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アマガタリ  作者: ひよりの
第二章
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胸に沈むもの



 その話《はなし》は、ほどなく宮中《きゅうちゅう》に広《ひろ》まった。


 廊下《ろうか》の端《はし》で、侍女《じじょ》たちが声《こえ》をひそめて話《はな》している。


「……志摩《しま》様《さま》との婚姻《こんいん》が、正式《せいしき》に……」


「やっぱり、そうなるわよねぇ」


 その言葉《ことば》のかけらが、風《かぜ》に乗《の》るようにアサの耳《みみ》へ届《とど》いた。


 ――その瞬間《しゅんかん》。


 胸《むね》の奥《おく》に、重《おも》いものが落《お》ちた。


 ずしり、と。


 足《あし》が止《と》まる。


 息《いき》が、うまく吸《す》えない。


 心臓《しんぞう》の音《おと》だけが、やけに大《おお》きく耳《みみ》に響《ひび》く。


 指先《ゆびさき》から、少《すこ》しずつ力《ちから》が抜《ぬ》けていく。


 立《た》っているはずの足元《あしもと》が、遠《とお》く感《かん》じる。



 アサは、どうにか息《いき》を吸《す》った。


 細《ほそ》く、かすれるように。


 無理《むり》やり、胸《むね》の奥《おく》へ押《お》し込《こ》む。


 痛《いた》いほどに。


 視線《しせん》を上《あ》げた――その時《とき》。


「そこにいたか」


 呼《よ》び止《と》められた。


 低《ひく》く、抑《おさ》えた声《こえ》。


 振《ふ》り返《かえ》るまでもない。


 ゆっくりと向《む》き直《なお》る。


 目《め》が合《あ》いそうになった瞬間《しゅんかん》――ミナギはわずかに視線《しせん》をそらした。


 それだけで、胸《むね》の奥《おく》がきしむ。


 だが、顔《かお》には出《だ》さない。



「用件《ようけん》を伝《つた》える」


 声《こえ》は淡々(たんたん)としていた。


 あまりに事務的《じむてき》だった。


「今後《こんご》、お前《まえ》の役目《やくめ》を一部《いちぶ》変《か》える」


 短《みじか》く、必要《ひつよう》なことだけ。


 アサは黙《だま》って聞《き》く。


「志摩殿《しまどの》が宮《みや》に入《はい》った後《あと》は、内《うち》の仕事《しごと》も変《か》わる。お前《まえ》は――」


 一瞬《いっしゅん》、言葉《ことば》が切《き》れた。


「外《そと》の務《つと》めに回《まわ》ってもらう」


 それは、距離《きょり》を置《お》く配置《はいち》だった。


 はっきりとした線引《せんび》き。


(……やっぱり)


 胸《むね》の奥《おく》で、何《なに》かが静《しず》かに沈《しず》む。


 それでも――


「承知《しょうち》いたしました」


 声《こえ》は、揺《ゆ》れなかった。


 ミナギの指《ゆび》が、かすかに動《うご》く。


 だが、それだけだった。


「以上《いじょう》だ」


 それで終《お》わるはずだった。


 本来《ほんらい》なら。


 ――なのに。


「……なぜ、ですか」


 気《き》づけば、言葉《ことば》がこぼれていた。


 自分《じぶん》でも驚《おどろ》くほど静《しず》かな声《こえ》だった。


 ミナギの肩《かた》が、わずかに固《かた》まる。



 沈黙《ちんもく》。


 やがて――


「必要《ひつよう》な判断《はんだん》だ」


 それだけ。


 理由《りゆう》にはなっていないことは分《わ》かる。


 アサは一歩《いっぽ》、前《まえ》に出《で》る。


「それは、国《くに》のため、ですか」


 ミナギは、すぐに答《こた》えない。


 代《か》わりに、ゆっくりとアサを見《み》る。


 初《はじ》めて、真正面《しょうめん》から。

 

 その目《め》は、静《しず》かすぎた。


「それ以外《いがい》に、何《なに》がある」


 刃《やいば》のような言葉《ことば》だった。



「……そう、ですね」


 アサはそれ以上《いじょう》、聞《き》かなかった。


「では、そのように」


 一歩《いっぽ》下《さ》がり、礼《れい》をする。


 完璧《かんぺき》な距離《きょり》。


 完璧《かんぺき》な作法《さほう》。


 ミナギは、その隙《すき》のない振《ふ》る舞《ま》いを見《み》留《と》めると、何《なに》も言《い》わずに通《とお》り過《す》ぎる。



「――ミナギ様《さま》」


 静《しず》かな声《こえ》が背中《せなか》に届《とど》く。


 足《あし》が止《と》まる。


 振《ふ》り返《かえ》らずに、ミナギが答《こた》える。


「何《なん》だ」


 感情《かんじょう》のない声《こえ》。


 アサは一歩《いっぽ》だけ近《ちか》づいた。


「おめでとうございます」


 その言葉《ことば》は、まっすぐだった。


 偽《いつわ》りではない。


 ただ、自分《じぶん》で選《えら》んだ言葉《ことば》だった。



 少《すこ》しの沈黙《ちんもく》。


 やがて――


「……ああ」


 短《みじか》く、それだけが返《かえ》る。


 衣《ころも》の裾《すそ》がわずかに揺《ゆ》れ、足音《あしおと》だけが静《しず》かに遠《とお》ざかっていった。




 その背中《せなか》が見《み》えなくなっても、アサはその場《ば》を動《うご》けなかった。


 さっきまで確《たし》かにあった気配《けはい》だけが、薄《うす》くその空間《くうかん》に残《のこ》っている。


 まるで、自分《じぶん》だけが取《と》り残《のこ》されたようだった。



 風《かぜ》が一筋《ひとすじ》通《とお》り抜《ぬ》け、衣《ころも》の裾《すそ》をわずかに揺《ゆ》らして、すぐに消《き》えていく。


 それだけのことなのに、胸《むね》の奥《おく》が小《ちい》さく揺《ゆ》れた。


 残《のこ》っているものがある。


 熱《ねつ》を持《も》っているのに、冷《つめ》たい。


 手《て》で触《ふ》れられないのに、そこにあることだけは分《わ》かる。


 それが、ゆっくりと沈《しず》んでいく。


 深《ふか》く、底《そこ》のない場所《ばしょ》へ落《お》ちていくように。


 体《からだ》はここに立《た》っているのに、感覚《かんかく》だけが少《すこ》しずつ遠《とお》のいていく。


 音《おと》も、光《ひかり》も、どこか薄《うす》くなったようだった。



 ――これで、良《よ》かったんだよね。



 心《こころ》の中《なか》でだけ、言葉《ことば》が落《お》ちる。


 声《こえ》にはならない。


 ただ、自分《じぶん》にそう言《い》い聞《き》かせる。


 そうするしかなかった。


 そうでなければ、立《た》っていられなかった。


 

 アサは、ゆっくりと息《いき》を吸《す》った。


 浅《あさ》く、確《たし》かに。


 そして、歩《ある》き出《だ》した。



 胸《むね》の奥《おく》に残《のこ》った痛《いた》みは消《き》えない。


 それでも――少《すこ》しずつ、遠《とお》くへ引《ひ》いていく。


 まるで最初《さいしょ》から、そこには何《なに》もなかったように。







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