余熱
最近、アサと向き合うと、妙に落ち着かない。
理由は、分かっている。
――視線だ。
自分に向けられる目線には、とうに慣れていた。
欲望も。
打算も。
媚びも――
そのどれも、見ればすぐに判別がつく。
アサの目には以前と変わらない、揺るぎない親愛がある。
信じきっている、まっすぐな光。
それはそのままに。
そこに、もうひとつ。
微かに、だが確かに――熱が混じっている。
言葉にはならない。
だが、隠しきれてもいない。
ふとした瞬間にだけ滲む、柔らかな熱。
おそらく、本人に自覚はない。
それが、視線に乗る。
ある日の朝。
二人で散歩の途中、風に煽られた落ち葉が、ひらりとアサの頭に落ちた。
ミナギは何気なく手を伸ばす。
取ってやる――ただ、それだけの動作。
だが。
指先が、わずかに耳を掠めた。
「ひゃっ……」
小さく、跳ねるような声。
アサは咄嗟に耳を押さえ、顔を真っ赤にして視線を泳がせる。
落ち着かない仕草。
その反応に、ミナギの手が止まった。
(……これは……)
理解してしまう。
気づいてしまった以上、もう無視はできない。
そして同時に、もうひとつ。
それを、不快だと思わない自分に気づく。
むしろ――
その事実に、わずかに息が詰まる。
(……何を考えている)
思考を押し戻そうとする。
だが、完全には抑えきれない。
視線が交わるたび、心がわずかに揺れる。
以前にはなかった感覚。
変わったのは、視線だけではない。
アサ自身も、変わっていた。
小柄ながらも、すらりと伸びた手足。
あどけなさはいつの間にか影を潜めている。
細い線の中に、しなやかな起伏。
所作の端々に、柔らかな色気が滲む。
少女ではなく、女としての輪郭。
それを、認識してしまう。
ミナギは表情を崩さない。
これまでと同じように接する。
何も変わっていないかのように。
だが――
感覚だけが、ついてこない。
距離の測り方が、分からなくなる。
周囲の目も、変わっていた。
若い兵たちが足を止め、アサが通り過ぎた後で小声を交わす。
「なぁ、あの子」
「ああ……」
それ以上は言葉にせず、互いに笑みを含む。
一人は、足を止め振り返り、ぼんやりと視線を残したまま立ち尽くしている。
仲間に肩を叩かれて、ようやく我に返った。
それを見て、胸の奥がざらつく。
またある時は、兵に声をかけられているアサを目にした。
ただの何気ないやり取り。
それなのに――
無性に、腹立たしい。
理由を探す。
これは庇護欲だ。
守るべき存在を軽く見る連中への嫌悪。
そう結論づける。
だが。
(……違う)
否定しきれない。
もっと個人的で、逃げ場のない感情。
ふと、思い至る。
自分もまた、同じではないか。
視線を逸らす。
考えたくない。
最初は違ったはずだ。
小さくて、危なっかしくて、放っておけない。
守るべき相手だった。
ハヤトに向けるものと、大差ないと思っていた。
妹のような存在。
歳も離れている。
だからこそ、あの距離でいられた。
だが今は――
意識してしまっている。
それを認めることに抵抗がある。
踏み越えてはいけない一線に、足をかけている感覚。
距離は、変わっていない。
それなのに。
確実に、何かが変わってしまっていた。
――その揺らぎとは裏腹に。
宮中では、避けては通れぬ話が、日に日に現実味を帯びていた。
高殿の間には、重たい空気が沈んでいた。
開け放たれた側面からは昼の光が差し込み、柱や床に淡い影を落としている。
葦簀が風に揺れるたび、外のざわめきや櫓の姿がちらりと見えた。
広い板張りの床の上に、男たちが向かい合って座っている。
しかし、この場にいる者たちの意識は誰ひとり外へ向いていない。
視線はすべて、中央の議論へと注がれていた。
「殿――そろそろ后の件を真剣に考えるべきではございませんかな」
重厚な髭をたくわえたツヅミが、ギラついた眼光でミナギを見据え、低くも威圧的な声で切り出す。
その視線の先に座するミナギは、わずかに眉を寄せたまま静かに息を吐く。
「西側諸国の娘たちは、礼法に通じ、教養も優れております」
厳めしい顔立ちとは裏腹に、どこか飄々とした空気を纏う男、イヌタデが、口髭を撫でながら低く言う。
「伊都国の志摩殿は、美貌と品格に優れ、后と望む者は数多いと聞きます……」
アスマは、ぼそりと呟く。
大柄な体格に反し、声は控えめだった。
美貌。
権威。
家柄。
性格。
気位――
次々に意見が重なり、それぞれの要素が、重厚な空気をさらに押し広げ、複雑に絡み合う。
ミナギは頭を抱えたまま、ひと息つく。
「……皆、少し落ち着かぬか」
しかし、その声はまるで微かな風に過ぎず、誰一人として聞く耳を持たない。
議論はますます過熱し、声は重く、鋭く、場を支配していた。
「時機を逸すれば、外様の勢力に后宮を掌握されかねぬぞ!」
「王の威厳にふさわしい者を選ばねばならぬ!」
「いや、王の心を捉え得る者でなければ意味がない!」
ついに、ミナギの視線は天井を突き抜けるかのように宙を彷徨い、眉間を押さえたまま静かに重臣たちの声を受け止める。
その時――ぴしゃり、と場の空気を断ち切るように声が響いた。
「まず大事なのは、殿の御心であろう」
発言したのは重臣クラジだった。
それまでの喧騒を一刀で断つかのような、簡潔にして鋭い言葉だった。
ざわめきが一瞬で静まる。
他の重臣たちは顔を見合わせ、言葉を失う。
その中で、ミナギだけがわずかに目を見開いた。
――おお。
(ようやく、まともなことを言う者が出たか……)
胸の内で小さく安堵しながら、ミナギは姿勢をわずかに正した。
クラジはゆっくりと視線をミナギへ向ける。
その目には余計な媚びも、打算もない。
ただ事の本質を見据える静けさがあった。
「殿は――どのような女子をお好みでございますか」
その問いは、あまりに真っ直ぐだった。
一瞬、間が落ちる。
ミナギはわずかに息を止め、再び視線を彷徨わせる。
問われたことの意味は理解している。
だが。
(……好み、か)
頭の中で反芻するが、うまく形にならない。
これまで王としての務めに追われ、女の好みなど――
その瞬間。
不意に、ひとつの顔が脳裏に浮かんだ。
柔らかく揺れる髪。
どこか不器用で、それでいて真っ直ぐな眼差し。
拗ねたり。
笑ったり。
ふとした時に見せる、無防備な表情――
一瞬、思考が止まる。
(……いや)
ミナギはわずかに眉をひそめ、すぐさまその像を振り払うように意識を引き戻した。
今この場で問われているのは、王としての后の資質だ。
家柄。
立場。
政への影響――
考えるべきことはいくらでもある。
それなのに、浮かんできたのは――
アサの顔。
(……違う)
ほとんど反射のように、意識の奥へ押し戻す。
「――そのようなこと、これまで深く考えたこともなかった」
口をついて出た言葉は、やけに空虚に響いた。
自分で言いながら、わずかに残る違和感を拭いきれない。
ミナギはそれ以上思考を深めることをやめるように、静かに息を吐いた。
視線を正面へ戻せば、再び重臣たちの顔が並ぶ。
現実へと引き戻される。
だが一度浮かんだ顔は、完全には消えず、胸の奥に微かな余熱のように残り続けていた。




