書庫にて
薄暗い灯りの中は、乾いた木の香りが満ちていた。
長い年月を経た柱や梁には、黒く磨かれたような艶があり、近づけば樹脂と煙の匂いが微かに残る。
その匂いに混じって、麻布や鹿皮、竹を乾かした独特の香りが漂っていた。
アサは、壁沿いに並ぶ、丸太と横木を組んだ簡素な棚の前に腰を下ろしていた。
この場所に入れる者は、宮中でも限られている。
アサの読み書きの力は、日に日に上達していた。
まだ迷うことはある。
それでも、簡単な書き物なら扱えるようになってきている。
最近では、タヅマの仕事も少し任されるようになっていた。
今は、書庫の整理を手伝っている。
棚の上には、巻かれた漉麻の紙や、竹箱に収められた文書、木簡が整然と並んでいた。
魏から届いた外交文書。
近隣の国々との交易や、交渉の記録――
どれも貴重なものばかりで、触れるだけで重みが伝わってくるようだった。
アサは一枚ずつ、慎重に確かめていく。
墨のにじみ。
繊維の裂け。
刻印の細かな凹凸。
隣では、タヅマも巻物を広げていた。
指先で墨のかすれや紙の傷みを確かめながら、静かに指示を出していく。
「この巻物は巻き直して、こちらの箱に入れてくだされ」
落ち着いた低い声。
アサは頷き、慎重に巻物を巻き直した。
次に二人が手をつけたのは、祭祀に関する記録だった。
だが、古い麻紙に書かれた文字は、長い年月に耐えきれなかったのだろう。
文字は滲み、ほとんど読めなくなっていた。
――その時。
アサの目が、ひとつの巻物に引き寄せられる。
それは、鹿皮で作られた巻物だった。
表面に浮かぶ印を見た瞬間、心臓が強く跳ねた。
その印には、見覚えがあった。
アサの耳飾りに刻まれているもの。
そして、村外れの大岩に刻まれていたものと、同じ印だった。
思わず、息をのむ。
「──タヅマ様……これは……」
声が震える。
うまく言葉にならない。
タヅマは静かに巻物を覗き込み、鋭い目で印を見つめた。
「……はるか昔に使われていた文字ですな。祭祀で使われる言葉です」
低い声が、静かな保管庫に落ちる。
「私も、すべてを読めるわけではございませぬが……」
ほとんどの文字は判別できない。
だが、巻物の中央にだけ、ひとつの文字がはっきりと残っていた。
タヅマが、その名を静かに読み上げる。
「――カグツチ」
その響きは、妙に重かった。
アサは息を呑み、小さくその名を繰り返す。
「カグツチ……」
その瞬間だった。
胸元の赤い瑪瑙が、どくりと脈打った気がした。
まるで血の流れに呼応するような、強い鼓動。
アサは思わず胸を押さえ、目を見開く。
「どうかされましたかな?」
タヅマの落ち着いた声が響く。
アサは、はっと我に返った。
首から下げた石を、ゆっくり取り出す。
凝視する。
指先に伝わる冷たさ。
いつもと変わらぬ重み。
──気のせい……?
だが、先ほどの感覚はあまりにもはっきりしていた。
まるで石そのものが、生きているかのようだった。
タヅマは無言のまま、その石を見つめている。
やがて、低く呟いた。
「これは、珍しい……」
そういえば。
普段は衣の下に隠しているため、タヅマに見せるのは初めてだった。
「赤き石は、ただの飾りではございませぬ」
視線を石に向けたまま、タヅマは静かに続ける。
「血の色に通じるものとされ、命を呼び、また鎮める力を持つと信じられております」
ほんの少し、間を置く。
「祭祀では、境を越える時に使われるのです」
「境……?」
「人の在る場所と、神の坐す場所。その狭間に立つ際ですな」
低い声が、静かに響く。
「ゆえに、選ばれる石とされております。誰でも持てるものではございませぬ」
タヅマの目が、わずかに鋭さを帯びた。
「それを、一体どこで……?」
問われて、アサは俯く。
そして静かに口を開いた。
「……亡くなった母から、譲り受けたものです」
声がわずかに揺れる。
「母が、どうやってこれを手にしたのかは……私も知りません――」
そこには、消えきらない戸惑いが残っていた。
タヅマは「ふむ……」と低く応える。
しばらく考え込むように沈黙したあと、静かに声を落とした。
「……いずれにせよ、あまり人目に触れさせぬ方がよろしいでしょうな」
その言葉には、静かな重みがあった。
「強い力は、時に余計な争いを呼びますゆえ」
アサは小さく喉を鳴らした。
慌てて石を胸元へ戻し、隠すように握り込む。
冷たい感触が肌に触れ、少しだけ気持ちが落ち着いた。
けれど。
胸の奥に広がるざわめきだけは、消えずに残り続けていた。




