アオバ
練武場の空気は、昼の熱を含んで重たかった。
隣接する庭では、若い兵たちが思い思いに体を休めている。汗と土の匂いが混ざる中、モモジが大きく息を吐いた。
丸い体をどさりと横たえ、空を仰ぐ。
「――あーあ。彼女ほしい」
唐突だった。
隣で水をあおっていたアオバが、ぴたりと手を止める。
まだ少年の面影を残しながらも、無駄のない体つき。精悍な顔が、じろりと横を向いた。
「……またそれかよ」
「いやだってさぁ」
モモジはじとりと、練武場の端に視線を向ける。
――そこにいる一人を、恨めしげに睨みながら。
そこではヒシンが、若い侍女たちに囲まれ、何やら楽しげに話していた。
背が高く、整った顔立ち。涼しげな目元に、柔らかな笑み。横にいる若い侍女たちは、揃って頬を染めている。
「見ろよ、あれ……」
恨めしげな声。
モモジの指先が、ぴしりとヒシンを指す。
「何であいつばっかりなんだよ……」
ぐぬぬ、と歯を食いしばる。
アオバは一瞥だけして、すぐに視線を戻した。
「顔がいいからだろ」
水を一口飲み、にべもなく答える。
「身も蓋もねぇことを言うな!」
モモジが叫ぶ。
「いや、そこはもう少しこう……手心ってもんがだな!」
勢いよく起き上がり、アオバへ身を乗り出す。
少し離れたところで、チガヤが静かに腰を下ろした。
小柄で、アオバたちより幾分幼く見える。だが、その瞳は、やけに落ち着いていた。
「――あと背も高い」
ぽつりと補足する。
「話が面白い、距離の取り方がうまい、押しすぎないし、引きすぎない」
容赦なく、淡々と続ける。
モモジの顔が、じわじわと歪む。
「……ぐぬぬ」
絞り出すような声。
「――モモジには、ないものだね」
さらり、と言った。
「はぁ!?」
即座にキレた。
「お前だってチビすけじゃねーか!」
モモジが食ってかかる。
チガヤは一度だけ視線を向け、すぐに外した。
「別に俺は、彼女とか興味ないし」
温度のない声。
「ははーん……」
モモジがにやりと口元を歪める。
「お子ちゃまには、まだ早ぇか?」
わざとらしく肩をすくめ、からかうように身を乗り出す。
「……だからモモジはモテない」
淡々と、斬る。
「はぁ!?」
再びキレた。
アオバは呆れたように息を吐き、水を一口あおる。
モモジは再びヒシンの方を見る。
ちょうど侍女から何か受け取って、軽く礼を言っているところだった。
あまりにも、様になっている。
「……くそ、余裕そうにしやがって」
悔しそうにぼやく。
ふと、思い出したようにアオバを見る。
「そういえば、お前はどうなんだよ」
「何が」
「何って――……例のアサちゃんとは」
アオバは飲んでいた水を盛大に吹いた。
「え、何? 誰?」
チガヤが首を傾げる。
木陰の光がその目に淡く差し、好奇心だけがはっきりと浮いていた。
「最近ちょっと話題になってる子だよ。結構可愛いんだこれが」
モモジはにやにやと口元を緩める。
「それでこいつさ、この間の見回りの時に――」
「黙れ、モモジ」
口元を手の甲で拭いながら、低い声で睨むアオバ。
だが耳の先まで赤い。
「急にそわそわしだしたと思ったら、いきなり駆け出してよ」
モモジは構わず続ける。
身振りまでつけて、やけに楽しそうだ。
「井戸端で水汲んでるその子のとこ行ってさ、手伝うって言い出して――」
「だから違うって」
アオバが食い気味に割り込む。
「前に少し助けてもらったことがあって……返せたらと思っただけだ」
一気に言い切る。
風が抜ける。
木の葉がかすかに鳴った。
「なるほどな」
モモジがにやりと笑う。
「その時に一目惚れってわけだ」
「そんなんじゃねえって」
即答。
だが視線が泳ぐ。
「でも顔真っ赤だったぞ、お前。わかりやすい奴」
「うるせえ」
アオバは吐き捨てる。
「アサ……アサ……」
チガヤが顎に手を当て、小さく繰り返した。
視線はどこか遠く、記憶を探るように揺れている。
「お? 何だよ。お前も気になってんの?」
モモジがにやりと口元を歪め、身を乗り出す。
