胸に沈むもの (※ミナギ視点)
伊都国との結びつきを強める。
それは、投馬国の未来を守るために必要な一手だった。
誰よりも、ミナギ自身が分かっていた。
国と国を結ぶ。
争いを避ける。
民を守る。
王として、それ以上に大切なものなどない。
そう、何度も自分に言い聞かせた。
王である限り――自分の心ひとつで、国の未来を変えることなどできない。
夜更けの宮。
灯火の揺れる明かりを見つめながら、何度も繰り返した。
何度も。
何度も。
なのに――
廊を歩くたび、無意識に一人の姿を探してしまう。
(……忘れろ)
そう命じても、心は言うことを聞かなかった。
王である前に。
自分もまた、一人の人間なのだと。その事実だけは、どうしても消せなかった。
その日。
視線の先に、アサの姿を見つけた。
一瞬だけ、胸が高鳴る。
だが、すぐにその気持ちを押し込めた。
近づく。
足は、考えるより先に動いていた。
「そこにいたか」
呼び止める。
本当は違う。
名前を呼びたかった。
何でもない話をしたかった。
だが、もうそんなことを許される立場ではない。
「用件を伝える」
口から出た言葉は淡々としていた。
まるで、知らない相手に向けるような声だった。
距離を置かなければならない。
そうしなければ、自分が揺らいでしまう。
中途半端な優しさは、アサをさらに苦しめるだけだ。
志摩に対しても、誠実ではない。
優しくしてはいけない。
期待させてはいけない。
そう思っていた。
――そう思っていたはずだった。
「今後、お前の役目を一部変える」
言葉にした瞬間、胸の奥が締めつけられる。
外の務めへ回す。
自分から遠ざけるための配置だった。
アサの表情は変わらなかった。
それが、苦しかった。
泣いてくれればよかった。
怒ってくれればよかった。
そうすれば、まだ何か言えたかもしれない。
だが彼女は――
「承知いたしました」
完璧な侍女の顔をした。
そこに、自分だけが知っているアサはいなかった。
胸の奥が痛む。
違う。
そうじゃない。
そんな顔をさせたいわけではなかった。
なのに。
自分がそうさせた。
「……なぜ、ですか」
静かな問いに、息が詰まりそうになる。
「必要な判断だ」
嘘ではない。
だが、本当の理由を口にできるはずがなかった。
お前を見ていると苦しいからだ。
傍に置けば、手を伸ばしたくなるからだ。
そんな理由を、どうして言える。
「それは、国のためですか」
まっすぐな瞳が、自分を見る。
その澄んだ瞳から、逃げたくなった。
弱い自分の心を、見透かされている気がした。
すべてが国のためなら。
こんなにも苦しくはない。
これは、自分の心を捨てるためだ。
アサを傷つける自分を、正しいと思い込むためだ。
それでも。
「それ以外に、何がある」
心を殺す。
自分でも驚くほど冷たい声だった。
その瞬間。
アサの瞳から、何かが消えた。
だが、それでいい。
嫌われた方がいい。
恨まれた方がいい。
そうすれば、いつか忘れてもらえる。
「……そう、ですね」
アサは一歩下がり、深く礼をした。
距離を置くための礼。
王と侍女として、正しい距離。
望んだはずのものだった。
なのに。
なぜ、こんなにも苦しい。
通り過ぎようとした、その時だった。
「――ミナギ様」
足が止まる。
振り返れない。
振り返れば、すべてが崩れてしまう気がした。
「何だ」
声だけを返す。
「おめでとうございます」
一瞬――何を言われたのか分からなかった。
祝いの言葉。
それは王へ向けたものだった。
けれど、その奥に隠された痛みも。
願いも。
すべて伝わってしまった。
「……ああ」
それしか言えなかった。
情けない。
王としてではなく。
一人の男として。
何もできない。
歩き出す。
足音だけが、静かな廊に響く。
遠ざかるほどに、胸の奥が苦しくなる。
――これでいい。
これで国は守られる。
アサも、いつか幸せになれる。
そう思おうとする。
なのに。
最後に見た彼女の姿が、頭から離れない。
完璧な礼。
揺れない声。
何も求めない瞳。
拳を強く握る。
爪が掌に食い込む。
痛みで、心を押さえつける。
それでも、足は重かった。
誰もいない中庭へ出る。
ようやく、息を吐いた。
苦しい。
戦で傷を負った時よりも。
ずっと苦しい。
敵は、どこにもいない。
いるのは――
自分の心だけだった。
ミナギは歩みを止めずに進む。
王として。
伊都国との未来へ向かうために。
ただ一人の心を、置き去りにしたまま。
――アサ。
呼びたい名前を、胸の奥だけで呼ぶ。
もう二度と。
口にしてはいけない名前として。
空を見上げる。
雲の向こうで、夕日が沈みかけていた。
まるで何かの終わりを告げるように。
赤い光だけが、静かに宮を染めていた。




