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アマガタリ  作者: ひよりの
第一章
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学び



 アサが投馬国《とうまこく》に来《き》てから、早《はや》くも三月《みつき》が過《す》ぎていた。


 傷《きず》は癒《い》え、宮《みや》で与《あた》えられる滋味豊《じみゆた》かな食事《しょくじ》により、気力《きりょく》も体力《たいりょく》も戻《もど》りつつあった。


 それでもなお――


 見知《みし》らぬ地《ち》に身《み》を置《お》くという緊張《きんちょう》は、抜《ぬ》けきるものではない。


 慣《な》れぬ空気《くうき》、慣《な》れぬ人々(ひとびと)、慣《な》れぬ視線《しせん》。


 それらが積《つ》もるようにして、微《かす》かな疲労《ひろう》となって身体《からだ》の奥《おく》に残《のこ》っていた。



 早朝《そうちょう》、アサは宮《みや》の一角《いっかく》にある静《しず》かな一室《いっしつ》へと通《とお》された。


 低《ひく》く据《す》えられた机《つくえ》。


 几帳面《きちょうめん》に束《たば》ねられた木簡《もっかん》。


 その奥《おく》に、タヅマが控《ひか》えている。


 ――あの時《とき》の。


 ミナギの即位《そくい》の儀《ぎ》において、神言《しんげん》を司《つかさど》り、場《ば》を鎮《しず》めていた、老《お》いた祭司《さいし》。


 その後《ご》も、アサの様子《ようす》を気《き》にかけてくれていたのか、廊《ろう》や庭先《にわさき》で声《こえ》をかけられ、幾度《いくど》か短《みじか》く言葉《ことば》を交《か》わしたことがある。


 その折《おり》と変《か》わらぬ、過不足《かぶそく》のない佇《たたず》まいが、かえってアサの肩《かた》の力《ちから》をわずかに抜《ぬ》かせた。


「お加減《かげん》はいかがにございますかな」


 柔《やわ》らかな声音《こわね》。 


「もう、動《うご》けます」


「それは何《なに》よりでございます」


 丁寧《ていねい》に頷《うなず》く。


 だがその視線《しせん》は、アサの立《た》ち姿《すがた》、重心《じゅうしん》の置《お》き方《かた》、目《め》の動《うご》きまでを静《しず》かに観察《かんさつ》しているようだった。


