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アマガタリ  作者: ひよりの
第一章
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踏み出す



 庭《にわ》は、朝《あさ》の光《ひかり》をやわらかく受《う》けとめ、静《しず》かに息《いき》づいていた。


 低《ひく》く刈《か》られた草《くさ》は露《つゆ》を含《ふく》み、踏《ふ》みしめるたびにかすかな音《おと》を返《かえ》す。


 湿《しめ》り気《け》を帯《お》びた空気《くうき》が、足元《あしもと》からゆっくりと立《た》ち上《あ》がってくるようだった。


 朝《あさ》の光《ひかり》が斜《なな》めから差《さ》し込《こ》み、並《なら》んで歩《ある》く二人《ふたり》の輪郭《りんかく》を淡《あわ》く縁取《ふちど》っていた。


 不意《ふい》に、ミナギが口《くち》を開《ひら》く。


「学《まな》びはどうだ」


 何気《なにげ》ない問《と》いの形《かたち》をしていながら、その声《こえ》にはわずかな間《ま》があった。


 ただの確認《かくにん》ではない――アサの反応《はんのう》を見定《みさだ》めるような、静《しず》かな探《さぐ》りが滲《にじ》む。


「うん、楽《たの》しいよ」


 アサは、ためらいなく頷《うなず》く。


 頬《ほお》に触《ふ》れる朝《あさ》の空気《くうき》が、少《すこ》し冷《つめ》たい。


「タヅマ様《さま》の教《おし》え方《かた》、わかりやすいし」


「ほう」


 ミナギの口元《くちもと》が、ほんのわずかに緩《ゆる》む。


 視線《しせん》は前《まえ》を向《む》いたままだが、その気配《けはい》は確《たし》かに柔《やわ》らいだ。


「随分《ずいぶん》と気《き》に入《い》ったようだな」


「うん」


 素直《すなお》な肯定《こうてい》。


 草《くさ》を踏《ふ》む音《おと》だけが、妙《みょう》にはっきりと耳《みみ》に残《のこ》る。


「では、もう俺《おれ》の出《で》る幕《まく》はないか」


 軽《かる》く肩《かた》をすくめる仕草《しぐさ》。


 冗談《じょうだん》とも本気《ほんき》ともつかない言《い》い方《かた》。


 アサは一瞬《いっしゅん》きょとんとし、すぐに小《ちい》さく吹《ふ》き出《だ》した。


 その笑《わら》いは、張《は》りつめた空気《くうき》をほどくようだった。


 ミナギもつられて笑《わら》う。


 庭《にわ》の静《しず》けさの中《なか》に、短《みじか》く弾《はず》むような音《おと》が消《き》えていった。


(……よし、いい雰囲気《ふんいき》)


