投馬の宮にて
アサは、微睡みの中にいた。
周囲は炎に包まれている。
燃え上がる火の赤。
滴る血の赤。
そして視界の奥でぎらりと光る――
赤い瑪瑙。
赤――
赤は嫌い。
胸の奥で、嫌悪と恐怖がひそやかに疼く。
ミナギはこの石を守るものだと言ったけれど、夢の中で見る赤は、守護の輝きというよりも先に、災いを呼ぶ予兆のように思えた。
静寂の中、かすかな鳴き声が響く。
――誰?
目の前には、赤く、丸く、淡い光を放つ小さな存在。
手を伸ばすと、温もりが指先に伝わる。
抱きしめたくなるほどの柔らかさ。
懐かしさ。
しかし触れた瞬間、光は淡く揺れ、空気ごと夢から溶けて消えた。
アサはそこで目を覚ます。
胸の奥に、まだ赤が残る。
夢の残滓か、それとも警告か。
微睡みと現実の境界が、まだはっきりと戻らない。
ぼんやりと視界を開けば、天井が見える。
徐々に世界が鮮明さを取り戻す。
太い木の梁。
磨き上げられた柱。
落ち着いた色の土壁。
堂々たる建物の内部であることが、一目でわかる。
どこだろう――
「あ、目を開けたんだね」
声のした方に目を向ける。
子供が立っていた。
年の頃は五つか六つほど。
丸い瞳でじっとアサを見つめ、にっこりと微笑む。
若竹色の上質な衣を着て、明るい色の癖毛は、翡翠のついた発簪で纏められている。
誰だろう。
思わず口に出して問いかけていた。
「ハヤトだよ」
――本当に……誰だろう。
ゆっくりと周囲を見渡す。
「……ここはどこ?」
「ここは、投馬の宮だよ」
「……とう、ま」
そのとき、柔らかく小さな鳴き声が聞こえた。
視線を向けると――ムスビがこちらを覗き込んでいた。
「……ムスビ」
「ムスビもね、心配してたんだよ。きみ、三日も眠っていたから、もう目を覚まさないんじゃないかって」
「三日……」
「叔父上も、とても心配してたよ」
「おじうえ……」
アサの声に、ハヤトは少し間を置き、口元に微かな笑みを浮かべた。
「きみがちゃんと息をしているか、何度も何度も確認しにくるんだ。薬師にも『……本当に生きているのか?』って、何度も何度も」
ハヤトは可笑しそうに、ふふっと笑った。
「あんな叔父上、はじめて見た」
先ほどから出てくる『叔父上』とは、一体誰のことなのだろう――
その時、ムスビがそっとアサの肩に体をすり寄せる。
小さく温かな存在がそこにいることを思い出すと、ふと思い至る。
「――叔父上って、もしかして……ミナギのこと?」
その瞬間、甲高い声が廊下の奥から響いた。
「ミナギ様とお呼びなさい!」
そこに立っていたのは、恰幅の良い中年の女性。
麻のよく仕立てられた衣に、きちんと整えられた髪。
厳かな物腰ながらも、気の強さを感じさせる。
「お目覚めになられたのですね。お体の調子はいかがですか?」
アサは、まだ微かに夢の名残が胸の奥でくすぶるまま、目の前の光景をぼんやりと見つめていた。
思わず言葉を詰まらせていると、次の瞬間、廊下の奥から慌ただしい足音が響き渡った。
振り返ると、戸口に立っていたのは――
ミナギだった。
「――目を……覚ましたか……」
その声は、低く震え、重みを帯びていた。
しかし同時に、安堵、喜び、そして言葉にできぬ感慨が、息のひとつひとつに滲んでいる。
ミナギは一歩、また一歩と、つかつかと歩み寄り、躊躇うことなくアサの手を取った。
「良かった……一時は、本当に危なかったんだ」
――アサは息を飲む。
確かに、目の前の人物はミナギだ。
けれども、その佇まいは、これまで見てきた彼とはまったく異なる。
上質な衣に、丁寧に施された装飾。
腰には精緻な帯。
髪には宮仕えの者でも容易には手を出せぬであろう、絢爛たる簪。
その一挙手一投足から、ただ者ではない存在感が漂っていた。
先ほど女性が告げた声が耳に蘇る。
『ミナギ様とお呼びなさい!』
そしてアサが今居るここは。
――投馬国の宮。
そのことも思い合わせれば、目の前の人物の立場が、ようやく腑に落ちてくる。
アサはごくりと喉を鳴らし、あの問いを、もう一度口にした。
「……ミナギって……えらい人なの?」