「お子ちゃまが急に色気づいたか?」
チガヤは一度だけ視線を向ける。
冷えた目で、まっすぐに。
モモジの笑みが、わずかに引きつる。
「あ」
小さく、声が落ちる。
「思い出した」
淡々とした声に戻る。
「ミナギ様が目をかけてるって噂の子だ」
さらり、と言った。
一瞬、空気が止まる。
アオバの手がぴくりと揺れた。
持っていた水が、わずかに波打つ。
視線が、落ちる。
――ミナギ。
その名が、やけに重く響いた。
チガヤは最年少だ。
小柄で、まだ幼さの残る顔立ちをしている。そのせいか、侍女たち――とくに年嵩の女たちにやたらと可愛がられていた。
食料を分けてもらい、世間話を聞き、気づけば輪の中にいる。
ヒシンとは違う方向にモテていた。
「なんでも、ミナギ様直々に、この投馬国に連れてきたとか」
――そして、その分だけ、妙に情報通であった。
「庭で、二人で話してるの、何度か見たって」
静かな声。
「結構、親しそうに」
――その言葉が落ちた瞬間。
アオバの中で、何かが冷えた。
血の気が、すっと引いていく。
あの時の光景が、鮮明に蘇る。
井戸端でアサの水汲みを手伝っていた、自分。
そこへ、気配もなく現れたミナギ。
静かで、澄んでいて。
それなのに、逃げ場のない圧があった。
視線ひとつで、空気が変わる。
あれは――
明らかに、牽制だった。
「え?アサちゃんって、そうなの?」
モモジが目を丸くする。
「確かに可愛いけどさ、そういう感じには見えないっていうか」
「ミナギ様って全然女遊びしないって聞いてたけど、結構、こう……素朴な感じが好きなのな」
「違う」
アオバが即座に切った。
視線は地面のまま、強くもないのに妙に重い声。
「そういうのじゃない」
――あれは、そういうものではない。
胸の奥に、あの時の感覚がよみがえる。
空気が一段、冷えたあの瞬間。
俯いたまま、アオバは息を殺した。
チガヤがわずかに目を細める。
何かを測るように、黙っている。
「まあ、なんつーか……」
モモジが肩をすくめる。
「お前の手に負える子じゃない、ってことだな。残念ながら」
ぽん、と肩に手を置く。
アオバは、ぐっと堪えるように息を飲んだ。
水を一口で飲み干し、空になった器を見つめる。
視線の奥が、わずかに揺れた。
――アサと初めて出会った時のことを思い出す。
宮仕えの兵になったばかりの頃。
まだ力も体力も足りず、訓練に食らいつくだけで精一杯だった。
何度も、心が折れかけていた。
悔しさのまま、夜の練武場で一人槍を振っていた。
息が上がり、膝をついた場所は――ちょうど今と同じ、この庭の隅だった。
荒い呼吸を整えていた、その時。
「どうぞ」
差し出された水の器。
顔を上げると、アサが立っていた。
何でもないように、ただそこにいて。
花が綻ぶように、やわらかく笑っていた。
――それだけだった。
我ながら単純だとは思うが。
モモジの言う通り、一目惚れだったのだろう。
それからだった。
気づくと、目で追っていた。
侍女として働くアサの姿は、いつも忙しなく動いている。
井戸端で水を汲む姿。
掃除の最中に先輩侍女たちに呼ばれて、小走りに向かう姿。
手が止まることなく、淡々と仕事をこなしていく。
走り回って。
息を切らして。
それでも――
どこか明るい日差しのようなままだった。
そのたびに、目が離せなかった。
風が抜ける。
庭の木々《きぎ》が、さわさわと揺れた。
遠くでヒシンの笑い声がかすかに響く。
モモジはそれを見て、もう一度だけ深くため息をつく。
「……やっぱ彼女ほしいわ」
「まず顔から変えてくれば」
「無理言うな!」
チガヤとモモジのやり取りを横目に、アオバは小さく息をついた。
胸の奥に、残っているのは、悔しさとも、納得ともつかないもの。
はっきりと形にならないまま、沈んでいく。
それを振り払うように、顔を上げた。
「……休憩終わるぞ」
短く言う。
その声は、もう揺れていなかった。
――ただ、完全に晴れたわけでもなかった。




