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アマガタリ  作者: ひよりの
第二章
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決意



 ――翌日《よくじつ》。


 アサは、いつも通《どお》り水場《みずば》へ向《む》かっていた。


 井戸《いど》の縁《ふち》を指先《ゆびさき》でなぞると、石《いし》の冷気《れいき》が、ひやりと肌《はだ》を刺《さ》す。


 だがその冷《つめ》たさも、昨夜《さくや》、胸《むね》の内《うち》に渦巻《うずま》いていたざわめきに比《くら》べれば、はるかに穏《おだ》やかなものだった。



『放《ほう》っておきなさい』


 タヅマの声《こえ》が、静《しず》かに反芻《はんすう》される。


『勝手《かって》に育《そだ》つか、勝手《かって》に消《き》えるか』


 歩《あゆ》みを緩《ゆる》めることなく、そっと胸元《むなもと》に手《て》を当《あ》てる。


 そこには、まだ確《たし》かに『何《なに》か』が居座《いすわ》っている。


 小《ちい》さく、息《いき》を吐《は》いた。


「ねえアサ、ちょっと聞《き》いてよ」


 背後《はいご》から弾《はず》む声《こえ》が飛《と》び込《こ》む。


 振《ふ》り返《かえ》ると、ミツがいた。


 いつも通《どお》り、陽《ひ》に透《す》けるような明《あか》るさをまとった笑顔《えがお》。


「なに?」


「内緒《ないしょ》の話《はなし》なんだけどさ――」


 そう言《い》いながら、すでに顔《かお》に


『言《い》いたくて仕方《しかた》ない』


 と書《か》いてある。


「……内緒《ないしょ》にならなそう」


「ひどいなあ!」


 軽《かろ》やかな笑《わら》い声《ごえ》が弾《はじ》ける。


 そして、ぐっと距離《きょり》を詰《つ》め、声《こえ》をひそめた。


「実《じつ》はね――あたし、好《す》きな人《ひと》がいるの」


「……それって」


「ミナギ様《さま》じゃないよ」


 先回《さきまわ》りするような一言《ひとこと》。


 その名《な》が出《で》た途端《とたん》、アサの胸《むね》が鋭《するど》く跳《は》ねる。


「兵《へい》だよ。若《わか》いの。ヒシンっていうんだけど」


 あっけらかんとした口調《くちょう》。


「背《せ》、高《たか》いし、顔《かお》もいいから、無駄《むだ》に目立《めだ》つ奴《やつ》なんだけどさぁ……」


 ミツは、わずかに頬《ほお》をふくらませた。


「練武場《れんぶじょう》でもさ、すぐ囲《かこ》まれるんだよ。女《おんな》の子《こ》たちに」


 むすっとした顔《かお》のまま、ちらりと視線《しせん》を逸《そ》らした。


 けれど、その奥《おく》にある熱《ねつ》は隠《かく》しきれていない。


「――実《じつ》は、幼《おさな》なじみなの」


 その瞬間《しゅんかん》、声《こえ》の響《ひび》きが変《か》わる。


「同《おな》じ村《むら》の出《で》でね。一緒《いっしょ》に川《かわ》に入《はい》って、怒《おこ》られて、泥《どろ》だらけになってさ」


 遠《とお》い日々(ひび)をなぞるように、目《め》を細《ほそ》める。


「まさか、こんな場所《ばしょ》で会《あ》うなんて思《おも》わなかったけど」


 ふっと、息《いき》のように笑《わら》う。


「でもね。顔《かお》を見《み》た瞬間《しゅんかん》、分《わ》かったの。ああ――この人《ひと》だ……って」


 迷《まよ》いがない。


 確信《かくしん》だけが、そこにある。


 言葉《ことば》は飾《かざ》らず、それでいて揺《ゆ》るぎなく、真《ま》っ直《す》ぐに落《お》ちてくる。


 アサは、応《こた》じる言葉《ことば》を持《も》たなかった。


「変《へん》かな?」 


「……ううん」


 かすかに首《くび》を振《ふ》る。


 変《へん》ではない。


 むしろ――


(分《わ》かりやすい)


