懐抱
部屋には、静かな空気が満ちている。
アサは、寝台の上に身を起こしていた。
まだ身体は重いが、意識ははっきりしている。
ミナギはアサの向かいに座し、じっとその様子を見つめている。
「……少し、聞いてもいいか」
低く落ち着いた声。
「無理にとは言わない。ただ、知っておきたい」
アサは瞬きをひとつして、こくりと頷いた。
わずかに息を整え、言葉を選ぶように口を開く。
「――あの日」
ゆっくりとした語り出し。
「……森の様子が変だったの」
アサの目は、少し遠くを見ていた。
「風の音が、いつもと違っていて、葉の擦れる音も、どこか落ち着かなくて……」
ミナギは口を挟まず、ただ聞く。
「それで……煙の匂いがして」
指先が、膝の上でわずかに動く。
「嫌な感じがして、急いで戻って……そしたら――村は、もう燃えてた」
ミナギの表情が強張る。
「家も、道も……見えるものは、ほとんど全部」
言葉を選びながら、淡々と続ける。
「真っ赤で、煙が立ち込めていて……」
ほんの一瞬、声が細くなる。
だが、すぐに戻る。
「狗奴国の人たちが来ていたの」
視線がわずかに下がる。
「盾と槍を持って、村の中を進んでた――」
言葉が止まりかける。
だが、アサは続けた。
「途中で、見つかって……」
息が浅くなる。
「倒された」
簡潔に。
それ以上は語らない。
だが、それで十分だった。
ミナギの指が、わずかに力を帯びる。
「そのとき、母様が来てくれたの」
アサの声は、わずかに柔らぐ。
「短刀で、その人を刺して……でもすぐに、槍で刺されて――」
静かに落ちる言葉。
「……その場で、倒れた」
沈黙。
アサは自分の胸元に触れる。
「これを、渡されたの」
指先に触れる赤い瑪瑙。
「最後に……『生きて』って」
その言葉だけは、少しだけ強く響いた。
ミナギは何も言わない。
言えない。
アサは続ける。
「だから、逃げたの」
視線は、もう過去ではなく前を見ている。
「森を抜けて……どこに行けばいいかも分からなかったけど」
小さく息を吐く。
「止まったらいけない気がして」
わずかに目を伏せる。
「――気づいたときには、ミナギがいた」
語り終える。
部屋に静寂が戻る。
ミナギは目を閉じた。
――わかっていた。
あの時、森で倒れていたアサを見つけた時点で、彼女の身に何が起きたのかは、ある程度察しがついていた。
だが、言葉として聞かされると、重みが違う。
ミナギはゆっくりと息を吸い、目を開ける。
そして言った。
「……俺のせいだ」
アサが顔を上げる。
「戦を仕掛けたのは、こちらだ」
低く、確かな声。
「狗奴国が動いたのも、その応酬だ」
一瞬の間。
「……引き金を引いたのは――投馬国だ」
空気が張り詰める。
アサは黙って、その言葉を受け止めた。
「謝って済む話ではない、だが――」
言葉の合間に、かすかに顔が歪む。
「それでも言わせてくれ」
低く、押し出すような声。
「――すまない」
そう言って、ミナギは、そのまま深く頭を下げた。
それは、王としての謝罪ではなかった。
ただの、一人の人間としての言葉だった。
重く、逃げのない言葉。
再び、静寂。
顔を上げると、アサは、きょとんとした顔をしていた。
ミナギの眉が、わずかに寄る。
「違うよ」
はっきりと、しかし穏やかな声だった。
「村が焼かれたことも、母様が殺されたことも――」
言葉を選ぶように、丁寧に続ける。
「ミナギのせいじゃないよ」
「……なぜ――」
思わず言いかけて、ミナギは言葉を止める。
アサの目が、あまりにもまっすぐだったからだ。
「だって」
アサは、ごく自然に続ける。
「ミナギは、守る人でしょ?」
その言葉に、ミナギの呼吸が止まる。
「全部を守ろうとする人が、壊す人になるわけないよ」
根拠はない。
ただ、信じている。
それだけだった。
ミナギは言葉を失う。
反論はいくらでも思いつく。
守れなかった現実も、失われた命も、すべて並べ立てることができる。
しかし。
目の前の少女は、それを問題にしていない。
責められるでもなく、赦されるでもなく――
ただ、信じられている。
それだけが、重い。
ミナギはわずかに視線を逸らし、息を吐いた。
(……参ったな)
やがて、苦く笑う。
喉の奥に引っかかっていた言葉が、形にならない。
責任を引き受ける覚悟はあった。
責めを受ける覚悟もあった。
だが――
信じられる覚悟は、なかった。
ミナギはゆっくりと顔を上げる。
アサは、変わらずこちらを見ている。
静かで、まっすぐな目。
その奥にあるものは、哀れみでも同情でもない。
ただの、信頼。
それが、何よりも重い。
「――困るな」
ぽつりと、零す。
アサが、わずかに首を傾げる。
「そんな風に言われると」
ミナギは目を細めた。
アサは、不思議そうに瞬きをする。
その様子に、ミナギはさらに苦笑を深めた。
(本当に……)
この少女は、自分が何をしているのか分かっていない。
責めるでもなく。
赦すでもなく。
ただ、ありのままを見て、決めつける。
――お前は、そういう人間だと。
その無垢さが、逃げ道を奪う。
ミナギは、ゆっくりと手を伸ばし――
そっと、アサの頭に手を置いた。
柔らかな髪の感触が、掌に伝わる。
「……なら、せめて――」
低く、静かな声。
「お前の見ている俺に、近づけるようにはする」
アサは、その言葉を聞いて、満足したように笑う。
「うん」
肯定でも、励ましでもない。
ただの受容。
ミナギは静かに目を伏せた。
逃げられない。
もう、逃げる気も起きない。
この少女の瞳に刻まれた己からも。
そして――
己という存在の在り様からも。