アサの言葉に、先ほどの女性が眉を顰め、ごほんと咳払いした後、凛とした声で答え始める。
「――こちらの御方は」
その女性は、きっちりと背筋を伸ばし、アサの目を真っ直ぐに見据えた。
「投馬国王――ミナギ様にございます」
ミナギは少しばつの悪そうな表情を浮かべる。
「いや、侍女頭……まだ王では――」
「何をおっしゃいます、殿」
侍女頭の目が鋭く光った。
「今やこの国には、貴方様以外に王となるべき方はおられません――その御身を過小にお思いになってはなりませぬ」
凛とした声には、揺るぎない忠誠と誇りが滲んでいた。
アサはそのやり取りを目の当たりにして、さらに混乱する。
「……王、様」
その言葉が胸に届いた瞬間、アサの頭の中は驚きの連続でぐるりと回った。
――えらい、なんてもんじゃない。
思わず目眩を覚え、視界がくらりと揺れる。
「アサ!」
慌てて手を伸ばすミナギに、
「なりません!」
侍女頭が、一喝する。
「アサ様は今お目覚めになられたばかり。まだなお、十分な休養が必要でございます。今日のところは、どうかご退室願います!」
「えー」
と不満げに声を漏らすハヤト。
「ハヤト様は、この後は槍術のお稽古の時間でございましょう!」
ハヤトは侍女頭の迫力にたじろぎ、渋々と引き下がる。
少し間を置き、ハヤトはにっこりと微笑み、片手をふわりと振った。
「またね、アサ」
そう言って、軽い足取りで駆けて行った。
「……騒がせたな。とりあえず、ゆっくり休め」
ミナギは、ふっと力を抜くように、やわらかく微笑んだ。
そのまま、そっとアサの頭に触れる。
温もりが、じんわりと伝わる。
アサは一瞬だけ目を見開き、けれど何も言わず、ゆっくりと頷いた。
ミナギはそれを確かめるように、わずかに目を細める。
静かに手を離すと、名残を残すような間を置き、踵を返す。
バサッ、と風を裂く音がして、ムスビが軽やかに飛び上がり、ミナギの肩へと降り立つ。
羽ばたきの余韻が、わずかに空気を揺らした。
ミナギは一瞬だけ視線を横にやり、当然のようにその重みを受け止める。
足音は遠ざかり、やがて――
部屋に静寂が訪れた。
アサはそのまま、しばらく動けなかった。
頭に残る温もり。
胸の奥に残るざわめき。
何をどう受け止めればいいのか分からず、ただぼんやりと、視線だけが宙をさまよう。
「アサ様」
不意に、静かな声が響いた。
はっとして振り向くと、先ほどの侍女頭が立っていた。
手には、水差しと上品な漆塗りの器がひとつ。
「水をお持ちいたしました」
ゆっくりと差し出されるそれを、アサは両手で受け取る。
わずかに震える指先に、温もりが伝わった。
口をつける。
水はぬるく、やさしく喉を通り、乾ききった身体に染み渡るようだった。
「まだ安静が必要でございます。どうか、今はご無理をなさらず」
侍女頭の声音は先ほどの厳しさとは異なり、どこか穏やかで、気遣いが滲んでいる。
「後ほど、薬師をお呼びいたします。それまでは、ごゆっくりとお休みくださいませ」
そう告げると、一礼し、部屋を後にした。
再び、部屋に静寂が訪れる。
アサは静かに身を横たえた。
敷かれた寝具は柔らかく、これまで触れてきたどの藁や布よりも、深く身体を受け止める。
だが、その心地よさとは裏腹に、胸の奥はまだ落ち着かないままだった。
ぼんやりと天井を見つめた。
ミナギの姿が浮かぶ。
――投馬国王。
その事実が、遅れてじわじわと染み込んでくる。
あの手の温もり。
あの声。
知っているはずの人なのに、まるで遠い存在のようにも思える。
考えようとした思考が、途中でほどけていく。
重い。
瞼が、ゆっくりと落ちてくる。
身体の奥から、眠りが引き寄せるように広がっていく。
考える力が、静かにほどけていく。
今は――何も考えたくない。
ただ、眠りたい。
アサは小さく息を吐き、そのまま身を沈めた。
意識は、再びやわらかな闇へと溶けていく。
どこか遠くで、再び、かすかな鳴き声がしたような気がした。
それが現実か夢かを確かめる前に、アサは静かに、眠りへと落ちていった。