 そう思《おも》った。


 会《あ》いたいから、会《あ》う。


 好《す》きだから、そばにいる。


 それだけの、単純《たんじゅん》で明快《めいかい》な構図《こうず》。


 混《ま》じり気《け》がなく、真《ま》っ直《す》ぐで――


 少《すこ》し、眩《まぶ》しい。 


「アサは?そういう人《ひと》、いないの?」


 不意《ふい》に向《む》けられる問い。


「え」


「いないならさ、作《つく》ればいいじゃん。宮中《きゅうちゅう》でも結構《けっこう》あるよ?こっそり、さ」


 軽《かる》い調子《ちょうし》。


 悪《わる》びれも、迷《まよ》いもない。


「好《す》きになるのなんて、わりと簡単《かんたん》だって」


 ――簡単《かんたん》。


 その一語《いちご》が、妙《みょう》に重《おも》く引《ひ》っかかる。


「……そう、かな」


「そうだよ。顔《かお》が良《よ》くて、優《やさ》しくて、ちょっと気《き》にかけてくれたら、それで十分《じゅうぶん》でしょ」


 笑《わら》いながら言《い》うミツ。


 だがその言葉《ことば》は――


 ひとつずつ、確実《かくじつ》にアサの胸《むね》の奥《おく》へ沈《しず》んでいく。



(顔《かお》が良《よ》くて)


(優《やさ》しくて)


(気《き》にかけてくれて)



 すべて、当《あ》てはまる。


 それなのに。


(……簡単《かんたん》じゃ、ない)


 決定的《けっていてき》に、違《ちが》う。


 胸《むね》を締《し》めつけるような圧迫《あっぱく》。


 逃《に》げ出《だ》したくなる衝動《しょうどう》。


 それでも視線《しせん》を逸《そ》らせない執着《しゅうちゃく》。


 こんなものは――


 ミツの言《い》うそれとは、まるで別物《べつもの》だ。


「……ねえ、アサ?」


 覗《のぞ》き込《こ》まれる視線《しせん》。


「どうしたの、ぼーっとして」


「……なんでもない」


 かすかな声《こえ》で応《こた》じる。


 だが内側《うちがわ》では――


 はっきりしてきていた。


 これは、「簡単《かんたん》」なものではない。


 意志《いし》で選《えら》べるものでもない。


 勝手《かって》に生《う》まれて、勝手《かって》に大《おお》きくなって、勝手《かって》に人《ひと》を振《ふ》り回《まわ》すものだ。


『放《ほう》っておけばいい』


 タヅマの言葉《ことば》が、静《しず》かに重《かさ》なる。


 ――そうだ。


 無理《むり》に押《お》し殺《ころ》さない。


 無理《むり》に名《な》も与《あた》えない。


 ただ。


(ちゃんと見《み》る)


 胸《むね》の奥《おく》に居座《いすわ》るそれを。


 逃《に》げずに。


 目《め》を逸《そ》らさずに。


 自分《じぶん》のものとして、引《ひ》き受《う》ける。


 指先《ゆびさき》に、わずかに力《ちから》がこもる。


 どれほど厄介《やっかい》でも、どれほど苦《くる》しくても。


 これは、自分《じぶん》の中《なか》に生《う》まれてしまったものだ。


 ならば――


 この感情《かんじょう》を、抱《かか》えたまま歩《ある》く。


 逃《に》げない。


 誤魔化《ごまか》さない。


 たとえ、その先《さき》で――


 何《なに》も手《て》に入《はい》らなかったとしても。


 それでもいい、と。


 アサは静《しず》かに、腹《はら》の底《そこ》で決《き》めたのだった。



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