祝宴
日が傾き、西の空が茜から深い紺へ移ろい始めるころ。
王宮では静かに祝宴の支度が整えられていた。
高殿の広間には篝火が等間隔に焚かれ、ゆらゆらと揺れる火が、磨かれた柱や床板を黄金色に染めている。夜気はまだ少し冷えていたが、火の熱と人々の息遣いが混じり合い、穏やかな温もりが満ちていた。
それは、戦を終えた安堵を分かち合うためだけの宴ではない。
新たな王が立ったことを内外へ示すと同時に、生き延びた者たちを労い、傷ついた国を再びひとつに結び直すための場だった。
国にはまだ、戦の影が色濃く残っていた。
焼けた村々。
流浪する民。
次々ともたらされる悲報と訴え。
安堵と呼べる静寂は、いまだ遠い。
それでも今宵だけは、人々に前を向かせる灯が必要だった。
広間には焼いた川魚の香ばしい匂いが漂い、土器の鍋では粟や豆が柔らかく煮えている。炙られた獣肉から脂が落ち、火がぱちりと小さく爆ぜた。
侍女たちは忙しなく行き交い、酒を注ぎ、料理を運び、兵たちはようやく張り詰めていた肩の力を抜き始めている。
その中央に、ミナギは座していた。
まだ若い王。
だが、その姿には不思議と場を落ち着かせる力がある。
豪奢に威圧するでもなく、ことさらに王として振る舞うでもない。自然体のまま、人々の輪の中へ静かに溶け込んでいた。
「傷の痛みは、もう引いたか」
「は。王のお陰で、命拾いしました」
「生きてここへ戻ったのは、お前自身の力だ。誇れ」
兵へ向けられる言葉は柔らかく、飾り気がない。労う声に嘘がないからこそ、受け取る側の顔も自然と緩む。
やがてミナギは杯を手に取り、静かに立ち上がった。
広間のざわめきが、波が引くように収まってゆく。
篝火の光が輪郭を淡く縁取り、その瞳に揺れる火が静かな熱を宿していた。
「この酒は――生き延びた皆のために」
低く、よく通る声だった。
「多くを失った。今もなお、痛みの中にいる者は多い。国はまだ癒えてはいない――それでも、我らは歩みを止めるわけにはいかない」
短く杯を掲げる。
「この国に、再び穏やかな日々を取り戻すために――どうか共に力を貸してほしい」
王の言葉に、広間の空気が静かに震えた。
誰かが杯を掲げ、それに続くように次々《つぎつぎ》と人々が酒を掲げる。
やがて笑い声が戻り、張り詰めていた空気は少しずつほどけていった。
兵士同士が肩を叩き合い、侍女たちが小さく笑いながら酒を運ぶ。年嵩の臣下までもが、どこか安堵したような顔で息を吐いていた。
――その光景を、アサは離れた寝所の窓辺から静かに見つめていた。
夜風が細い髪を揺らす。
遠く離れていても、宴の空気は不思議と伝わってくる。
人々の笑い声。
火の爆ぜる音。
杯の触れ合う乾いた響き。
そして、その中心にいるミナギの存在。
「……ミナギ王……か」
小さく呟いた声は、夜へ静かに溶けていった。
彼がいるだけで、人の顔が変わる。
不安に沈んでいた者たちが笑い、疲れ切っていた兵たちが肩の力を抜いている。
恐れで従わせるのでもなく、威光で押さえつけるのでもない。一人ひとりを見ようとする眼差しが、人を惹きつけているのだと、アサには分かった。
ふと、その時。
ミナギが何かに気づいたように顔を上げた。
遠い窓辺。
暗がりの中に立つアサへ、まっすぐ視線が届く。
そしてミナギは、柔らかく微笑んだ。
軽く手を挙げる。
それは王としての仕草ではなく、ただ「そこにいることを知っている」と伝えるような、穏やかな合図だった。
アサの胸が、小さく跳ねた。
熱が広がる。
心臓が静かに脈打ち、息が少しだけ浅くなる。
(……あの王様だから、みんな心から慕うんだろうな……)
夜風が頬を撫でる。
篝火の火は揺れ続け、夜空には細かな星々《ほしぼし》が滲んでいた。
戦は終わった。
けれど、本当の意味で国を立て直す道は、きっとここから始まるのだろう。
遠く聞こえる笑い声を耳にしながら、アサはそっと胸元を押さえた。
「……私も、いつか」
小さな願いが、胸の奥で灯る。
「いつか、ミナギの役に立てたら……」
まだ夢のように遠い想いだった。
それでも今宵、篝火に照らされた王の背を見た瞬間、その願いは確かな熱を持って胸に刻まれていた。
夜の闇は深い。
だが、その闇の中で揺れる火は、確かに人々《ひとびと》を照らしていた。