 胸《むね》の奥《おく》で、小《ちい》さく息《いき》を整《ととの》える。


 しばしの沈黙《ちんもく》。


 朝《あさ》の空気《くうき》を吸《す》い込《こ》むと、ひんやりとした感触《かんしょく》が肺《はい》の奥《おく》まで届《とど》く。


「……あのね」


 歩《あゆ》みはそのままに、言葉《ことば》だけが一歩《いっぽ》前《まえ》に出《で》る。


「ここに来《き》てから、ずっとお世話《せわ》になりっぱなしでしょ」


 足元《あしもと》の露《つゆ》が、光《ひかり》を受《う》けて小《ちい》さく瞬《またた》く。


「食事《しょくじ》も美味《おい》しいし、寝《ね》る場所《ばしょ》も、びっくりするくらい整《ととの》ってて……」


 言葉《ことば》を重《かさ》ねるごとに、胸《むね》の奥《おく》にあった違和感《いわかん》が、形《かたち》を持《も》ちはじめる。


「そのうえ、読《よ》み書《か》きまで教《おし》えてもらってる」


 居心地《いごこち》の良《よ》さの裏《うら》にある、落《お》ち着《つ》かなさ。


「すごくすごく、ありがたいんだけど――」


 視線《しせん》がわずかに落《お》ちる。


 だが、声《こえ》は止《と》まらない。


「落《お》ちつかないの」


 風《かぜ》が、草《くさ》の表面《ひょうめん》を撫《な》でていく。


 露《つゆ》が震《ふる》え、わずかな光《ひかり》を散《ち》らした。


 ミナギは、小《ちい》さく息《いき》を吐《は》いた。


 その吐息《といき》は、白《しろ》くはならないが、朝《あさ》の冷気《れいき》の中《なか》で確《たし》かな存在感《そんざいかん》を持《も》つ。


「贅沢《ぜいたく》な悩《なや》みだな」


 軽《かる》く笑《わら》う声音《こわね》。


 突《つ》き放《はな》すわけでもない、どこか余白《よはく》のある響《ひび》き。


「普通《ふつう》は喜《よろこ》ぶところだろう」


「わかってるよ」


 アサの歩幅《ほはば》が、わずかに乱《みだ》れる。


「でも、落《お》ちつかないものは落《お》ちつかないの」


 そのまま足《あし》を止《と》める。


 草《くさ》を踏《ふ》む音《おと》が途切《とぎ》れ、庭《にわ》の静《しず》けさが一気《いっき》に戻《もど》ってくる。


「……働《はたら》かせてください」


 きっぱりとした声音《こわいろ》。


 朝《あさ》の空気《くうき》をまっすぐに裂《さ》くように、言葉《ことば》が落《お》ちた。


 ミナギも足《あし》を止《と》める。


 ゆっくりと振《ふ》り返《かえ》る動作《どうさ》に、わずかな間《ま》がある。


 その目《め》は、わずかに細《ほそ》められていた。


 試《ため》すような、測《はか》るような視線《しせん》。


「ここで――宮《みや》で、何《なに》か役《やく》に立《た》ちたいの」


 一歩《いっぽ》、踏《ふ》み込《こ》む。


 草《くさ》が鳴《な》る音《おと》が、今度《こんど》ははっきりと響《ひび》いた。


 ミナギはその動《うご》きを受《う》けて、わずかに眉《まゆ》を上《あ》げる。


「客人《きゃくじん》の立場《たちば》を、自分《じぶん》から捨《す》てるか」

 

 声音《こわいろ》は淡々(たんたん)としている。


 だがその奥《おく》に、興味《きょうみ》の色《いろ》がわずかに混《ま》じる。


「捨《す》てるっていうか――」


「楽《らく》ができる身分《みぶん》だぞ?」


 言葉《ことば》を遮《さえぎ》るように続《つづ》ける。


 あえて軽《かる》く、誇張《こちょう》する調子《ちょうし》。


「朝《あさ》は起《お》こされ、食《しょく》は運《はこ》ばれ、学《まな》びは与《あた》えられ――至《いた》れり尽《つ》くせりだ」


 視線《しせん》が、ほんの一瞬《いっしゅん》だけ横《よこ》に流《なが》れる。


「俺《おれ》なら、しばらくは堕落《だらく》する」


 口元《くちもと》が歪《ゆが》む。


 自嘲《じちょう》とも冗談《じょうだん》ともつかない笑《え》み。


「しないでしょ」


 即答《そくとう》。


「ミナギに似合《にあ》わないもん」


 間髪《かんはつ》入《い》れない返《かえ》しに、ミナギは小《ちい》さく笑《わら》った。


 その笑《わら》いは、先《さき》ほどよりも自然《しぜん》だった。


 だが――すぐに、視線《しせん》が細《ほそ》くなる。


 ゆっくりと、アサの体《からだ》をなぞるように見《み》る。


 傷《きず》の痕《あと》、動《うご》きのわずかなぎこちなさ。


「まだ万全《ばんぜん》とは言《い》えんだろう」


 低《ひく》く、現実《げんじつ》を置《お》く声《こえ》。


「でも、何《なに》もしないのはもっと嫌《いや》」


 すぐに返《かえ》る。


 その声《こえ》には、先《さき》ほどよりもはっきりと熱《ねつ》があった。


「ここにいるなら、ここで役《やく》に立《た》ちたい」


 胸《むね》の奥《おく》から押《お》し出《だ》されるような言葉《ことば》。


(――あなたの役《やく》に立《た》てる人《ひと》でいたいの)


 その本音《ほんね》は、喉元《のどもと》で留《とど》める。


 代《か》わりに、まっすぐ見上《みあ》げる。


 朝《あさ》の光《ひかり》を受《う》けた瞳《ひとみ》は、揺《ゆ》れていない。


 ミナギは、その視線《しせん》を受《う》け止《と》める。


 逃《に》げることなく、正面《しょうめん》から。


 やがて、小《ちい》さく息《いき》を吐《は》いた。


「……物好《ものず》きだな」


 だがその声音《こわね》は、先《さき》ほどよりもわずかに柔《やわ》らかい。


「そこまで言《い》うなら止《と》めはせん」


 肩《かた》をすくめる。


「ただし――」


 ミナギは、わずかに言葉《ことば》を止《と》めた。


「倒《たお》れたら、即刻《そっこく》客人《きゃくじん》に戻《もど》すぞ」


 冗談《じょうだん》めかしてはいたが、その奥《おく》にわずかな本音《ほんね》が滲《にじ》むような声《こえ》だった。


「倒《たお》れないよ」


 アサは即答《そくとう》する。


 迷《まよ》いはない。


 ミナギの口端《くちはし》が、ほんのわずかに上《あ》がる。


「――侍女頭《じじょがしら》に話《はなし》は通《とお》してやる」


 そう言《い》って、再《ふたた》び歩《ある》き出《だ》す。


 足元《あしもと》で、また草《くさ》が鳴《な》る。


 今度《こんど》は先《さき》ほどよりも、少《すこ》し軽《かる》い音《おと》だった。


 アサはその背《せ》を見《み》つめる。


 朝《あさ》の光《ひかり》の中《なか》で、その輪郭《りんかく》ははっきりとしている。


 ふっと、息《いき》を吐《は》く。


 胸《むね》の奥《おく》にあった重《おも》さは、まだ完全《かんぜん》には消《き》えていない。


 けれど――


 足元《あしもと》の地面《じめん》が、わずかに前《まえ》へと開《ひら》けたような感覚《かんかく》。


 庭《にわ》の空気《くうき》は変《か》わらず静《しず》かだが、


 その静《しず》けさの中《なか》で、確《たし》かに一歩《いっぽ》、進《すす》んでいた。



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