許される場所
祝宴の熱気がようやく引き、宮中は少しずつ夜の静けさを取り戻していた。
篝火がところどころで揺れ、長く伸びた回廊の影をゆるやかに歪ませている。
志摩は、その回廊を一人、静かに歩いていた。衣擦れの音すら抑えた足取り。宴の余韻にも、人々のざわめきにも興味はない。
ただ、熱を冷ますように、静寂の中へ身を置いていた。
――その時。
かすかな水音が耳に届いた。
規則的に、器と水が触れ合う音。視線を向けると、回廊の端にある井戸端で、ひとりの侍女が身を屈めていた。
灯りの届きにくい場所で、黙々と器を洗っている。祝宴の時、広間の隅に控えていた娘だ。
酒をこぼし、侍女頭に厳しく叱られていた――その光景が、ふと脳裏に浮かぶ。
そして、その時に見えたミナギの視線。
ほんのわずかだったが、確かに案じる色を帯びていた。
志摩は足を止めた。
観察するように、その娘を見つめる。
顔立ちは整っている。骨格の均衡も悪くない。
けれど、人目を奪うほどの華やかさはない。あくまで、侍女の中では、という程度だ。
埋もれるほど地味でもなく、かといって強く際立つわけでもない。
――よくいる娘。
そう結論づけかけた時だった。
「……あなた」
気づけば、声をかけていた。
水音が止まる。侍女は振り返り、志摩の姿を見た瞬間、息を呑んだ。
「し、志摩様……!?」
慌てて膝を折る。その動作には無駄がなく、きちんと躾けられているのが分かった。
「楽にして」
穏やかに言い、志摩は少しだけ距離を詰める。
圧を与えすぎず、それでいて逃がさない。
そんな絶妙な間合いだった。
「名は?」
「……アサ、と申します」
声は小さい。だが、その奥には芯があった。
怯えの下に、妙な強さが潜んでいる。
志摩はわずかに目を細めた。
「そう」
短く答える。
それ以上、深く聞く理由は見当たらなかった。
「仕事の邪魔をしたわね」
それだけを残し、志摩は踵を返す。
関心は、そこで終える――はずだった。
だが、数歩進んだところで、別の足音が静寂を裂いた。
反射的に、志摩の身体が動く。柱の陰へ身を寄せ、気配を沈めた。
現れた人影を見た瞬間、息がわずかに止まる。
――ミナギ様。
王自らが、こんな夜更けに、こんな場所へ来る。
理由は、ひとつしかない。
視線を戻す。
井戸端のアサは、まだ気づいていない。
「まだやっていたのか」
低く抑えた声が、夜気を震わせた。
アサの肩が、びくりと跳ねる。振り返る。
そして――
その表情が、一瞬でほどけた。
まるで灯りがともるように、柔らかく。
先ほど志摩に向けていた顔とは、あまりにも違う。
ミナギは井戸端へ歩み寄り、桶の縁に手をかけて中を覗き込んだ。
洗い終えた器が、きちんと重ねられている。
「随分と働き者になったな」
「……放っておいてください」
アサは、少しむくれたように言い返した。
王に向けるには、明らかに無遠慮な口調だった。
だが――
ミナギは咎めない。
それどころか、口元がわずかに緩む。
「それとも――」
少し間を置き、視線を落とす。
「叱られ足りなかったか?」
声には、からかうような響きが混じっていた。
アサの眉がぴくりと動く。
「広間の端まで聞こえていたぞ」
「……!」
「『何度言えば分かるの』『手元を見ろ』『お前は気が散りすぎだ』――」
淡々と再現される言葉に、アサの顔がみるみる赤くなる。
「ッ……もぉ!やめてってば!」
思わず声が上がる。慌てて口を押さえるが、もう遅い。
ミナギは堪えきれず、小さく笑った。
「随分と可愛がられているな」
「可愛がられてなんかいません!」
むくれたまま言い返す。そこには遠慮の欠片もない。
ミナギはそんな様子を面白そうに眺め、少し目を細めた。
「まあ、あれだけ派手に酒を撒けばな」
「誰のせいだと――」
言いかけて、アサははっと口をつぐむ。
一瞬の沈黙。
次の瞬間、ミナギが低く笑った。
「言ってみろ」
その声には、隠しきれない愉快さが滲んでいた。
アサは唇を引き結び、視線を逸らす。
言わない。
そう示している。
その子供っぽささえ、ミナギは咎めない。
距離が近い。
言葉よりも、その空気が何より語っていた。
志摩は柱の陰で、静かに息を整える。
(――成る程)
胸の奥に、小さな理解が落ちた。
広間で感じた違和感の正体。
あの一瞬の視線。
志摩はもう一度、アサを見る。
先ほどと同じ娘。平凡で、特別目を引くわけではない。
だが――今は違った。
輪郭が、わずかに際立って見える。
――あれほどの方が、気にかける娘。
(ただの侍女、ではない)
ミナギは誰に対しても、深く踏み込まず、また踏み込ませない。
そんな距離感を保っているように見えた。
王として均衡を崩さぬための、無意識の線引き。
――だが、今のやり取りは違う。
ミナギの視線。
柔らいだ声。
他の誰にも向けない気安さ。
それは明らかに、アサだけに許されたものだった。
(――あの位置)
思考が、そこへ真っすぐ向かう。
特別な言葉を交わしたわけではない。
触れ合ったわけでもない。
それでも分かる。
踏み込むことを許された距離。
選ばれた者だけが立てる場所。
胸の奥に生まれた小さなざわめきを、志摩は静かに見つめた。
羨ましさか。
競りたい気持ちか。
――いや。
(欲しい)
その言葉が、いちばん正確だった。
(私も、あの座を手に入れたい)
迷いはない。
一時の感情でも、気まぐれでもなかった。
(容易く手に入るものではない)
あれは、誰にでも開かれた場所ではない。
(――だからこそ、価値がある)
静かに、覚悟が形になる。
志摩はゆっくりと顔を上げた。
その瞳には、はっきりとした意志が宿っている。
均衡の外に立つのではなく、その内側へ踏み入るために。
音もなく身を離し、回廊の闇へ溶けていく。
背後では、水音と低い笑い声が、まだかすかに続いていた。




