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アマガタリ  作者: ひよりの
第二章
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58/141

それの名前



 井戸《いど》の傍《そば》は、冷《ひ》え切《き》っていた。


 石《いし》に溜《た》まった冷気《れいき》が、じわじわと身体《からだ》に染《し》み込《こ》んでくる。


 アサは、その場《ば》に座《すわ》り込《こ》んでいた。膝《ひざ》を抱《かか》え、そこへ額《ひたい》を押《お》しつける。


 息《いき》が浅《あさ》い。


 喉《のど》が詰《つ》まる。



 やがて――


 ぽたり、と涙《なみだ》が落《お》ちた。


 一滴《ひとしずく》。


 遅《おく》れて、二滴《ふたしずく》、三滴《みしずく》。


 止《と》めようとしても、止《と》まらない。



 声《こえ》は出《だ》さなかった。もし出《だ》してしまえば、何《なに》かが決定的《けっていてき》に崩《くず》れてしまう気《き》がした。


 だから、歯《は》を食《く》いしばる。肩《かた》だけが、小刻《こきざ》みに震《ふる》えていた。



(――分《わ》かってた……)


 心《こころ》の中《なか》で、何度《なんど》も繰《く》り返《かえ》す。


(最初《さいしょ》から、分《わ》かってたのに――)


 指先《ゆびさき》に力《ちから》が入《はい》る。爪《つめ》が掌《てのひら》に食《く》い込《こ》んだ。


 それでも、どうにもならない。


 ただ涙《なみだ》だけが落《お》ち続《つづ》け、足元《あしもと》の土《つち》を濡《ぬ》らしていた。





 夜《よる》も更《ふ》け、宮《みや》の灯《あか》りも少《すこ》なくなった頃《ころ》。タヅマの部屋《へや》には、まだ細《ほそ》い灯《ひ》が残《のこ》っていた。


 文机《ふづくえ》に向《む》かい、静《しず》かに筆《ふで》を走《はし》らせている。紙《かみ》を擦《こす》る音《おと》は規則的《きそくてき》で、思考《しこう》の乱《みだ》れを少《すこ》しも感《かん》じさせなかった。


