決意
――翌日。
アサは、いつも通り水場へ向かっていた。
井戸の縁を指先でなぞると、石の冷気が、ひやりと肌を刺す。
だがその冷たさも、昨夜、胸の内に渦巻いていたざわめきに比べれば、はるかに穏やかなものだった。
『放っておきなさい』
タヅマの声が、静かに反芻される。
『勝手に育つか、勝手に消えるか』
歩みを緩めることなく、そっと胸元に手を当てる。
そこには、まだ確かに『何か』が居座っている。
小さく、息を吐いた。
「ねえアサ、ちょっと聞いてよ」
背後から弾む声が飛び込む。
振り返ると、ミツがいた。
いつも通り、陽に透けるような明るさをまとった笑顔。
「なに?」
「内緒の話なんだけどさ――」
そう言いながら、すでに顔に
『言いたくて仕方ない』
と書いてある。
「……内緒にならなそう」
「ひどいなあ!」
軽やかな笑い声が弾ける。
そして、ぐっと距離を詰め、声をひそめた。
「実はね――あたし、好きな人がいるの」
「……それって」
「ミナギ様じゃないよ」
先回りするような一言。
その名が出た途端、アサの胸が鋭く跳ねる。
「兵だよ。若いの。ヒシンっていうんだけど」
あっけらかんとした口調。
「背、高いし、顔もいいから、無駄に目立つ奴なんだけどさぁ……」
ミツは、わずかに頬をふくらませた。
「練武場でもさ、すぐ囲まれるんだよ。女の子たちに」
むすっとした顔のまま、ちらりと視線を逸らした。
けれど、その奥にある熱は隠しきれていない。
「――実は、幼なじみなの」
その瞬間、声の響きが変わる。
「同じ村の出でね。一緒に川に入って、怒られて、泥だらけになってさ」
遠い日々をなぞるように、目を細める。
「まさか、こんな場所で会うなんて思わなかったけど」
ふっと、息のように笑う。
「でもね。顔を見た瞬間、分かったの。ああ――この人だ……って」
迷いがない。
確信だけが、そこにある。
言葉は飾らず、それでいて揺るぎなく、真っ直ぐに落ちてくる。
アサは、応じる言葉を持たなかった。
「変かな?」
「……ううん」
かすかに首を振る。
変ではない。
むしろ――
(分かりやすい)
そう思った。
会いたいから、会う。
好きだから、そばにいる。
それだけの、単純で明快な構図。
混じり気がなく、真っ直ぐで――
少し、眩しい。
「アサは?そういう人、いないの?」
不意に向けられる問い。
「え」
「いないならさ、作ればいいじゃん。宮中でも結構あるよ?こっそり、さ」
軽い調子。
悪びれも、迷いもない。
「好きになるのなんて、わりと簡単だって」
――簡単。
その一語が、妙に重く引っかかる。
「……そう、かな」
「そうだよ。顔が良くて、優しくて、ちょっと気にかけてくれたら、それで十分でしょ」
笑いながら言うミツ。
だがその言葉は――
ひとつずつ、確実にアサの胸の奥へ沈んでいく。
(顔が良くて)
(優しくて)
(気にかけてくれて)
すべて、当てはまる。
それなのに。
(……簡単じゃ、ない)
決定的に、違う。
胸を締めつけるような圧迫。
逃げ出したくなる衝動。
それでも視線を逸らせない執着。
こんなものは――
ミツの言うそれとは、まるで別物だ。
「……ねえ、アサ?」
覗き込まれる視線。
「どうしたの、ぼーっとして」
「……なんでもない」
かすかな声で応じる。
だが内側では――
はっきりしてきていた。
これは、「簡単」なものではない。
意志で選べるものでもない。
勝手に生まれて、勝手に大きくなって、勝手に人を振り回すものだ。
『放っておけばいい』
タヅマの言葉が、静かに重なる。
――そうだ。
無理に押し殺さない。
無理に名も与えない。
ただ。
(ちゃんと見る)
胸の奥に居座るそれを。
逃げずに。
目を逸らさずに。
自分のものとして、引き受ける。
指先に、わずかに力がこもる。
どれほど厄介でも、どれほど苦しくても。
これは、自分の中に生まれてしまったものだ。
ならば――
この感情を、抱えたまま歩く。
逃げない。
誤魔化さない。
たとえ、その先で――
何も手に入らなかったとしても。
それでもいい、と。
アサは静かに、腹の底で決めたのだった。