「本日《ほんじつ》は、少《すこ》しお時間《じかん》をいただいてもよろしいでしょうか」


「……はい」


 断《ことわ》れるような空気《くうき》ではない。


 けれど、無理《むり》に押《お》しつけられている感じでもなかった。


 タヅマは机《つくえ》を指《さ》し示《しめ》す。 


「どうぞ、おかけください」


 アサが座《すわ》るのを待《ま》ってから、自身《じしん》も腰《こし》を下《お》ろす。


 そのひとつひとつの所作《しょさ》が、無駄《むだ》なく整《ととの》っている。


「ここでの暮《く》らしは、いかがでございますか」


 唐突《とうとつ》な問い。


 アサはわずかに考《かんが》え、言葉《ことば》を探《さが》す。


「……知《し》らないことばかりで」


「それは結構《けっこう》」


 即座《そくざ》に返《かえ》る。


「知《し》らぬことがある、というのは、伸《の》びる余地《よち》があるということ」


 柔《やわ》らかいが、はっきりした言葉《ことば》だった。


 タヅマは一本《いっぽん》の木簡《もっかん》を取《と》り上《あ》げた。


「その、知(・)ら(・)ぬ(・)こ(・)と(・)を、ひとつずつ減《へ》らして参《まい》りましょう」 


 机上《きじょう》に置《お》く。


「まずは、文字《もじ》にございます」


「文字」


「はい。言葉《ことば》を留《と》めるもの」


 指《ゆび》で刻《きざ》まれた線《せん》をなぞる。


 アサはそれを見《み》て――


「あ」


 小《ちい》さく声《こえ》を漏《も》らした。


 タヅマの視線《しせん》が、わずかに動《うご》く。


「ご存《ぞん》じで?」


 アサは少《すこ》しだけ戸惑《とまど》いながら答《こた》える。


「少《すこ》しだけ。前《まえ》に、ミナギ――」


 言《い》いかけて、言《い》い直《なお》す。


「ミナギ様《さま》が、教《おし》えてくれて」


「ほう」


 わずかに眉《まゆ》が上《あ》がる。


「では、試《ため》してみましょう」


 穏《おだ》やかに続《つづ》ける。


「これは何《なん》と読《よ》みますか」


 木簡《もっかん》をひとつ、指《ゆび》で示《しめ》す。


 アサは目《め》を凝《こ》らす。


 記憶《きおく》をたどる。


「……山《やま》、です」


「結構《けっこう》」


 間《ま》を置《お》かずに返《かえ》る。


「では、こちらは」


「……川《かわ》」


「よろしい」


 アサは少《すこ》しだけ肩《かた》の力《ちから》を抜《ぬ》いた。


 だが――


「では、もう少々(しょうしょう)追加《ついか》いたしましょう」


 アサは思《おも》わず顔《かお》を上《あ》げる。


 タヅマは静《しず》かに微笑《ほほえ》む。


「既《すで》に触《ふ》れておられるのであれば、進《すす》みも早《はよ》うございましょう」


 言《い》い方《かた》は丁寧《ていねい》だが容赦《ようしゃ》がない。


 アサは小《ちい》さく息《いき》をのむ。


「『人《ひと》』『日《ひ》』『月《つき》』――合《あ》わせて五《いつ》つ」


「五《いつ》つ……」


「最初《さいしょ》としては、少《すく》ない方《ほう》でございます」


 さらりと言《い》う。


「……文字《もじ》って、たくさんあるんですね」


 アサは苦笑《くしょう》した。


「数《かぞ》えきれぬほどに」


 タヅマは頷《うなず》きながら答《こた》える。


「……やってみます」


「結構《けっこう》」


 短《みじか》く頷《うなず》く。


 アサはひとつひとつを見《み》つめる。


 指《ゆび》でなぞる。


「これは、人《ひと》」


「はい」


「これは、日《ひ》」


「ええ」



 間違《まちが》えれば、即座《そくざ》に正《ただ》され、だが、咎《とが》めはしない。


 ただ、正《ただ》しい形《かたち》へと導《みちび》くだけ。


 静《しず》かで、容赦《ようしゃ》のない積《つ》み重《かさ》ね。


 やがて、タヅマはひとつ頷《うなず》き、手《て》を止《と》めた。


「ひとまず、こちらはよろしいでしょう」


 アサはほっと息《いき》をつきかける。


 が――


「次《つぎ》に参《まい》ります」


 そのまま続《つづ》いた。


「えっ」


 思《おも》わず声《こえ》が出《で》る。


 タヅマは小《ちい》さく首《くび》を傾《かし》げる。 


「何《なに》か」


「い、いえ……」


 逃《に》げ場《ば》はない。


 タヅマは簡素《かんそ》な図《ず》を広《ひろ》げた。


「こちらをご覧《らん》ください」


 線《せん》で囲《かこ》まれた地《ち》。


「ここが倭《わ》にございます」


 指《ゆび》が動《うご》く。


「貴女様《あなたさま》のいた場所《ばしょ》も、この中《なか》のひとつに過《す》ぎませぬ」


 更《さら》に指《ゆび》が外《そと》へと滑《すべ》る。


「そして、こちらが海《うみ》。その先《さき》に、魏《ぎ》、呉《ご》といった国《くに》がございます」


 その名《な》に、アサは少《すこ》しだけ息《いき》をのむ。


「……聞《き》いたこと、あります」


 ぽつりとこぼす。


 タヅマの目《め》が、わずかに細《ほそ》まる。


「ほう」


「ミナギ……様《さま》が、よく遠《とお》くの国《くに》の話《はなし》、してくれて」


 言葉《ことば》を選《えら》びながら言《い》う。


「大《おお》きくて、強《つよ》い国《くに》だって」


「左様《さよう》にございます」


 タヅマが頷《うなず》く。


「魏《ぎ》は、いま最《もっと》も勢《いきお》いのある国《くに》。北《きた》の広《ひろ》き地《ち》を治《おさ》め、数多《あまた》の兵《へい》と民《たみ》を擁《よう》しております」