 戸口《とぐち》の外《そと》で、ためらう気配《けはい》が止《と》まる。


「タヅマ様《さま》」


 控《ひか》えめな声《こえ》。


「どうぞ、お入《はい》りなさい」


 筆《ふで》を止《と》めないまま答《こた》える。


 アサはそっと戸《と》を開《あ》け、静《しず》かに中《なか》へ入《はい》った。


「夜分《やぶん》に失礼《しつれい》いたします」


「構《かま》いませんとも。こうして起《お》きておりますゆえ」


 そこでようやく筆《ふで》を置《お》き、顔《かお》を上《あ》げる。 


 泣《な》き腫《は》らしたアサの顔《かお》を見《み》て、タヅマはわずかに目《め》を見開《みひら》いた。


「――これはまた……浮《う》かぬ顔《かお》ですな」 


 アサは少《すこ》し言葉《ことば》に迷《まよ》ってから、ようやく口《くち》を開《ひら》く。


「……あの」 


 その先《さき》が続《つづ》かない。


 珍《めずら》しい、とタヅマは思《おも》った。


「ゆっくりでよろしいですよ。逃《に》げはしません」 


 柔《やわ》らかく促《うなが》す。


 アサは小《ちい》さく息《いき》を吐《は》き、胸元《むなもと》をぎゅっと押《お》さえた。 


「――なんだか、痛《いた》くて……」


 言葉《ことば》を探《さが》すように呟《つぶや》く。


 タヅマは黙《だま》って聞《き》いていた。


「苦《くる》しくて、眠《ねむ》れなくて」


「ほう」


 小《ちい》さく相槌《あいづち》を打《う》つ。  


「ずっと頭《あたま》の中《なか》でぐるぐるしてて――」 


 声《こえ》が少《すこ》し掠《かす》れる。


「ミナギ様《さま》が…志摩様《しまさま》と二人《ふたり》でいるのを見《み》ていると――」


 そこで言葉《ことば》が止《と》まった。


「……辛《つら》くて、嫌《いや》で、たまらなくて……」


 自分《じぶん》でも分《わ》からない。そんな顔《かお》だった。


 タヅマはゆるく頷《うなず》く。


「なるほど」


 そして、小《ちい》さく笑《わら》った。


「では、少《すこ》し整理《せいり》いたしましょうか」


 指先《ゆびさき》で机《つくえ》を、とん、と軽《かる》く叩《たた》く。


「ミナギ様《さま》が、他《ほか》の誰《だれ》かと親《した》しくしておられるのを見《み》て――」


 ひとつずつ、言葉《ことば》を置《お》いていく。


「痛《いた》い」


「……はい」


「苦《くる》しい」


「……はい」


「そして、嫌《いや》でたまらない」


「……それも……はい」


 アサは観念《かんねん》したように、小《ちい》さく頷《うなず》いた。


 タヅマは満足《まんぞく》そうに息《いき》をつく。


「十分《じゅうぶん》ですな」


「え?」


「もう、ほとんど答《こた》えは出《で》ております」


 さらりと言《い》う。


 アサは戸惑《とまど》った。


「ですが、まあ」


 タヅマはわずかに肩《かた》をすくめる。


「ここで、そ(・)れ(・)は(・)何(・)か(・)と名《な》を付《つ》けてしまうのは、あまり感心《かんしん》いたしません」


「どうしてですか」


「簡単《かんたん》です」


 少《すこ》しだけ、意地《いじ》の悪《わる》い笑《え》み。


「名《な》を知《し》れば、人《ひと》はそれに縛《しば》られる」


 アサは黙《だま》る。


「ただ、ひとつだけ確《たし》かなのは――」


 タヅマの視線《しせん》が、真《ま》っすぐアサへ向《む》く。


「あなたは既《すで》に、ミナギ様《さま》を、他(・)と(・)は(・)違(・)う(・)位(・)置(・)に置《お》いている」


 アサの息《いき》が止《と》まった。


「だから、揺《ゆ》れる」


 淡々(たんたん)と告《つ》げる。


「他《ほか》の者《もの》がそこへ近《ちか》づけば、面白《おもしろ》くない。極《きわ》めて自然《しぜん》なことです」 


 アサはしばらく黙《だま》り込《こ》んだあと、ぽつりと呟《つぶや》く。


「……これ、どうすればいいんですか」


 タヅマは少《すこ》し考《かんが》える素振《そぶ》りを見《み》せ、それからふっと笑《わら》った。


「どうもいたしません」 


「え……?」


「放《ほう》っておきなさい」


 きっぱりと言《い》い切《き》る。


「勝手《かって》に育《そだ》つか、勝手《かって》に消《き》えるか、いずれにせよ落《お》ち着《つ》きます」


 ずいぶん雑《ざつ》な言《い》い方《かた》だった。 


 だが、不思議《ふしぎ》と核心《かくしん》を突《つ》いている。


「無理《むり》に消《け》そうとすると、余計《よけい》に騒《さわ》ぎますゆえ」


 アサは胸元《むなもと》へ手《て》を当《あ》てる。


 まだ、ざわざわしている。


 けれど――


 少《すこ》しだけ、自分《じぶん》の気持《きも》ちが分《わ》かった気《き》がした。


「……はい」


 小《ちい》さく頷《うなず》く。


 タヅマは再《ふたた》び筆《ふで》を取《と》り上《あ》げた。


「さて、よろしいですかな」


「はい。ありがとうございました」


 アサは頭《あたま》を下《さ》げ、静《しず》かに部屋《へや》を出《で》ていく。


 戸《と》が閉《し》まる。



 再《ふたた》び、筆《ふで》の音《おと》だけが残《のこ》った。


 タヅマは書《か》きながら、ふと手《て》を止《と》める。


 脳裏《のうり》に浮《う》かぶのは、先《さき》ほどのアサの顔《かお》だった。


 訳《わけ》も分《わ》からぬまま、胸《むね》の痛《いた》みに振《ふ》り回《まわ》されている様子《ようす》。



 小《ちい》さく息《いき》を吐《は》く。


 なかなかに酷《こく》な話《はなし》だ、とタヅマは思《おも》った。


 よりにもよって、相手《あいて》がミナギである。


 王《おう》であり、多《おお》くのものを背負《せお》う男《おとこ》。


 その傍《そば》にいるということは、それだけで心《こころ》を揺《ゆ》さぶられる。


 しかも今《いま》、周囲《しゅうい》は志摩《しま》との縁《えん》を固《かた》めようとして動《うご》いている。


 アサが抱《かか》えた想《おも》いは、あまりにも立場《たちば》が悪《わる》い。


 叶《かな》うかどうか以前《いぜん》に、声《こえ》に出《だ》すことすら難《むずか》しい。



 タヅマは目《め》を伏《ふ》せる。


 少《すこ》しだけ――哀《あわ》れだと思《おも》った。


 けれど同時《どうじ》に、それもまた人《ひと》が生《い》きる上《うえ》で避《さ》けられぬ熱《ねつ》なのだろう、とも思《おも》う。


 やがて彼《かれ》は、再《ふたた》び静《しず》かに筆《ふで》を走《はし》らせ始《はじ》めた。



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