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アマガタリ  作者: ひよりの
第一章
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労働――夕餉



 夕刻《ゆうこく》――


 投馬《とうま》の宮《みや》には、炊事場《すいじば》の炉《ろ》から立《た》ち上《のぼ》る火《ひ》と煙《けむり》の匂《にお》いが、木《き》の床《ゆか》や梁《はり》を伝《つた》い、ほのかに漂《ただよ》っていた。


 炊《た》き上《あ》げた粳米《うるちまい》の香《かお》りが混《ま》ざり合《あ》い、乾《かわ》いた藁敷《わらじ》きの床《ゆか》や土壁《つちかべ》にまでじんわりと染《し》み込《こ》む。


 火《ひ》の粉《こ》が天井《てんじょう》の梁《はり》に反射《はんしゃ》し、ゆらゆらと光《ひかり》の粒《つぶ》を落《お》とすたび、室内《しつない》に温《ぬく》もりと微《かす》かな緊張《きんちょう》が満《み》ちる。


 アサは、まだ見習《みなら》いとして補助《ほじょ》の身《み》に甘《あま》んじ、夕餉《ゆうげ》の準備《じゅんび》に勤《いそ》しんでいた。


 今日《きょう》は初《はじ》めて侍女頭《じじょがしら》に付《つ》き従《したが》い、配膳《はいぜん》を任《まか》されることになっていた。


 月《つき》が丸《まる》く満《み》ちるごとに、ミナギたち王族《おうぞく》と国《くに》を支《ささ》える長《おさ》たちが高殿《たかどの》に集《つど》い、共《とも》に食《しょく》を囲《かこ》む時《とき》があった。


 普段《ふだん》よりも人《ひと》の出入《でい》りは多《おお》く、宮《みや》には張《は》り詰《つ》めた空気《くうき》が流《なが》れている。


 陶器《とうき》の小皿《こざら》や高坏《たかつき》、漆塗《うるしぬ》りの盆《ぼん》を慎重《しんちょう》に揃《そろ》え、山菜《さんさい》や魚《さかな》の小鉢《こばち》を丁寧《ていねい》に並《なら》べる。


 

 宮《みや》の奥《おく》――高殿《たかどの》の広間《ひろま》。


 天井《てんじょう》は太《ふと》い杉《すぎ》の梁《はり》で組《く》まれ、その間《あいだ》に縄《なわ》で結《ゆ》った葦《あし》や藁《わら》が敷《し》かれ、天井裏《てんじょううら》の空気《くうき》がほのかに湿《しめ》っている。


 床《ゆか》は堅《かた》く磨《みが》かれた木製《もくせい》で、踏《ふ》みしめるとわずかに軋《きし》む音《おと》が響《ひび》く。


 木《き》の床《ゆか》の上《うえ》には、王族《おうぞく》の座《ざ》す場所《ばしょ》に沿《そ》って柔《やわ》らかな鹿皮《しかがわ》が敷《し》かれ、足先《あしさき》に触《ふ》れるたびにわずかに弾力《だんりょく》が返《かえ》る。


 色《いろ》の濃淡《のうたん》が自然《しぜん》のまま残《のこ》るその鹿皮《しかがわ》は、温《あたた》かみと野趣《やしゅ》を兼《か》ね備《そな》え、宮《みや》の厳粛《げんしゅく》さを和《やわ》らげる。


 天井《てんじょう》の梁《はり》から差《さ》し込《こ》む夕陽《ゆうひ》が、陶器《とうき》や漆器《しっき》に反射《はんしゃ》し、広間《ひろま》全体《ぜんたい》を黄金色《こがねいろ》に染《そ》める。


 香炉《こうろ》から立《た》ち上《のぼ》る香《こう》は、檜《ひのき》や松《まつ》の香木《こうぼく》を焚《た》いたもので、煙《けむり》はゆらりと宙《ちゅう》に漂《ただよ》い、広間《ひろま》の隅々(すみずみ)まで広《ひろ》がる。


 その広間《ひろま》は、単《たん》なる居室《きょしつ》ではなく、権威《けんい》と神聖《しんせい》さを象徴《しょうちょう》する場《ば》であった。


 火《ひ》の揺《ゆ》らめきが柱《はしら》や壁《かべ》に柔《やわ》らかく光《ひかり》の筋《すじ》を描《えが》き、室内《しつない》は静《しず》かでありながら、張《は》り詰《つ》めた空気《くうき》が満《み》ちている。


 炎《ほのお》が揺《ゆ》れるたび、器《うつわ》の縁《ふち》がきらりと光《ひか》り、アサの胸《むね》の鼓動《こどう》もその光《ひかり》に合《あ》わせて高《たか》まる。



 上座《かみざ》に座《ざ》するのはミナギ。


 向《む》かいには宇良《うら》が座《ざ》し、更《さら》にその隣《となり》には、まだ幼《おさな》いハヤトが、手《て》を膝《ひざ》に置《お》き、緊張《きんちょう》を隠《かく》すかのように座《すわ》っている。



