それの名前
井戸の傍は、冷え切っていた。
石に溜まった冷気が、じわじわと身体に染み込んでくる。
アサは、その場に座り込んでいた。膝を抱え、そこへ額を押しつける。
息が浅い。
喉が詰まる。
やがて――
ぽたり、と涙が落ちた。
一滴。
遅れて、二滴、三滴。
止めようとしても、止まらない。
声は出さなかった。もし出してしまえば、何かが決定的に崩れてしまう気がした。
だから、歯を食いしばる。肩だけが、小刻みに震えていた。
(――分かってた……)
心の中で、何度も繰り返す。
(最初から、分かってたのに――)
指先に力が入る。爪が掌に食い込んだ。
それでも、どうにもならない。
ただ涙だけが落ち続け、足元の土を濡らしていた。
夜も更け、宮の灯りも少なくなった頃。タヅマの部屋には、まだ細い灯が残っていた。
文机に向かい、静かに筆を走らせている。紙を擦る音は規則的で、思考の乱れを少しも感じさせなかった。
戸口の外で、ためらう気配が止まる。
「タヅマ様」
控えめな声。
「どうぞ、お入りなさい」
筆を止めないまま答える。
アサはそっと戸を開け、静かに中へ入った。
「夜分に失礼いたします」
「構いませんとも。こうして起きておりますゆえ」
そこでようやく筆を置き、顔を上げる。
泣き腫らしたアサの顔を見て、タヅマはわずかに目を見開いた。
「――これはまた……浮かぬ顔ですな」
アサは少し言葉に迷ってから、ようやく口を開く。
「……あの」
その先が続かない。
珍しい、とタヅマは思った。
「ゆっくりでよろしいですよ。逃げはしません」
柔らかく促す。
アサは小さく息を吐き、胸元をぎゅっと押さえた。
「――なんだか、痛くて……」
言葉を探すように呟く。
タヅマは黙って聞いていた。
「苦しくて、眠れなくて」
「ほう」
小さく相槌を打つ。
「ずっと頭の中でぐるぐるしてて――」
声が少し掠れる。
「ミナギ様が…志摩様と二人でいるのを見ていると――」
そこで言葉が止まった。
「……辛くて、嫌で、たまらなくて……」
自分でも分からない。そんな顔だった。
タヅマはゆるく頷く。
「なるほど」
そして、小さく笑った。
「では、少し整理いたしましょうか」
指先で机を、とん、と軽く叩く。
「ミナギ様が、他の誰かと親しくしておられるのを見て――」
ひとつずつ、言葉を置いていく。
「痛い」
「……はい」
「苦しい」
「……はい」
「そして、嫌でたまらない」
「……それも……はい」
アサは観念したように、小さく頷いた。
タヅマは満足そうに息をつく。
「十分ですな」
「え?」
「もう、ほとんど答えは出ております」
さらりと言う。
アサは戸惑った。
「ですが、まあ」
タヅマはわずかに肩をすくめる。
「ここで、それは何かと名を付けてしまうのは、あまり感心いたしません」
「どうしてですか」
「簡単です」
少しだけ、意地の悪い笑み。
「名を知れば、人はそれに縛られる」
アサは黙る。
「ただ、ひとつだけ確かなのは――」
タヅマの視線が、真っすぐアサへ向く。
「あなたは既に、ミナギ様を、他とは違う位置に置いている」
アサの息が止まった。
「だから、揺れる」
淡々と告げる。
「他の者がそこへ近づけば、面白くない。極めて自然なことです」
アサはしばらく黙り込んだあと、ぽつりと呟く。
「……これ、どうすればいいんですか」
タヅマは少し考える素振りを見せ、それからふっと笑った。
「どうもいたしません」
「え……?」
「放っておきなさい」
きっぱりと言い切る。
「勝手に育つか、勝手に消えるか、いずれにせよ落ち着きます」
ずいぶん雑な言い方だった。
だが、不思議と核心を突いている。
「無理に消そうとすると、余計に騒ぎますゆえ」
アサは胸元へ手を当てる。
まだ、ざわざわしている。
けれど――
少しだけ、自分の気持ちが分かった気がした。
「……はい」
小さく頷く。
タヅマは再び筆を取り上げた。
「さて、よろしいですかな」
「はい。ありがとうございました」
アサは頭を下げ、静かに部屋を出ていく。
戸が閉まる。
再び、筆の音だけが残った。
タヅマは書きながら、ふと手を止める。
脳裏に浮かぶのは、先ほどのアサの顔だった。
訳も分からぬまま、胸の痛みに振り回されている様子。
小さく息を吐く。
なかなかに酷な話だ、とタヅマは思った。
よりにもよって、相手がミナギである。
王であり、多くのものを背負う男。
その傍にいるということは、それだけで心を揺さぶられる。
しかも今、周囲は志摩との縁を固めようとして動いている。
アサが抱えた想いは、あまりにも立場が悪い。
叶うかどうか以前に、声に出すことすら難しい。
タヅマは目を伏せる。
少しだけ――哀れだと思った。
けれど同時に、それもまた人が生きる上で避けられぬ熱なのだろう、とも思う。
やがて彼は、再び静かに筆を走らせ始めた。




