学びの夜
夕餉が終わっても、宮の仕事は尽きることがなかった。
炉の火は赤く息づき、炭の奥で小さく爆ぜる音が絶え間なく続いている。
侍女たちは器を集め、木製の椀や陶器を水で洗い、布で丁寧に拭い上げる。
湿った布の匂いと、火に温められた木の香りが混ざり合い、夜の宮に静かに満ちていた。
侍女頭の目は、この時間が最も厳しい。
火の見張りを怠れば、たちまち災いとなる。
器の汚れを残せば、それは穢れとなる。
そんな緊張が、夜の空気を細く張り詰めている。
アサもまた、水桶に手を浸し、器を洗っていた。
冷たい水が指先の熱を奪い、荒れた皮膚にしみる。
やがて、任された分の片付けを終えると、アサはそっと息をついた。
周囲の侍女たちは、まだ忙しなく動いている。
アサには別の務めが許されている。
音を立てぬように身を引き、暗がりへと足を向ける。
木の床がわずかに軋み、その音さえ気にしながら、アサは静かに歩みを進めた。
炉の赤い光が遠ざかるにつれ、宮の奥は一層暗く、静まり返る。
その中で、わずかに灯る火の気配と、人の気配を頼りに、アサは歩く。
特別に与えられた――学ぶ為のひととき。
胸の奥に、小さな高鳴りを抱えたまま、アサはタヅマの元へと向かって行った。
宮の奥は、夜の静けさに沈んでいた。
人の気配もまばらになり、聞こえるのは、遠くで燻る炉の音と、時折きしむ板の音だけ。
タヅマのいる一角には、小さな灯火がひとつ、揺れていた。
獣脂を用いた灯りは強くはなく、土器の縁に溜まった油が、かすかに煙を上げている。
淡い光が周囲をぼんやりと照らし、壁や床にゆらめく影を落としていた。
タヅマは、低く据えた書き台の前に座している。
その前には、薄く削られた木の板や、表面を滑らかに整えた木簡が並び、脇には煤を溶いた墨と、細い筆が静かに置かれていた。
「……遅くなって、すみません」
アサが頭を下げると、タヅマはわずかに目を細めた。
「構いませんよ。本日もよく務められましたな」
その一言だけで、張り詰めていた胸の内が、ふっとほどける。
タヅマは静かに問いかける。
「宮仕えの務め、いかがにございますか。少しは慣れましたかな」
アサは顔を上げかけて、すぐにまた視線を落とした。
「……まだまだ、失敗ばかりで……」
声は小さく、灯火の揺れに紛れそうだった。
しばしの間。
タヅマはすぐには答えず、ただその様子を見ていた。
やがて、静かに口を開く。
「――失って覚ゆるは、務めの常にございます」
低く、落ち着いた声。
「初めから誤らぬ者などおりません。手を汚し、足を止め、そうして覚えてゆくものにございます」
アサはわずかに顔を上げる。
タヅマは続けた。
「火も同じにございましょう。触れねば熱さはわからぬもの――けれど一度知れば、次は扱いを違えませぬ」
灯火が、ぱちりと小さく音を立てる。
「アサ殿は、すでに知り始めておいでです。ゆえに――案ずるには及びません」
その声音には、断じる強さではなく、長く積み重ねてきた者だけが持つ、静かな確かさがあった。
アサは、ただ小さく頷く。
胸の奥に残っていた重さが、少しだけ、ほどけていく。
タヅマは木簡をひとつ取り、灯火のもとへと静かに寄せた。
「では、先日の続きからいたしましょうか」
その声に促されるように、アサは姿勢を正す。
灯火は静かに揺れ、影はゆるやかに伸びていく。
外の闇は深まり、宮はやがて眠りにつく。
その中で――
学びの夜は、静かに更けていった。




