踏み出す
庭は、朝の光をやわらかく受けとめ、静かに息づいていた。
低く刈られた草は露を含み、踏みしめるたびにかすかな音を返す。
湿り気を帯びた空気が、足元からゆっくりと立ち上がってくるようだった。
朝の光が斜めから差し込み、並んで歩く二人の輪郭を淡く縁取っていた。
不意に、ミナギが口を開く。
「学びはどうだ」
何気ない問いの形をしていながら、その声にはわずかな間があった。
ただの確認ではない――アサの反応を見定めるような、静かな探りが滲む。
「うん、楽しいよ」
アサは、ためらいなく頷く。
頬に触れる朝の空気が、少し冷たい。
「タヅマ様の教え方、わかりやすいし」
「ほう」
ミナギの口元が、ほんのわずかに緩む。
視線は前を向いたままだが、その気配は確かに柔らいだ。
「随分と気に入ったようだな」
「うん」
素直な肯定。
草を踏む音だけが、妙にはっきりと耳に残る。
「では、もう俺の出る幕はないか」
軽く肩をすくめる仕草。
冗談とも本気ともつかない言い方。
アサは一瞬きょとんとし、すぐに小さく吹き出した。
その笑いは、張りつめた空気をほどくようだった。
ミナギもつられて笑う。
庭の静けさの中に、短く弾むような音が消えていった。
(……よし、いい雰囲気)
胸の奥で、小さく息を整える。
しばしの沈黙。
朝の空気を吸い込むと、ひんやりとした感触が肺の奥まで届く。
「……あのね」
歩みはそのままに、言葉だけが一歩前に出る。
「ここに来てから、ずっとお世話になりっぱなしでしょ」
足元の露が、光を受けて小さく瞬く。
「食事も美味しいし、寝る場所も、びっくりするくらい整ってて……」
言葉を重ねるごとに、胸の奥にあった違和感が、形を持ちはじめる。
「そのうえ、読み書きまで教えてもらってる」
居心地の良さの裏にある、落ち着かなさ。
「すごくすごく、ありがたいんだけど――」
視線がわずかに落ちる。
だが、声は止まらない。
「落ちつかないの」
風が、草の表面を撫でていく。
露が震え、わずかな光を散らした。
ミナギは、小さく息を吐いた。
その吐息は、白くはならないが、朝の冷気の中で確かな存在感を持つ。
「贅沢な悩みだな」
軽く笑う声音。
突き放すわけでもない、どこか余白のある響き。
「普通は喜ぶところだろう」
「わかってるよ」
アサの歩幅が、わずかに乱れる。
「でも、落ちつかないものは落ちつかないの」
そのまま足を止める。
草を踏む音が途切れ、庭の静けさが一気に戻ってくる。
「……働かせてください」
きっぱりとした声音。
朝の空気をまっすぐに裂くように、言葉が落ちた。
ミナギも足を止める。
ゆっくりと振り返る動作に、わずかな間がある。
その目は、わずかに細められていた。
試すような、測るような視線。
「ここで――宮で、何か役に立ちたいの」
一歩、踏み込む。
草が鳴る音が、今度ははっきりと響いた。
ミナギはその動きを受けて、わずかに眉を上げる。
「客人の立場を、自分から捨てるか」
声音は淡々としている。
だがその奥に、興味の色がわずかに混じる。
「捨てるっていうか――」
「楽ができる身分だぞ?」
言葉を遮るように続ける。
あえて軽く、誇張する調子。
「朝は起こされ、食は運ばれ、学びは与えられ――至れり尽くせりだ」
視線が、ほんの一瞬だけ横に流れる。
「俺なら、しばらくは堕落する」
口元が歪む。
自嘲とも冗談ともつかない笑み。
「しないでしょ」
即答。
「ミナギに似合わないもん」
間髪入れない返しに、ミナギは小さく笑った。
その笑いは、先ほどよりも自然だった。
だが――すぐに、視線が細くなる。
ゆっくりと、アサの体をなぞるように見る。
傷の痕、動きのわずかなぎこちなさ。
「まだ万全とは言えんだろう」
低く、現実を置く声。
「でも、何もしないのはもっと嫌」
すぐに返る。
その声には、先ほどよりもはっきりと熱があった。
「ここにいるなら、ここで役に立ちたい」
胸の奥から押し出されるような言葉。
(――あなたの役に立てる人でいたいの)
その本音は、喉元で留める。
代わりに、まっすぐ見上げる。
朝の光を受けた瞳は、揺れていない。
ミナギは、その視線を受け止める。
逃げることなく、正面から。
やがて、小さく息を吐いた。
「……物好きだな」
だがその声音は、先ほどよりもわずかに柔らかい。
「そこまで言うなら止めはせん」
肩をすくめる。
「ただし――」
ミナギは、わずかに言葉を止めた。
「倒れたら、即刻客人に戻すぞ」
冗談めかしてはいたが、その奥にわずかな本音が滲むような声だった。
「倒れないよ」
アサは即答する。
迷いはない。
ミナギの口端が、ほんのわずかに上がる。
「――侍女頭に話は通してやる」
そう言って、再び歩き出す。
足元で、また草が鳴る。
今度は先ほどよりも、少し軽い音だった。
アサはその背を見つめる。
朝の光の中で、その輪郭ははっきりとしている。
ふっと、息を吐く。
胸の奥にあった重さは、まだ完全には消えていない。
けれど――
足元の地面が、わずかに前へと開けたような感覚。
庭の空気は変わらず静かだが、
その静けさの中で、確かに一歩、進んでいた。




