責務
祝宴の喧騒がすっかり消え、夜の帳が投馬の宮を包む頃――
ミナギは自身の寝所にて、寝台の縁に腰掛けたまま、額を押さえていた。
「タヅマ……俺の寝所に女を入れるのはやめてくれ」
顔には露骨な疲労が滲んでいる。
灯りは低く、先程まで居た女のむせ返るような甘い香りが、まだ室内にこびりついていた。
「……はて、何のことでございますかな」
控えていたタヅマは、わずかに首を傾げ、淡々とした口調で応じる。
そのとぼけた物言いに、ミナギは思わず苛立ちを覚えた。
――事の経緯はこうである。
若く、目映いばかりの侍女が、香油を手に、寝所へと足を踏み入れた。
見かけない顔ではあったが、王としての責任と緊張の滲む疲労を抱えたミナギの体を気遣う様子は、真摯そのもので。そこに敵意は見て取れなかった。
言われるままに上着を脱ぎ、寝台に体を横たえると、女は香油を浸した布で、ミナギの肩や背を優しく拭い、凝り固まった身体をほぐしていく。
その静寂の中、布が肌に擦れるわずかな音だけが響く。
ミナギは深く息を吸い込み、心地良さに目を閉じる。力が少しずつ抜けていくのを感じながら、疲労も緊張もほぐれていった。
――その時。
女は突如、自身の衣を解き、素肌を露わにしはじめた。
そのまま艶めかしい様子で、横たわるミナギの上に乗ろうとしてきたので、慌てて起き上がり、制止の手を伸ばした――
というわけだった。
女には、きちんと断りを入れて帰らせた。
その顔は、どこか不服そうではあったが。
ああ、と合点がいったタヅマが、肩を揺らして微かに笑った。
「宮の者の計らいですな。殿のお疲れを癒したいと、御身を案じてのことにございましょう」
「案じる方向が間違っている」
ミナギは短く息を吐いた。
その後、タヅマはミナギをじっと見つめ、低くもはっきりした口調で問うた。
「そもそも殿は、女性にご関心がおありなのでしょうか。兄君のように色に溺れられては困りますが、あまりにこれまで浮いた話のひとつもなく――」
くどくどと続く説教めいた口調に、ミナギは思わず眉を顰めた。
――関心がないわけではない。
身分を隠し、旅を続ける中で、そういうことも、一度や二度ならずあったわけだし。
しかし今は、どうにも気分が乗らなかった。
タヅマはさらに踏み込み、低く決意を帯びた声で言った。
「王となられたばかりではございますが、速やかに后を迎えられるべきです。皆も、御跡継ぎのことを案じております」
タヅマの言葉に耳を傾けるうち、ミナギの心の奥底に、微かな苛立ちと共に、計り知れぬ責務の重さがひしひしと押し寄せる。
王として、ただ己の気持ちを優先することなど許されぬ現実――
それを改めて突きつけられ、ミナギは静かに深く息を吸った。
「……跡継ぎなら、ハヤトがいるだろう」
空気が止まった。
タヅマの目が、わずかに細まる。
「――ハヤト様に、跡目を継がせるおつもりで?」
「少なくとも、今すぐ俺が子を作る理由にはならん」
投げるように言って、ミナギは立ち上がる。
「本気で仰っておられますか?」
ミナギは答えない。
代わりに、視線だけを寄こす。
肯定でも否定でもない、測る目だ。
タヅマはその視線を受け止め、わずかに息を落とす。
外で風が鳴った。
布がかすかに揺れる。
「恐れながら――」
タヅマは、さらに声を落とす。
「御父君の命を奪ったのが、兄君、隼比古様である以上――」
言葉が、重く落ちる。
「その血を継ぐ御子を立てることは――御身にとって、火種となりましょう」
ミナギはゆっくりと顔を上げた。
――簒奪の血。
その語が、脳裏で重く沈殿する。
ハヤトが、自分に刃を向ける――
あの天真爛漫さが、いつか王位を巡り、自分への敵意へと転じる姿など――到底、結びつかない。
結びつけたくもない。
だが、宮という場所は、そうした願いを待ってはくれない。
誰かの無邪気さが、時に誰かの脅威へと反転することを、ミナギは知りすぎていた。
部屋の隅で、灯火が小さく揺れる。
それに合わせるように、壁際の影がわずかに伸びた。
「……御心は、御心として」
ミナギの内に揺らぐものを知ってか知らずか、タヅマは静かに言葉を重ねる。
「ハヤト様の母君の宇良様は、容易ならぬ御方にございます」
ミナギの脳裏に、あの女の目がよぎる。
柔らかく笑いながら、決して譲らぬ目。
「……知っている」
沈黙が落ちた。
「――ところで」
張り詰めた空気を変えるように、タヅマが口を開く。
「殿が連れてこられた、あの娘は、いかがなのです」
「――は?」
「名は、たしか――アサ、と」
ミナギの顔に、露骨な苛立ちが浮かぶ。
「何の話だ」
「何の話、とは」
タヅマは淡々と続ける。
「わざわざ御自らお連れになった娘。皆、気にしておりましょう」
「気にするなと言っておけ」
間髪入れずに答える。
「――あれは、そういうものではない」
タヅマは、わずかに目を細めた。
「では、どういうものにございますか」
ミナギは言葉に詰まった。
何かを言いかけて、唇だけがわずかに動く。
だが形にならず、喉の奥で消えた。
「……大体な、アサはまだ子どもだぞ――話にならんだろう」
言い切ってから、わずかに視線を逸らす。
タヅマは、その一瞬を見逃さない。
「あの娘は、美しくなりましょう」
ミナギが顔をしかめる。
「何を――」
「目でございます」
即答だった。
「言葉よりも先に、人を縛るものがございます。目は、そのひとつ……あの娘にはそれがある」
ミナギはふと、アサの瞳を思い返す。
逸らすことを許さぬ、澄みきった光。
覗き込むでもなく、ただそこに在るだけで、こちらの内側に触れてくる――あの目。
「……ただの娘ではございませぬ。いずれ、周りが放ってはおきますまい」
タヅマのその言葉は、ほとんど警告に近い。
沈黙。
ミナギは答えない。
だが、眉間に一層深く皺が刻まれる。
「――関係ない」
ミナギは切り捨てるように言う。
「アサは――政には、一切関わらん」
タヅマは、ゆっくりと頷いた。
「……左様にございますか」
そのわずかに含みのある声色に、ミナギは舌打ちした。




