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アマガタリ  作者: ひよりの
第二章
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許される場所



 祝宴《しゅくえん》の熱気《ねっき》がようやく引《ひ》き、宮中《きゅうちゅう》は少《すこ》しずつ夜《よる》の静《しず》けさを取《と》り戻《もど》していた。


 篝火《かがりび》がところどころで揺《ゆ》れ、長《なが》く伸《の》びた回廊《かいろう》の影《かげ》をゆるやかに歪《ゆが》ませている。


 志摩《しま》は、その回廊《かいろう》を一人《ひとり》、静《しず》かに歩《ある》いていた。衣擦《きぬず》れの音《おと》すら抑《おさ》えた足取《あしど》り。宴《うたげ》の余韻《よいん》にも、人々(ひとびと)のざわめきにも興味《きょうみ》はない。


 ただ、熱《ねつ》を冷《さ》ますように、静寂《せいじゃく》の中《なか》へ身《み》を置《お》いていた。


 ――その時《とき》。


 かすかな水音《みずおと》が耳《みみ》に届《とど》いた。


 規則的《きそくてき》に、器《うつわ》と水《みず》が触《ふ》れ合《あ》う音《おと》。視線《しせん》を向《む》けると、回廊《かいろう》の端《はし》にある井戸端《いどばた》で、ひとりの侍女《じじょ》が身《み》を屈《かが》めていた。


 灯《あか》りの届《とど》きにくい場所《ばしょ》で、黙々(もくもく)と器《うつわ》を洗《あら》っている。祝宴《しゅくえん》の時《とき》、広間《ひろま》の隅《すみ》に控《ひか》えていた娘《むすめ》だ。


