糸を手繰る
夜の宮は深い水の底に沈んだような静けさに包まれていた。
篝火が揺れ、部屋の床に長い影を落としている。
宇良は、ひとり部屋にいた。
長い黒髪を垂らし、手にした木の櫛をゆっくりと通している。
髪を撫でる音だけが、静かな夜に、かすかな波のように広がる。
夜は嫌いではない。
人の声が途絶える夜は、昼間よりもずっと多くのものが見える。
――だからこそ。
宇良は、背後に生じた僅かな気配にも気づいていた。
布が擦れる音。
ほんの僅かな音だった。
普通なら、風の音に紛れてしまうほどのもの。
宇良は櫛を止めない。
振り返ることもしない。
ただ、櫛を髪に通し続けた。
やがて。
闇の奥から、影が滑るように現れる。
黒い衣は月の光に溶け、形がはっきりしない。
影は音もなく立ち止まる。
宇良のすぐ背後。
深く被った頭巾。
その奥に沈む顔。
そして、そこに浮かぶ奇妙な面。
渦を巻くような模様が刻まれた面には、表情らしい表情がない。
中央に開いた二つの黒い穴だけが、こちらを見つめている。
覗き込めば、こちらの心まで吸い込まれてしまいそうな昏さを湛えている。
宇良はゆっくりと櫛を止めた。
髪から離し、静かに振り返る。
その瞳は冷たく澄んでいた。
男は何も言わず、膝をついた。
「阿久良様より、言付けを預かっております」
低い声だった。
感情がない。
まるで人の声ではなく、闇そのものが言葉を発したかのようだった。
――奴国王、阿久良。
宇良の実の兄であり、冷酷な知略を巡らす、蛇のごとき油断ならぬ男。
兄妹はよく似ていた。
「……相変わらず、夜這い鳥のように忍び込むのがお上手ね」
宇良の口元に、かすかな笑みが浮かんだ。
「それで、御用件は?」
男は淡々《たんたん》と答えた。
「狗奴国の情勢についてです」
「……聞きましょう」
「二年前の先王崩御以来、かの国を二分していた王位争いは――此度、地方有力豪族カダンが制しました」
一瞬だけ、宇良の櫛を持つ指が止まった。
「カダン……」
「はい。王位を簒奪する形で即位いたしました」
宇良は目を細める。
狗奴国。
投馬国と緊張関係にある、南の大国。
その国で王が変わった。
それは、ただの玉座の交代ではない。
王が変われば、国の欲望も変わる。
戦を好む者が王となれば、国境はたちまち騒がしくなる。
「野心に満ち、戦への衝動も強い……というわけね」
「はい。されど、力を求める者であるがゆえに、操ることも容易かと」
「……なるほど」
宇良は小さく笑った。
「兄上らしいこと」
「阿久良様は、この混迷の最中に介入し、奴国の影響を狗奴国へ及ぼすお考えです」
「……混乱の中に、さらに混乱を重ねる……」
宇良は指先で髪を撫でた。
「兄上は相変わらず、人の心を糸のように操るのがお好きね」
声には親しみがなかった。
兄を思う妹の声音ではない。
蛇を見つめる者のような、冷やかな警戒だけがあった。
男は次の言葉を告げる。
「そのうえで、宇良様には投馬国の宮中について、これまで以上に詳しく探るよう仰せです」
「これまで以上に?」
「宮中の内情を逐一探るのみならず、特定の重臣へ深く食い込み、その動向を掌握せよ、と」
男はわずかに顔を上げた。
「とりわけ、警戒の薄い高官や側近が狙い目にございます」
宇良は、ふっと息を吐いた。
「軽々と言ってくださるわね……」
櫛を指先で弄ぶ。
その木の感触を確かめるように、ゆっくりと回した。
「ミナギ様が王座に就かれてから、宮中は変わったわ」
宇良の視線が、暗い室内の向こうへ向けられる。
「警備も、家臣の引き締めも、以前とは比べものにならないほど厳しくなった」
溜息混じりの言葉に、疲弊と棘を滲ませる。
「おいそれと潜り込めるような、甘い場所ではないのよ」
男は何も答えない。
ただ、次の言葉を待っている。
宇良はしばらく黙っていた。
やがて――
「……まあ、いいでしょう」
薄い笑みが浮かぶ。
「骨の折れるお使いですけれど」
櫛を脇へ置く。
「兄上のご期待には、添えてみせますわ」
男は深く頭を下げた。
次の瞬間。
影が揺れた。
男は立ち上がることさえせず、そのまま闇へ溶け込むように後退していく。
月明かりの境目を越えたところで、その姿は完全に見えなくなった。
あとには、何事もなかったかのような静寂だけが残された。
宇良はしばらく動かなかった。
やがて、櫛をそっと置き、窓の外へ目を向けた。
風が頬をかすかに撫でる。
かつては隼比古がいた。
彼がいた頃は、宮中の秘密を掴むことも、それほど難しくはなかった。
人の流れ。
誰と誰が親しいのか。
どの重臣が何を欲し、誰を恐れているのか。
隼比古から、そうした情報を自然に集めることができた。
だが。
もう、彼はいない。
一歩間違えば露見し、命に関わる。
宇良の指が、無意識に窓枠を握った。
ミナギの怜悧な瞳を思い出し、背中に、細く寒気が走った。
それでも、阿久良の望みを裏切るわけにはいかない。
宇良はゆっくりと目を閉じた。
頭の中に、一人の男の姿が浮かぶ。
警戒が薄い。
宮中ではそれなりの地位を持つ。
そして何より、宇良とすれ違うたびに衣服の上から貪るような、下卑た視線を隠そうともしない男。
隼比古が消えてからは、その卑しい態度はより一層露骨なものとなっていた。
宇良は、目を開いた。
「あの男なら……」
窓の外へ視線を向ける。
「使えそうね」
口元に、薄い笑みが浮かんだ。
男の欲望。
それは醜い。
だが――醜いからこそ、扱いやすい。
欲しいものが明確な人間ほど、糸を掛けるのは容易い。
宇良はゆっくりと立ち上がった。
黒髪が肩から背へ滑り落ちる。
「蜘蛛が巣を張るように……」
囁く。
「……ゆっくりと、絡め取ってあげる……」
誰に聞かせるでもなく呟いたその言葉は、自らの内に巣食う恐怖を塗りつぶし、冷徹な毒へと変えるための呪文でもあった。
張り詰めた緊張感が、むしろ胸の奥を心地よく痺れさせていく。
静かに笑みを零す宇良の影は、夜の宮中にひそむ秘密を知る者のように、ゆっくりと息を潜め、動き始めた。