 ――ふと、目《め》が合《あ》う。


 ハヤトが、にっこりと笑《わら》った。


 無邪気《むじゃき》な笑《え》み。


 思《おも》わず、アサもつられて笑《わら》う。


 その瞬間《しゅんかん》。


 別《べつ》の視線《しせん》が刺《さ》さる。


 宇良《うら》だ。


 何《なに》も言《い》わない。


 だが、見《み》ている。


 空気《くうき》が、わずかに張《は》り詰《つ》める。


 アサは息《いき》を殺《ころ》し、視線《しせん》を落《お》とした。



 ミナギと近《ちか》い席《せき》には、タヅマと、険《けわ》しい顔《かお》つきの中年《ちゅうねん》の男《おとこ》たちが数人《すうにん》座《ざ》していた。


 顔《かお》に皺《しわ》を刻《きざ》み、口元《くちもと》を固《かた》く結《むす》んだ彼《かれ》らの視線《しせん》は、場《ば》の空気《くうき》を一層《いっそう》引《ひ》き締《し》め、アサは思《おも》わず身《み》を強張《こわば》らせる。


 歩幅《ほはば》ひとつ、手《て》の置《お》き方《かた》ひとつにも気《き》を配《くば》りながら、彼女《かのじょ》は初《はじ》めての配膳《はいぜん》に緊張《きんちょう》しつつ、一歩《いっぽ》ずつ慎重《しんちょう》にお膳《ぜん》を運《はこ》んだ。


 ミナギの近《ちか》くを通《とお》り過《す》ぎる瞬間《しゅんかん》――


 微《かす》かに耳元《みみもと》で、低《ひく》く、声《こえ》がした。


「転《ころ》ぶなよ」


 そのひと言《こと》に、アサは一瞬《いっしゅん》足《あし》が止《と》まり、心臓《しんぞう》が高鳴《たかな》る。


 炎《ほのお》の揺《ゆ》らめきに照《て》らされたミナギは、ほんの少《すこ》しの楽《たの》しさを含《ふく》んだ表情《ひょうじょう》で、静《しず》かにこちらを見《み》つめていた。


 アサは息《いき》を整《ととの》え、視線《しせん》を落《お》としながら、再《ふたた》び歩《あゆ》みを進《すす》める。


 お膳《ぜん》をすべて所定《しょてい》の位置《いち》に置《お》き終《お》えると、アサは小《ちい》さく安堵《あんど》の息《いき》をつく。


 肩《かた》の力《ちから》を抜《ぬ》き、指先《ゆびさき》の緊張《きんちょう》が少《すこ》しずつほどけていくのを感《かん》じた。


 ミナギがちらりと視線《しせん》を向《む》け、穏《おだ》やかに微笑《ほほえ》む。



 タヅマが立《た》ち上《あ》がる。


 腰《こし》を軽《かる》くかがめ、両手《りょうて》を前《まえ》に重《かさ》ね、頭《こうべ》を垂《た》れる。


 

 天地《あめつち》の神《かみ》よ


 祖先《おやすえ》の御霊《みたま》よ


 此《こ》の日《ひ》に糧《かて》を賜《たま》いしことを


 畏《かしこ》み敬《うやま》いて奉《たてまつ》る



 稲《いね》の穂《ほ》よ 実《みの》り満《み》ちませ


 魚《うお》よ 数多《あまた》にあれ


 山《やま》の幸《さち》よ 集《つど》い来《き》ませ


 我《われ》らに恵《めぐ》みを与《あた》え


 命《いのち》を永《なが》らえしめたまえ



 タヅマの祈《いの》りは厳《おごそ》かでありながら穏《おだ》やかに唱《とな》えられ、広間《ひろま》全体《ぜんたい》に波《なみ》のように響《ひび》く。


 その場《ば》に座《ざ》す王族《おうぞく》や高位者《こういしゃ》たちは、静《しず》かに頭《こうべ》を垂《た》れる。


 炎《ほのお》の匂《にお》い、炊《た》き立《た》ての米《こめ》の香《かお》り、副菜《ふくさい》の香《かお》り――


 すべてがひとつの場《ば》として、神々(かみがみ)と祖先《そせん》への祈《いの》りを包《つつ》み込《こ》んでいた。



 アサはその儀式《ぎしき》の重《おも》みと神聖《しんせい》さに、自然《しぜん》と背筋《せすじ》を伸《の》ばす。


 見習《みなら》いとして初《はじ》めて目《め》の当《あ》たりにする光景《こうけい》――


 食事《しょくじ》の前《まえ》の静《しず》けさと祈《いの》りは、宮《みや》に生《い》きる者《もの》たちの日常《にちじょう》に深《ふか》く根付《ねづ》いた、生命《せいめい》の息吹《いぶき》を感《かん》じさせる瞬間《しゅんかん》だった。



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