 酒《さけ》をこぼし、侍女頭《じじょがしら》に厳《きび》しく叱《しか》られていた――その光景《こうけい》が、ふと脳裏《のうり》に浮《う》かぶ。


 そして、その時《とき》に見《み》えたミナギの視線《しせん》。


 ほんのわずかだったが、確《たし》かに案《あん》じる色《いろ》を帯《お》びていた。


 志摩《しま》は足《あし》を止《と》めた。


 観察《かんさつ》するように、その娘《むすめ》を見《み》つめる。


 顔立《かおだ》ちは整《ととの》っている。骨格《こっかく》の均衡《きんこう》も悪《わる》くない。


 けれど、人目《ひとめ》を奪《うば》うほどの華《はな》やかさはない。あくまで、侍(・)女(・)の(・)中(・)で(・)は(・)、という程度《ていど》だ。


 埋《う》もれるほど地味《じみ》でもなく、かといって強《つよ》く際立《きわだ》つわけでもない。


 ――よくいる娘《むすめ》。


 そう結論《けつろん》づけかけた時《とき》だった。


「……あなた」


 気《き》づけば、声《こえ》をかけていた。


 水音《みずおと》が止《と》まる。侍女《じじょ》は振《ふ》り返《かえ》り、志摩《しま》の姿《すがた》を見《み》た瞬間《しゅんかん》、息《いき》を呑《の》んだ。


「し、志摩様《しまさま》……!?」


 慌《あわ》てて膝《ひざ》を折《お》る。その動作《どうさ》には無駄《むだ》がなく、きちんと躾《しつ》けられているのが分《わ》かった。


「楽《らく》にして」


 穏《おだ》やかに言《い》い、志摩《しま》は少《すこ》しだけ距離《きょり》を詰《つ》める。


 圧《あつ》を与《あた》えすぎず、それでいて逃《に》がさない。


 そんな絶妙《ぜつみょう》な間合《まあ》いだった。


「名《な》は?」


「……アサ、と申《もう》します」


 声《こえ》は小《ちい》さい。だが、その奥《おく》には芯《しん》があった。


 怯《おび》えの下《した》に、妙《みょう》な強《つよ》さが潜《ひそ》んでいる。


 志摩《しま》はわずかに目《め》を細《ほそ》めた。


「そう」


 短《みじか》く答《こた》える。


 それ以上《いじょう》、深《ふか》く聞《き》く理由《りゆう》は見当《みあ》たらなかった。


「仕事《しごと》の邪魔《じゃま》をしたわね」


 それだけを残《のこ》し、志摩《しま》は踵《きびす》を返《かえ》す。


 関心《かんしん》は、そこで終《お》える――はずだった。


 だが、数歩《すうほ》進《すす》んだところで、別《べつ》の足音《あしおと》が静寂《せいじゃく》を裂《さ》いた。


 反射的《はんしゃてき》に、志摩《しま》の身体《からだ》が動《うご》く。柱《はしら》の陰《かげ》へ身《み》を寄《よ》せ、気配《けはい》を沈《しず》めた。


 現《あらわ》れた人影《ひとかげ》を見《み》た瞬間《しゅんかん》、息《いき》がわずかに止《と》まる。



 ――ミナギ様《さま》。



 王《おう》自《みずか》らが、こんな夜更《よふ》けに、こんな場所《ばしょ》へ来《く》る。


 理由《りゆう》は、ひとつしかない。


 視線《しせん》を戻《もど》す。


 井戸端《いどばた》のアサは、まだ気《き》づいていない。


「まだやっていたのか」


 低《ひく》く抑《おさ》えた声《こえ》が、夜気《やき》を震《ふる》わせた。


 アサの肩《かた》が、びくりと跳《は》ねる。振《ふ》り返《かえ》る。


 そして――


 その表情《ひょうじょう》が、一瞬《いっしゅん》でほどけた。


 まるで灯《あか》りがともるように、柔《やわ》らかく。


 先《さき》ほど志摩《しま》に向《む》けていた顔《かお》とは、あまりにも違《ちが》う。


 ミナギは井戸端《いどばた》へ歩《あゆ》み寄《よ》り、桶《おけ》の縁《ふち》に手《て》をかけて中《なか》を覗《のぞ》き込《こ》んだ。


 洗《あら》い終《お》えた器《うつわ》が、きちんと重《かさ》ねられている。


「随分《ずいぶん》と働《はたら》き者《もの》になったな」


「……放《ほう》っておいてください」


 アサは、少《すこ》しむくれたように言《い》い返《かえ》した。


 王《おう》に向《む》けるには、明《あき》らかに無遠慮《ぶえんりょ》な口調《くちょう》だった。


 だが――


 ミナギは咎《とが》めない。


 それどころか、口元《くちもと》がわずかに緩《ゆる》む。


「それとも――」


 少《すこ》し間《ま》を置《お》き、視線《しせん》を落《お》とす。


「叱《しか》られ足《た》りなかったか?」


 声《こえ》には、からかうような響《ひび》きが混《ま》じっていた。


 アサの眉《まゆ》がぴくりと動《うご》く。


「広間《ひろま》の端《はし》まで聞《き》こえていたぞ」


「……!」


「『何度言《なんどい》えば分《わ》かるの』『手元《てもと》を見《み》ろ』『お前《まえ》は気《き》が散《ち》りすぎだ』――」