 指先《ゆびさき》で、海《うみ》の向《む》こうをなぞる。


「呉《ご》は、その南《みなみ》にて水《みず》を制《せい》する国《くに》。大河《たいが》と海《うみ》に長《た》け、舟《ふね》をもって戦《たたか》うを得手《えて》としております」


 一呼吸《ひとこきゅう》、置《お》く。


「いずれも、この倭国《わこく》とは――まるで別《べつ》の世《よ》のような大国《たいこく》にございます」


 アサは息《いき》をのみ、窓《まど》の外《そと》――遥《はる》か向《む》こうへ目《め》を向《む》けた。


 見《み》えぬはずの彼方《かなた》に、確《たし》かに何《なに》かがあるのだと、初《はじ》めて実感《じっかん》したように。


 

「では、最後《さいご》に」


 木簡《もっかん》をまたひとつ、差《さ》し出《だ》す。


「ご自身《ごじしん》の名《な》を」


 アサはそれを見る。


 まだ完全《かんぜん》には読《よ》めない線《せん》。


 けれど、どこか見覚《みおぼ》えがある。


「……これも、前《まえ》に……」


 指《ゆび》でなぞる。


「教《おし》えてもらった気《き》がします」


「では、思《おも》い出《だ》してみなされ」


 優《やさ》しく促《うなが》す。


 アサは口《くち》を引《ひ》き結《むす》び、眉間《みけん》に薄《うす》く皺《しわ》を寄《よ》せる。


 記憶《きおく》を辿《たど》る。


 ゆっくりと――


「……ア、サ」


「結構《けっこう》」


 すぐに返《かえ》る。


「では、それを刻《きざ》めるようになりなさい」


 終《お》わりではない。


 むしろ始《はじ》まりだ。


 アサは木簡《もっかん》を見《み》つめ、そして頷《うなず》いた。


「はい」


 その声《こえ》には、先《さき》ほどよりも確《たし》かな意志《いし》があった。



 ――やはり。


 タヅマは目《め》を細《ほそ》める。


 目《め》がいい。


 飲《の》み込《こ》みも早《はや》い。


(素地《そじ》は十分《じゅうぶん》)


 表《おもて》には出《だ》さない。


 タヅマはひとつ咳払《せきばら》いをし、静《しず》かに一礼《いちれい》する。


「本日《ほんじつ》はここまでに」


 顔《かお》を上《あ》げると、穏《おだ》やかな表情《ひょうじょう》に戻《もど》っている。


「明日《あす》も、同《おな》じ刻《こく》にお時間《じかん》をいただきます」


「はい」


 アサは素直《すなお》に頷《うなず》いた。


 部屋《へや》を出《で》ていくその小《ちい》さな背《せ》を見送《みおく》りながら、タヅマは内心《ないしん》で静《しず》かに測《はか》る。


 礼《れい》、言葉《ことば》、立《た》ち居振《いふ》る舞《ま》い。


 そして、知識《ちしき》。


(整《ととの》えれば、見劣《みおと》りはせぬ)


 急《いそ》がず、崩《くず》さず、順《じゅん》に積《つ》み上《あ》げていけば――


 いずれ機《き》は熟《じゅく》す。


 その折《おり》には、ミナギの隣《となり》に立《た》てるだけの器《うつわ》へと、静《しず》かに仕上《しあ》がっていることだろう。


 ――そう見定《みさだ》めながら。


 タヅマは、誰《だれ》にも悟《さと》られぬよう、ほんのわずかに唇《くちびる》の端《はし》を緩《ゆる》めた。



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