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アマガタリ  作者: ひよりの
第一章
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学びの夜



 夕餉《ゆうげ》が終《お》わっても、宮《みや》の仕事《しごと》は尽《つ》きることがなかった。


 炉《ろ》の火《ひ》は赤《あか》く息《いき》づき、炭《すみ》の奥《おく》で小《ちい》さく爆《は》ぜる音《おと》が絶《た》え間《ま》なく続《つづ》いている。


 侍女《じじょ》たちは器《うつわ》を集《あつ》め、木製《もくせい》の椀《わん》や陶器《とうき》を水《みず》で洗《あら》い、布《ぬの》で丁寧《ていねい》に拭《ふ》い上《あ》げる。


 湿《しめ》った布《ぬの》の匂《にお》いと、火《ひ》に温《あたた》められた木《き》の香《かお》りが混《ま》ざり合《あ》い、夜《よる》の宮《みや》に静《しず》かに満《み》ちていた。


 侍女頭《じじょがしら》の目《め》は、この時間《じかん》が最《もっと》も厳《きび》しい。


 火《ひ》の見張《みは》りを怠《おこた》れば、たちまち災《わざわ》いとなる。


 器《うつわ》の汚《よご》れを残《のこ》せば、それは穢《けが》れとなる。


 そんな緊張《きんちょう》が、夜《よる》の空気《くうき》を細《ほそ》く張《は》り詰《つ》めている。



 アサもまた、水桶《みずおけ》に手《て》を浸《ひた》し、器《うつわ》を洗《あら》っていた。


 冷《つめ》たい水《みず》が指先《ゆびさき》の熱《ねつ》を奪《うば》い、荒《あ》れた皮膚《ひふ》にしみる。



 やがて、任《まか》された分《ぶん》の片付《かたづ》けを終《お》えると、アサはそっと息《いき》をついた。


 周囲《しゅうい》の侍女《じじょ》たちは、まだ忙《せわ》しなく動《うご》いている。


 アサには別《べつ》の務《つと》めが許《ゆる》されている。


 音《おと》を立《た》てぬように身《み》を引《ひ》き、暗《くら》がりへと足《あし》を向《む》ける。


 木《き》の床《ゆか》がわずかに軋《きし》み、その音《おと》さえ気《き》にしながら、アサは静《しず》かに歩《あゆ》みを進《すす》めた。



 炉《ろ》の赤《あか》い光《ひかり》が遠《とお》ざかるにつれ、宮《みや》の奥《おく》は一層《いっそう》暗《くら》く、静《しず》まり返《かえ》る。


 その中《なか》で、わずかに灯《とも》る火《ひ》の気配《けはい》と、人《ひと》の気配《けはい》を頼《たよ》りに、アサは歩《ある》く。


 特別《とくべつ》に与《あた》えられた――学《まな》ぶ為《ため》のひととき。


 胸《むね》の奥《おく》に、小《ちい》さな高鳴《たかな》りを抱《いだ》えたまま、アサはタヅマの元《もと》へと向《む》かって行《い》った。



 宮《みや》の奥《おく》は、夜《よる》の静《しず》けさに沈《しず》んでいた。


 人《ひと》の気配《けはい》もまばらになり、聞《き》こえるのは、遠《とお》くで燻《くすぶ》る炉《ろ》の音《おと》と、時折《ときおり》きしむ板《いた》の音《おと》だけ。

 タヅマのいる一角《いっかく》には、小《ちい》さな灯火《ともしび》がひとつ、揺《ゆ》れていた。


 獣脂《じゅうし》を用《もち》いた灯《あか》りは強《つよ》くはなく、土器《どき》の縁《ふち》に溜《た》まった油《あぶら》が、かすかに煙《けむり》を上《あ》げている。


 淡《あわ》い光《ひかり》が周囲《しゅうい》をぼんやりと照《て》らし、壁《かべ》や床《ゆか》にゆらめく影《かげ》を落《お》としていた。


 タヅマは、低《ひく》く据《す》えた書《か》き台《だい》の前《まえ》に座《ざ》している。


 その前《まえ》には、薄《うす》く削《けず》られた木《き》の板《いた》や、表面《ひょうめん》を滑《なめ》らかに整《ととの》えた木簡《もっかん》が並《なら》び、脇《わき》には煤《すす》を溶《と》いた墨《すみ》と、細《ほそ》い筆《ふで》が静《しず》かに置《お》かれていた。


「……遅《おそ》くなって、すみません」


 アサが頭《あたま》を下《さ》げると、タヅマはわずかに目《め》を細《ほそ》めた。


「構《かま》いませんよ。本日《ほんじつ》もよく務《つと》められましたな」


 その一言《ひとこと》だけで、張《は》り詰《つ》めていた胸《むね》の内《うち》が、ふっとほどける。


 タヅマは静《しず》かに問《と》いかける。


「宮仕《みやづか》えの務《つと》め、いかがにございますか。少《すこ》しは慣《な》れましたかな」


 アサは顔《かお》を上《あ》げかけて、すぐにまた視線《しせん》を落《お》とした。


「……まだまだ、失敗《しっぱい》ばかりで……」


 声《こえ》は小《ちい》さく、灯火《ともしび》の揺《ゆ》れに紛《まぎ》れそうだった。


 しばしの間《ま》。


 タヅマはすぐには答《こた》えず、ただその様子《ようす》を見《み》ていた。


 やがて、静《しず》かに口《くち》を開《ひら》く。


「――失《うしな》って覚《おぼ》ゆるは、務《つと》めの常《つね》にございます」


 低《ひく》く、落《お》ち着《つ》いた声《こえ》。


「初《はじ》めから誤《あやま》らぬ者《もの》などおりません。手《て》を汚《よご》し、足《あし》を止《と》め、そうして覚《おぼ》えてゆくものにございます」


 アサはわずかに顔《かお》を上《あ》げる。


 タヅマは続《つづ》けた。


「火《ひ》も同《おな》じにございましょう。触《ふ》れねば熱《あつ》さはわからぬもの――けれど一度《いちど》知《し》れば、次《つぎ》は扱《あつか》いを違《たが》えませぬ」


 灯火《ともしび》が、ぱちりと小《ちい》さく音《おと》を立《た》てる。


「アサ殿《どの》は、すでに知《し》り始《はじ》めておいでです。ゆえに――案《あん》ずるには及《およ》びません」


 その声音《こわね》には、断《だん》じる強《つよ》さではなく、長《なが》く積《つ》み重《かさ》ねてきた者《もの》だけが持《も》つ、静《しず》かな確《たし》かさがあった。


 アサは、ただ小《ちい》さく頷《うなず》く。


 胸《むね》の奥《おく》に残《のこ》っていた重《おも》さが、少《すこ》しだけ、ほどけていく。


 タヅマは木簡《もっかん》をひとつ取《と》り、灯火《ともしび》のもとへと静《しず》かに寄《よ》せた。


「では、先日《せんじつ》の続《つづ》きからいたしましょうか」


 その声《こえ》に促《うなが》されるように、アサは姿勢《しせい》を正《ただ》す。


 灯火《ともしび》は静《しず》かに揺《ゆ》れ、影《かげ》はゆるやかに伸《の》びていく。


 外《そと》の闇《やみ》は深《ふか》まり、宮《みや》はやがて眠《ねむ》りにつく。


 その中《なか》で――


 学《まな》びの夜《よる》は、静《しず》かに更《ふ》けていった。



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