素地
その日の夕刻。
執務の合間、ふと足音もなく現れた影に、タヅマは筆を止めた。
「――殿」
顔を上げるまでもない。
気配で分かる。
「何用にございますか」
「いや」
そこで言葉が切れる。
タヅマはわずかに眉を動かした。
「その、どうだったんだ」
視線がわずかに逸れる。
「今日の、あれは」
「あれ、とは?」
タヅマはあえて平坦に返す。
ミナギは一瞬だけ黙り、
「……ほら、例の」
言い淀む。
タヅマは知らぬ顔を崩さない。
「例の、と申されましても」
静かに促す。
ミナギは小さく息をつき、
「――アサは」
ようやく名が出る。
やはりそれか、とタヅマは内心で息をつく。
「本日、少々見ておりましたが」
淡々と答える。
「大変覚えが早うございます。既に文字にも触れておられたようで」
「そうか」
短い相槌。
だが、その声音が、わずかに軽い。
タヅマは視線を上げた。
ミナギは腕を組み、何でもない顔をしている。
――が。
口元が、ほんの僅かに緩んでいる。
「だろうな」
タヅマは一瞬、言葉を失った。
(――だろうな?)
「元が違う」
平然と続く。
タヅマは筆を置いた。
「殿」
「何だ」
「ご自分が育てたかのような口ぶりですな?」
間髪入れず返す。
ミナギはわずかに目を細めた。
「間違ってはいない」
「教えたのは文字の端緒のみでございましょう」
「それで十分だ」
「左様でございますか」
さらりと流す。
だが内心では、軽く首を振る。
(…やれやれ)
視線を落とし、再び筆を取る。
「いずれにせよ、素地は上々」
変わらぬ調子で続ける。
「今後の努力次第で、いかようにも伸びましょう」
「そうだな」
また、すぐに返る。
やはりどこか、満足げだ。
タヅマは筆先を紙に走らせながら、わずかにだけ目を細めた。
(自分の手柄でもあるまいに)
それでも――
否定はしない。
むしろ。
(あの娘にとっては、悪くない)
そう結論づける。
「明日も同刻にて、続けます」
「ああ、頼む」
短く応じる声。
用は済んだとばかりに、ミナギは踵を返す。
その背を見送りながら――
(……分かりやすい御方だ)
タヅマは、ほんの僅かに肩の力を抜いた。




