅん》で変《か》わる。


「ミナギ様《さま》――!?」


 駆《か》け寄《よ》る。


 ミナギは片手《かたて》を床《ゆか》についたまま、動《うご》かない。


 いや、動《うご》けない。


 肩《かた》が――震《ふる》えている。


 小刻《こきざ》みに。


 抑《おさ》えきれないほどに。


「……来《く》るな」


 低《ひく》く、押《お》し殺《ころ》した声《こえ》。


 だが、その声《こえ》自体《じたい》が揺《ゆ》れている。


 志摩《しま》は足《あし》を止《と》めるが、目《め》を逸《そ》らさない。


「何《なに》が――」


 言《い》い終《お》わる前《まえ》に。


 ミナギの喉《のど》がひくりと引《ひ》き攣《つ》る。


 次《つぎ》の瞬間《しゅんかん》。


「――ッ、ぐ……!」


 吐《は》き出《だ》されたものが、床《ゆか》に散《ち》った。


 黒《くろ》い。


 濁《にご》った、赤黒《あかぐろ》い液《えき》。


 異様《いよう》な色《いろ》。


 異様《いよう》な気配《けはい》。


 志摩《しま》の呼吸《こきゅう》が止《と》まる。


「……な……」


 言葉《ことば》にならない。


 ミナギは片手《かたて》で口元《くちもと》を押《おさ》え、荒《あら》い呼吸《こきゅう》を繰《く》り返《かえ》す。


 指《ゆび》の隙間《すきま》から、なおも黒《くろ》い血《ち》が滴《したた》る。


 床《ゆか》に落《お》ちたそれは、じわりと広《ひろ》がり――


 わずかに、蠢《うごめ》くように見《み》えた。


「……くそ……」


 低《ひく》く、掠《かす》れた声《こえ》。


 体《からだ》の震《ふる》えが、止《と》まらない。


 まるで内側《うちがわ》から何《なに》かに掴《つか》まれているように。


 志摩《しま》は、蒼白《そうはく》なまま一歩《いっぽ》踏《ふ》み出《だ》す。


「ミナギ様《さま》!」


 今度《こんど》は止《と》まらない。


 迷《まよ》いなく、その側《そば》へ膝《ひざ》をつく。


「触《ふ》れるな――」


 拒《こば》む声《こえ》。


 だが、力《ちから》がない。


「――人《ひと》を呼《よ》んで参《まい》ります!」


 志摩《しま》の声《こえ》が、鋭《するど》く響《ひび》いた。


 次《つぎ》の瞬間《しゅんかん》には、もう動《うご》いている。


 迷《まよ》いも躊躇《ちゅうちょ》もなく、戸口《とぐち》へと駆《か》ける。


 足音《あしおと》が、遠《とお》ざかる。

 


 ――静寂《せいじゃく》。


 取《と》り残《のこ》されたのは、ミナギひとり。


「……っ、は……」


 呼吸《こきゅう》が荒《あら》い。


 肩《かた》が大《おお》きく上下《じょうげ》し、息《いき》を吸《す》うたびに喉《のど》がひりつく。


 吐《は》き出《だ》す息《いき》は浅《あさ》く、細《ほそ》く、まともに整《ととの》わない。



 その時《とき》。


 視界《しかい》の端《はし》で、黒《くろ》い影《かげ》がゆらりと揺《ゆ》れた。


 灯《あか》りの届《とど》かぬ隅《すみ》から、滲《にじ》み出《だ》るように。


 耳元《みみもと》――いや、頭《あたま》の内側《うちがわ》に直接《ちょくせつ》触《ふ》れるように、声《こえ》が落《お》ちる。



 ――殺《ころ》したな


 ――奪《うば》ったな



 低《ひく》く、湿《しめ》った響《ひび》き。


 逃《に》げ場《ば》のない囁《ささや》きが、まとわりつく。

 


 ――我《わ》が名《な》も、息《いき》も、未来《みらい》も


 ――すべて、断《た》ち切《き》ったのは貴様《きさま》だ



 胸《むね》の奥《おく》が、ぎしりと軋《きし》む。



 その声《こえ》を、ミナギは知《し》っていた。


 忘《わす》れるはずがない。


 狗奴国《くなこく》の王子《おうじ》。


 ――久志奈《くしな》。


 ミナギ自《みずか》らが討《う》ち取《と》ったはずの男《おとこ》。


 その声《こえ》だった。




 ――返《かえ》せ


 ――血《ち》で返《かえ》せ


 ――その命《いのち》で償《つぐな》え



 黒《くろ》く、重《おも》い怨嗟《えんさ》の奔流《ほんりゅう》。


 意志《いし》を持《も》った泥《どろ》のように蠢《うごめ》きながら、ミナギの内側《うちがわ》へと流《なが》れ込《こ》む。


 歯《は》を食《く》いしばる。


「……黙《だま》れ……!」


 喉《のど》の奥《おく》から絞《しぼ》り出《だ》すような声《こえ》。


 だが、その抵抗《ていこう》を嘲《あざけ》るように――



 ――黙《だま》るものか


 ――刻《きざ》み込《こ》め



 怨嗟《えんさ》は、さらに深《ふか》く食《く》い込《こ》んでくる。


 ミナギの体《からだ》は、なおも震《ふる》え続《つづ》ける。


 まるで体《からだ》の内側《うちがわ》を掴《つか》まれ、無理《むり》やり揺《ゆ》さぶられているような震《ふる》え。


 肺《はい》が焼《や》ける。


 息《いき》を吸《す》っても足《た》りない。


 何度《なんど》吸《す》っても、胸《むね》の苦《くる》しさは消《き》えなかった。


 視界《しかい》が揺《ゆ》れる。


 足元《あしもと》から力《ちから》が抜《ぬ》けていく。


 体《からだ》が傾《かたむ》き、支《ささ》えを失《うしな》った。


 ゆっくりと。


 抗《あらが》う力《ちから》もないまま、崩《くず》れ落《お》ちていく。


 床《ゆか》が近《ちか》づく。


 遠《とお》のいていく意識《いしき》の中《なか》でも、怨嗟《えんさ》の声《こえ》だけははっきりと響《ひび》いていた。



 ――逃《に》げ切《き》れると思《おも》うな


 ――最後《さいご》の一息《ひといき》まで、離《はな》さぬ



 ミナギは歯《は》を食《く》いしばる。


 だが、その力《ちから》さえ失《うしな》われていく。


 最後《さいご》に、かすかな息《いき》が漏《も》れた。


 そして――


 ミナギは床《ゆか》に伏《ふ》した。




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