 淡々(たんたん)と再現《さいげん》される言葉《ことば》に、アサの顔《かお》がみるみる赤《あか》くなる。


「ッ……もぉ!やめてってば!」


 思《おも》わず声《こえ》が上《あ》がる。慌《あわ》てて口《くち》を押《お》さえるが、もう遅《おそ》い。


 ミナギは堪《こら》えきれず、小《ちい》さく笑《わら》った。


「随分《ずいぶん》と可愛《かわい》がられているな」


「可愛《かわい》がられてなんかいません!」


 むくれたまま言《い》い返《かえ》す。そこには遠慮《えんりょ》の欠片《かけら》もない。


 ミナギはそんな様子《ようす》を面白《おもしろ》そうに眺《なが》め、少《すこ》し目《め》を細《ほそ》めた。


「まあ、あれだけ派手《はで》に酒《さけ》を撒《ま》けばな」


「誰《だれ》のせいだと――」


 言《い》いかけて、アサははっと口《くち》をつぐむ。


 一瞬《いっしゅん》の沈黙《ちんもく》。


 次《つぎ》の瞬間《しゅんかん》、ミナギが低《ひく》く笑《わら》った。


「言《い》ってみろ」


 その声《こえ》には、隠《かく》しきれない愉快《ゆかい》さが滲《にじ》んでいた。


 アサは唇《くちびる》を引《ひ》き結《むす》び、視線《しせん》を逸《そ》らす。


 言《い》わない。


 そう示《しめ》している。


 その子供《こども》っぽささえ、ミナギは咎《とが》めない。


 距離《きょり》が近《ちか》い。


 言葉《ことば》よりも、その空気《くうき》が何《なに》より語《かた》っていた。


 志摩《しま》は柱《はしら》の陰《かげ》で、静《しず》かに息《いき》を整《ととの》える。


(――成《な》る程《ほど》)


 胸《むね》の奥《おく》に、小《ちい》さな理解《りかい》が落《お》ちた。


 広間《ひろま》で感《かん》じた違和感《いわかん》の正体《しょうたい》。


 あの一瞬《いっしゅん》の視線《しせん》。


 志摩《しま》はもう一度《いちど》、アサを見る。


 先《さき》ほどと同《おな》じ娘《むすめ》。平凡《へいぼん》で、特別《とくべつ》目《め》を引《ひ》くわけではない。


 だが――今《いま》は違《ちが》った。


 輪郭《りんかく》が、わずかに際立《きわだ》って見《み》える。


 ――あれほどの方《かた》が、気《き》にかける娘《むすめ》。


(ただの侍女《じじょ》、ではない)


 ミナギは誰《だれ》に対《たい》しても、深《ふか》く踏《ふ》み込《こ》まず、また踏《ふ》み込《こ》ませない。


 そんな距離感《きょりかん》を保《たも》っているように見《み》えた。


 王《おう》として均衡《きんこう》を崩《くず》さぬための、無意識《むいしき》の線引《せんび》き。


 ――だが、今《いま》のやり取《と》りは違《ちが》う。


 ミナギの視線《しせん》。


 柔《やわ》らいだ声《こえ》。


 他《ほか》の誰《だれ》にも向《む》けない気安《きやす》さ。


 それは明《あき》らかに、アサだけに許《ゆる》されたものだった。


(――あの位置《いち》)


 思考《しこう》が、そこへ真《ま》っすぐ向《む》かう。


 特別《とくべつ》な言葉《ことば》を交《か》わしたわけではない。


 触《ふ》れ合《あ》ったわけでもない。


 それでも分《わ》かる。


 踏《ふ》み込《こ》むことを許《ゆる》された距離《きょり》。


 選《えら》ばれた者《もの》だけが立《た》てる場所《ばしょ》。


 胸《むね》の奥《おく》に生《う》まれた小《ちい》さなざわめきを、志摩《しま》は静《しず》かに見《み》つめた。


 羨《うらや》ましさか。


 競《せ》りたい気持《きも》ちか。


 ――いや。


(欲《ほ》しい)


 その言葉《ことば》が、いちばん正確《せいかく》だった。


(私《わたし》も、あの座《ざ》を手《て》に入《い》れたい)


 迷《まよ》いはない。


 一時《いっとき》の感情《かんじょう》でも、気《き》まぐれでもなかった。


(容易《たやす》く手《て》に入《はい》るものではない)


 あれは、誰《だれ》にでも開《ひら》かれた場所《ばしょ》ではない。


(――だからこそ、価値《かち》がある)


 静《しず》かに、覚悟《かくご》が形《かたち》になる。


 志摩《しま》はゆっくりと顔《かお》を上《あ》げた。


 その瞳《ひとみ》には、はっきりとした意志《いし》が宿《やど》っている。


 均衡《きんこう》の外《そと》に立《た》つのではなく、その内側《うちがわ》へ踏《ふ》み入《い》るために。


 音《おと》もなく身《み》を離《はな》し、回廊《かいろう》の闇《やみ》へ溶《と》けていく。


 背後《はいご》では、水音《みずおと》と低《ひく》い笑《わら》い声《ごえ》が、まだかすかに続《つづ》いていた。



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