胸に沈むもの
その話は、ほどなく宮中に広まった。
廊下の端で、侍女たちが声をひそめて話している。
「……志摩様との婚姻が、正式に……」
「やっぱり、そうなるわよねぇ」
その言葉のかけらが、風に乗るようにアサの耳へ届いた。
――その瞬間。
胸の奥に、重いものが落ちた。
ずしり、と。
足が止まる。
息が、うまく吸えない。
心臓の音だけが、やけに大きく耳に響く。
指先から、少しずつ力が抜けていく。
立っているはずの足元が、遠く感じる。
アサは、どうにか息を吸った。
細く、かすれるように。
無理やり、胸の奥へ押し込む。
痛いほどに。
視線を上げた――その時。
「そこにいたか」
呼び止められた。
低く、抑えた声。
振り返るまでもない。
ゆっくりと向き直る。
目が合いそうになった瞬間――ミナギはわずかに視線をそらした。
それだけで、胸の奥がきしむ。
だが、顔には出さない。
「用件を伝える」
声は淡々としていた。
あまりに事務的だった。
「今後、お前の役目を一部変える」
短く、必要なことだけ。
アサは黙って聞く。
「志摩殿が宮に入った後は、内の仕事も変わる。お前は――」
一瞬、言葉が切れた。
「外の務めに回ってもらう」
それは、距離を置く配置だった。
はっきりとした線引き。
(……やっぱり)
胸の奥で、何かが静かに沈む。
それでも――
「承知いたしました」
声は、揺れなかった。
ミナギの指が、かすかに動く。
だが、それだけだった。
「以上だ」
それで終わるはずだった。
本来なら。
――なのに。
「……なぜ、ですか」
気づけば、言葉がこぼれていた。
自分でも驚くほど静かな声だった。
ミナギの肩が、わずかに固まる。
沈黙。
やがて――
「必要な判断だ」
それだけ。
理由にはなっていないことは分かる。
アサは一歩、前に出る。
「それは、国のため、ですか」
ミナギは、すぐに答えない。
代わりに、ゆっくりとアサを見る。
初めて、真正面から。
その目は、静かすぎた。
「それ以外に、何がある」
刃のような言葉だった。
「……そう、ですね」
アサはそれ以上、聞かなかった。
「では、そのように」
一歩下がり、礼をする。
完璧な距離。
完璧な作法。
ミナギは、その隙のない振る舞いを見留めると、何も言わずに通り過ぎる。
「――ミナギ様」
静かな声が背中に届く。
足が止まる。
振り返らずに、ミナギが答える。
「何だ」
感情のない声。
アサは一歩だけ近づいた。
「おめでとうございます」
その言葉は、まっすぐだった。
偽りではない。
ただ、自分で選んだ言葉だった。
少しの沈黙。
やがて――
「……ああ」
短く、それだけが返る。
衣の裾がわずかに揺れ、足音だけが静かに遠ざかっていった。
その背中が見えなくなっても、アサはその場を動けなかった。
さっきまで確かにあった気配だけが、薄くその空間に残っている。
まるで、自分だけが取り残されたようだった。
風が一筋通り抜け、衣の裾をわずかに揺らして、すぐに消えていく。
それだけのことなのに、胸の奥が小さく揺れた。
残っているものがある。
熱を持っているのに、冷たい。
手で触れられないのに、そこにあることだけは分かる。
それが、ゆっくりと沈んでいく。
深く、底のない場所へ落ちていくように。
体はここに立っているのに、感覚だけが少しずつ遠のいていく。
音も、光も、どこか薄くなったようだった。
――これで、良かったんだよね。
心の中でだけ、言葉が落ちる。
声にはならない。
ただ、自分にそう言い聞かせる。
そうするしかなかった。
そうでなければ、立っていられなかった。
アサは、ゆっくりと息を吸った。
浅く、確かに。
そして、歩き出した。
胸の奥に残った痛みは消えない。
それでも――少しずつ、遠くへ引いていく。
まるで最初から、そこには何もなかったように。




