学び
アサが投馬国に来てから、早くも三月が過ぎていた。
傷は癒え、宮で与えられる滋味豊かな食事により、気力も体力も戻りつつあった。
それでもなお――
見知らぬ地に身を置くという緊張は、抜けきるものではない。
慣れぬ空気、慣れぬ人々、慣れぬ視線。
それらが積もるようにして、微かな疲労となって身体の奥に残っていた。
早朝、アサは宮の一角にある静かな一室へと通された。
低く据えられた机。
几帳面に束ねられた木簡。
その奥に、タヅマが控えている。
――あの時の。
ミナギの即位の儀において、神言を司り、場を鎮めていた、老いた祭司。
その後も、アサの様子を気にかけてくれていたのか、廊や庭先で声をかけられ、幾度か短く言葉を交わしたことがある。
その折と変わらぬ、過不足のない佇まいが、かえってアサの肩の力をわずかに抜かせた。
「お加減はいかがにございますかな」
柔らかな声音。
「もう、動けます」
「それは何よりでございます」
丁寧に頷く。
だがその視線は、アサの立ち姿、重心の置き方、目の動きまでを静かに観察しているようだった。
「本日は、少しお時間をいただいてもよろしいでしょうか」
「……はい」
断れるような空気ではない。
けれど、無理に押しつけられている感じでもなかった。
タヅマは机を指し示す。
「どうぞ、おかけください」
アサが座るのを待ってから、自身も腰を下ろす。
そのひとつひとつの所作が、無駄なく整っている。
「ここでの暮らしは、いかがでございますか」
唐突な問い。
アサはわずかに考え、言葉を探す。
「……知らないことばかりで」
「それは結構」
即座に返る。
「知らぬことがある、というのは、伸びる余地があるということ」
柔らかいが、はっきりした言葉だった。
タヅマは一本の木簡を取り上げた。
「その、知らぬことを、ひとつずつ減らして参りましょう」
机上に置く。
「まずは、文字にございます」
「文字」
「はい。言葉を留めるもの」
指で刻まれた線をなぞる。
アサはそれを見て――
「あ」
小さく声を漏らした。
タヅマの視線が、わずかに動く。
「ご存じで?」
アサは少しだけ戸惑いながら答える。
「少しだけ。前に、ミナギ――」
言いかけて、言い直す。
「ミナギ様が、教えてくれて」
「ほう」
わずかに眉が上がる。
「では、試してみましょう」
穏やかに続ける。
「これは何と読みますか」
木簡をひとつ、指で示す。
アサは目を凝らす。
記憶をたどる。
「……山、です」
「結構」
間を置かずに返る。
「では、こちらは」
「……川」
「よろしい」
アサは少しだけ肩の力を抜いた。
だが――
「では、もう少々追加いたしましょう」
アサは思わず顔を上げる。
タヅマは静かに微笑む。
「既に触れておられるのであれば、進みも早うございましょう」
言い方は丁寧だが容赦がない。
アサは小さく息をのむ。
「『人』『日』『月』――合わせて五つ」
「五つ……」
「最初としては、少ない方でございます」
さらりと言う。
「……文字って、たくさんあるんですね」
アサは苦笑した。
「数えきれぬほどに」
タヅマは頷きながら答える。
「……やってみます」
「結構」
短く頷く。
アサはひとつひとつを見つめる。
指でなぞる。
「これは、人」
「はい」
「これは、日」
「ええ」
間違えれば、即座に正され、だが、咎めはしない。
ただ、正しい形へと導くだけ。
静かで、容赦のない積み重ね。
やがて、タヅマはひとつ頷き、手を止めた。
「ひとまず、こちらはよろしいでしょう」
アサはほっと息をつきかける。
が――
「次に参ります」
そのまま続いた。
「えっ」
思わず声が出る。
タヅマは小さく首を傾げる。
「何か」
「い、いえ……」
逃げ場はない。
タヅマは簡素な図を広げた。
「こちらをご覧ください」
線で囲まれた地。
「ここが倭にございます」
指が動く。
「貴女様のいた場所も、この中のひとつに過ぎませぬ」
更に指が外へと滑る。
「そして、こちらが海。その先に、魏、呉といった国がございます」
その名に、アサは少しだけ息をのむ。
「……聞いたこと、あります」
ぽつりとこぼす。
タヅマの目が、わずかに細まる。
「ほう」
「ミナギ……様が、よく遠くの国の話、してくれて」
言葉を選びながら言う。
「大きくて、強い国だって」
「左様にございます」
タヅマが頷く。
「魏は、いま最も勢いのある国。北の広き地を治め、数多の兵と民を擁しております」
指先で、海の向こうをなぞる。
「呉は、その南にて水を制する国。大河と海に長け、舟をもって戦うを得手としております」
一呼吸、置く。
「いずれも、この倭国とは――まるで別の世のような大国にございます」
アサは息をのみ、窓の外――遥か向こうへ目を向けた。
見えぬはずの彼方に、確かに何かがあるのだと、初めて実感したように。
「では、最後に」
木簡をまたひとつ、差し出す。
「ご自身の名を」
アサはそれを見る。
まだ完全には読めない線。
けれど、どこか見覚えがある。
「……これも、前に……」
指でなぞる。
「教えてもらった気がします」
「では、思い出してみなされ」
優しく促す。
アサは口を引き結び、眉間に薄く皺を寄せる。
記憶を辿る。
ゆっくりと――
「……ア、サ」
「結構」
すぐに返る。
「では、それを刻めるようになりなさい」
終わりではない。
むしろ始まりだ。
アサは木簡を見つめ、そして頷いた。
「はい」
その声には、先ほどよりも確かな意志があった。
――やはり。
タヅマは目を細める。
目がいい。
飲み込みも早い。
(素地は十分)
表には出さない。
タヅマはひとつ咳払いをし、静かに一礼する。
「本日はここまでに」
顔を上げると、穏やかな表情に戻っている。
「明日も、同じ刻にお時間をいただきます」
「はい」
アサは素直に頷いた。
部屋を出ていくその小さな背を見送りながら、タヅマは内心で静かに測る。
礼、言葉、立ち居振る舞い。
そして、知識。
(整えれば、見劣りはせぬ)
急がず、崩さず、順に積み上げていけば――
いずれ機は熟す。
その折には、ミナギの隣に立てるだけの器へと、静かに仕上がっていることだろう。
――そう見定めながら。
タヅマは、誰にも悟られぬよう、ほんのわずかに唇の端を緩めた。




