志摩
投馬国の宮の大広間に、重々しい足音が響く。
やがて、堂々たる男の姿が現れた。
年の頃は壮年。
目元には、王としての威厳が刻まれている。
だが、その口元には、人を警戒させぬ柔らかな笑みが浮かんでいた。
威厳と親しみやすさ。
一見すれば相反するふたつの気質を、その男は不思議なほど自然に併せ持っていた。
軽やかに見える。
だが――
その奥には、容易には底の見えぬものがあった。
その一歩後ろに、一人の姫が控えていた。
男とは対照的だった。
足音さえ、ほとんど聞こえない。
静かに歩み、静かに立つ。
それでも、その姿が広間へ入った瞬間――
そこにいる者たちの視線が、自然と集まった。
たおやかな面差し。
すっと通った鼻筋。
艶やかな黒髪は、光を受けるたび、濡れたような艶を返している。
白磁を思わせる肌には、頬にだけ淡い血色が差していた。
薄桃色の衣が、歩くたびにかすかに揺れる。
袖の端が床を撫で、薄い絹が光を柔らかく返した。
華やかだった。
だが、それは。
春の山に、誰に見せるでもなく咲く山桜のような――
静かな華やかさだった。
傍らに控える侍従が声高らかに告げる。
「伊都国王、布留根様――並びに、姫君、志摩様にございます」
布留根。
その名が広間に落ちる。
伊都国――
海を押さえ、諸国との交易を握る国。
その王が、今、目の前にいる。
同時に、姫――志摩もまた、一歩進み出て、ゆるやかに頭を下げた。
ミナギが静かに前に出る。
「投馬国王、ミナギだ」
広間に響く声は深く澄んでいて、瞬間に空気が張りつめる。
その声に、志摩の視線がわずかに上がる。
そして――
初めて、正面からミナギを捉える。
若い。
まず、そう思った。
父から聞いていたよりも、ずっと若い。
けれど、その若さに似合わぬ静けさがあった。
鋭い眼差し。
だが、その奥には荒れ狂うような激しさではなく、深い水のような落ち着きがある。
――この方が。
胸の奥が、どくん、と鳴った。
志摩は、自分でも驚いた。
政略のための縁談だ。
父に連れられて、この国へ来た。
相手がどのような男であろうと、自分の役目は理解している。
そう思っていた。
なのに――
ほんの一目で、心が揺れた。
思わず息を詰める。
ほんの一瞬だけ。
それでも、その一瞬は、志摩には長く感じられた。
やがて、はっと我に返り、志摩は静かに視線を伏せる。
だが、一度乱れた鼓動は、静かには戻らなかった。
「遠路遥々、よくぞ参られた」
ミナギの落ち着いた歓迎の辞に、布留根は朗らかに笑みを浮かべる。
「なに、海を渡るのも久方ぶりでしてな」
冗談めいた口調だった。
肩の力が抜けている。
まるで旧知の友を訪ねてきたかのような気安ささえあった。
「よい気分転換になりました」
そう言って、布留根は笑う。
だが――
その目は笑っていなかった。
ミナギは、それを見逃さなかった。
「それは何より――」
穏やかに返す。
「だが、此度は、ただの訪問ではありますまい」
布留根の笑みが、ほんのわずかに深くなった。
「ほう――」
目を細める。
「若き王は、話が早い」
その一言で、広間の空気が変わった。
ミナギは何も言わない。
布留根も笑っている。
だが――
二人の間には、見えない刃のような緊張が生じていた。
「友誼を確かめるのは当然として――」
布留根はちらと志摩へ視線を送り、すぐにミナギへ戻した。
「娘の行く末についても、頃合いかと考えましてな」
志摩は父の言葉に、ほんのわずかに呼吸を整える。
その表情は静かだが、袖の内で指先がかすかに寄せられている。
「志摩殿ほどの方であれば、望む縁も多かろう」
婚姻を絡めた政治の布石。
あからさまな揺さぶりに対し、ミナギは微動だにせず、ただ淡々《たんたん》と志摩の佇まいを一瞥した。
すぐに視線を布留根へ戻す。
「……ありがたいことに。だが――」
その言葉の続きを、布留根はあえて濁す。
「我が伊都国の海を預けるに足る器となれば、そうはおらぬ」
含みを持たせるように、肩をすくめた。
広間を満たす、濃密な沈黙。
やがて布留根が、わずかに笑った。
「――とはいえ、こうして顔を合わせるのが何よりでしょう」
場の緊張を緩めるような物言い。
「言葉は後でも交わせますゆえ」
しかし、その実、主導権を手放してはいない。
ミナギもまた、小さく頷く。
「然り。今宵は、まずは宴を」
二人の王は、互いに微笑みを交わす。
宴が始まる。
酒が運ばれ、料理が並べられれば、広間にはやがて笑い声も響くだろう。
けれど――
その宴が始まる前から、すでに交渉は始まっていた。
三人の思惑が交わるこの宴は――
やがて、投馬国の未来を左右する縁の始まりとなる。




