夕刻――
投馬の宮には、炊事場の炉から立ち上る火と煙の匂いが、木の床や梁を伝い、ほのかに漂っていた。
炊き上げた粳米の香りが混ざり合い、乾いた藁敷きの床や土壁にまでじんわりと染み込む。
火の粉が天井の梁に反射し、ゆらゆらと光の粒を落とすたび、室内に温もりと微かな緊張が満ちる。
アサは、まだ見習いとして補助の身に甘んじ、夕餉の準備に勤しんでいた。
今日は初めて侍女頭に付き従い、配膳を任されることになっていた。
月が丸く満ちるごとに、ミナギたち王族と国を支える長たちが高殿に集い、共に食を囲む時があった。
普段よりも人の出入りは多く、宮には張り詰めた空気が流れている。
陶器の小皿や高坏、漆塗りの盆を慎重に揃え、山菜や魚の小鉢を丁寧に並べる。
宮の奥――高殿の広間。
天井は太い杉の梁で組まれ、その間に縄で結った葦や藁が敷かれ、天井裏の空気がほのかに湿っている。
床は堅く磨かれた木製で、踏みしめるとわずかに軋む音が響く。
木の床の上には、王族の座す場所に沿って柔らかな鹿皮が敷かれ、足先に触れるたびにわずかに弾力が返る。
色の濃淡が自然のまま残るその鹿皮は、温かみと野趣を兼ね備え、宮の厳粛さを和らげる。
天井の梁から差し込む夕陽が、陶器や漆器に反射し、広間全体を黄金色に染める。
香炉から立ち上る香は、檜や松の香木を焚いたもので、煙はゆらりと宙に漂い、広間の隅々まで広がる。
その広間は、単なる居室ではなく、権威と神聖さを象徴する場であった。
火の揺らめきが柱や壁に柔らかく光の筋を描き、室内は静かでありながら、張り詰めた空気が満ちている。
炎が揺れるたび、器の縁がきらりと光り、アサの胸の鼓動もその光に合わせて高まる。
上座に座するのはミナギ。
向かいには宇良が座し、更にその隣には、まだ幼いハヤトが、手を膝に置き、緊張を隠すかのように座っている。
――ふと、目が合う。
ハヤトが、にっこりと笑った。
無邪気な笑み。
思わず、アサもつられて笑う。
その瞬間。
別の視線が刺さる。
宇良だ。
何も言わない。
だが、見ている。
空気が、わずかに張り詰める。
アサは息を殺し、視線を落とした。
ミナギと近い席には、タヅマと、険しい顔つきの中年の男たちが数人座していた。
顔に皺を刻み、口元を固く結んだ彼らの視線は、場の空気を一層引き締め、アサは思わず身を強張らせる。
歩幅ひとつ、手の置き方ひとつにも気を配りながら、彼女は初めての配膳に緊張しつつ、一歩ずつ慎重にお膳を運んだ。
ミナギの近くを通り過ぎる瞬間――
微かに耳元で、低く、声がした。
「転ぶなよ」
そのひと言に、アサは一瞬足が止まり、心臓が高鳴る。
炎の揺らめきに照らされたミナギは、ほんの少しの楽しさを含んだ表情で、静かにこちらを見つめていた。
アサは息を整え、視線を落としながら、再び歩みを進める。
お膳をすべて所定の位置に置き終えると、アサは小さく安堵の息をつく。
肩の力を抜き、指先の緊張が少しずつほどけていくのを感じた。
ミナギがちらりと視線を向け、穏やかに微笑む。
タヅマが立ち上がる。
腰を軽くかがめ、両手を前に重ね、頭を垂れる。
天地の神よ
祖先の御霊よ
此の日に糧を賜いしことを
畏み敬いて奉る
稲の穂よ 実り満ちませ
魚よ 数多にあれ
山の幸よ 集い来ませ
我らに恵みを与え
命を永らえしめたまえ
タヅマの祈りは厳かでありながら穏やかに唱えられ、広間全体に波のように響く。
その場に座す王族や高位者たちは、静かに頭を垂れる。
炎の匂い、炊き立ての米の香り、副菜の香り――
すべてがひとつの場として、神々と祖先への祈りを包み込んでいた。
アサはその儀式の重みと神聖さに、自然と背筋を伸ばす。
見習いとして初めて目の当たりにする光景――
食事の前の静けさと祈りは、宮に生きる者たちの日常に深く根付いた、生命の息吹を感じさせる瞬間だった。