立つための場所
投馬国に来てから、アサは少しずつ元気を取り戻していった。
顔色は戻り、声にも張りが出てきた。
歩く足取りにも、もう危うさはない。
――そう、見える。
だがどこか、硬い。
身体ではなく、別のどこかが、まだ張りつめている。
ミナギは、それを見逃さなかった。
王に即いてからというもの、息をつく暇もない。
各地の調整。
戦後処理。
内政の立て直し。
次々と押し寄せる決断と報告に、日々を削られている。
それでも合間を縫って、アサのもとへ足を運んだ。
他愛ない会話を交わし、時間が取れれば、外へ連れ出す。
それだけでも、ほんのわずかだが、彼女の表情が柔らぐのを知っていたからだ。
知らない土地で、ずっと気を張り続けているのは分かっている。
だからもうひとつ、手を打った。
学ぶことを好む彼女のために、タヅマに教えを頼んだ。
多忙を極める相手に、無理を言っている自覚はある。
案の定、最初は露骨に渋い顔をされた。
今の状況で余計な役目を増やされることに、思うところがないはずがない。
ミナギも、それは分かっていた。
それでも頭を下げた。
数日も経てば、タヅマの態度は明らかに変わった。
アサは熱心だった。
与えられたことを、ただこなすのではなく、理解しようと食らいつく。
覚えも早い。
そんなアサに、教える側も手応えを感じ始めているのが分かる。
その様子に、ミナギはひとまず胸を撫で下ろした。
居場所は、作れている。
そう思えた。
――だが。
アサの言葉の端に、微かな遠慮が混じる。
何かを受け取るたびに、一瞬だけ間が生まれる。
笑顔が、ほんの少しだけ、ぎこちない。
それは不満でも拒絶でもない。
むしろ逆で――
「受け取っている側」であることへの、戸惑い。
与えられているばかりの立場に、居場所の輪郭を見失いかけているような。
この場所で、自分は何をしているのか。
何も返せていないのではないか。
そんな思考が、静かに根を張り始めている。
ミナギは、それに気づく。
だが同時に、それが簡単に触れていい類のものではないことも理解していた。
無理に否定すれば、逆に輪郭を強める。
ならば――
どう向き合うか。
ミナギは、静かに次の手を考え始めていた。
そんな折だった。
朝の散歩に出た時――まだ人の少ない宮の外れ。
朝靄が薄く漂い、草の先に露が光っている。
何気ないやり取りの最中、ふと、言葉が途切れた。
考えごとをしている時の沈黙だと、ミナギは知っていた。
「……働かせてください」
そう、きっぱりと言い切った。
「ここで――宮で、何か役に立ちたいんです」
一歩、踏み込む。
その声に、迷いはなかった。
ミナギは、わずかに目を細める。
すぐには答えなかった。
侍女の仕事が軽いものではないことは、よく知っている。
雑務。
力仕事。
気の抜けない礼儀作法。
まだ細い身体。
病み上がりでもある。
――だが。
目の前にいるアサは、引く気配を見せなかった。
拒めば、折れるのではなく、静かに立ち尽くすだけだろう。
――ならば。
最初は、案の定だった。
水を運べば、こぼし。
膳を運べば傾け。
立てば何かにぶつかり。
座れば裾を踏む。
言葉遣いはぎこちなく。
所作も、どこか危なっかしい。
侍女頭に容赦なく叱られては、肩を落とす。
ミナギはそれを見て、やはり早々に音を上げるかもしれないと、どこかで思っていた。
しかし。
アサはめげなかった。
叱られても、次の日には同じ場所に立っている。
できなかったことを、できるまで繰り返す。
その粘りに、ミナギはわずかに認識を改める。
甘く見ていたのだと。
日が経つにつれ、変化ははっきりと現れた。
動きに無駄が減り。
手順も身体が覚え始める。
慌てて手を出すことも減り、失敗は、ひとつずつ姿を消していった。
叱られる回数も、少しずつ減っていく。
覚えたばかりの所作を、どこか誇らしげに見せに来ることもあれば。
やはり侍女頭に叱られて、分かりやすく落ち込むこともある。
「ミツっていう子がね、すごくお喋りで――」
そんな他愛のない話を、楽しそうに語ることも増えた。
表情が、戻ってきている。
いや――
以前よりも、ずっと豊かに。
労働は決して楽ではないはずなのに、その裏側で確かに生気が宿っていく。
その様子を、ミナギは少し離れた場所から見ていた。
ふとした瞬間、目を細める。
眩しいものを見るように。
そして気づく。
守るとは、囲うことではないのだと。
自分で立つための場所を、奪わないこと。
それもまた、守るということなのだと。
やがて、日々は流れていく。
ミナギは王として。
アサは侍女として。
それぞれの立場の中で、慌ただしく時を重ねていく。
交わる時間は減った。
それでも――
同じ場所にいるという確かさだけが、静かにそこにあった。




