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アマガタリ  作者: ひよりの
第一章
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投馬の宮にて




 アサは、微睡《まどろ》みの中《なか》にいた。



 周囲《しゅうい》は炎《ほのお》に包《つつ》まれている。



 燃《も》え上《あ》がる火《ひ》の赤《あか》。


 滴《したた》る血《ち》の赤《あか》。


 そして視界《しかい》の奥《おく》でぎらりと光《ひか》る――


 赤《あか》い瑪瑙《めのう》。



 赤《あか》――


 赤《あか》は嫌《きら》い。



 胸《むね》の奥《おく》で、嫌悪《けんお》と恐怖《きょうふ》がひそやかに疼《うず》く。



 ミナギはこの石《いし》を守《まも》るものだと言《い》ったけれど、夢《ゆめ》の中《なか》で見《み》る赤《あか》は、守護《しゅご》の輝《かがや》きというよりも先《さき》に、災《わざわ》いを呼《よ》ぶ予兆《よちょう》のように思《おも》えた。



 静寂《せいじゃく》の中《なか》、かすかな鳴《な》き声《ごえ》が響《ひび》く。



 ――誰《だれ》?



 目《め》の前《まえ》には、赤《あか》く、丸《まる》く、淡《あわ》い光《ひかり》を放《はな》つ小《ちい》さな存在《そんざい》。


 手《て》を伸《の》ばすと、温《ぬく》もりが指先《ゆびさき》に伝《つた》わる。



 抱《だ》きしめたくなるほどの柔《やわ》らかさ。


 懐《なつ》かしさ。



 しかし触《ふ》れた瞬間《しゅんかん》、光《ひかり》は淡《あわ》く揺《ゆ》れ、空気《くうき》ごと夢《ゆめ》から溶《と》けて消《き》えた。




 アサはそこで目《め》を覚《さ》ます。


 胸《むね》の奥《おく》に、まだ赤《あか》が残《のこ》る。


 夢《ゆめ》の残滓《ざんし》か、それとも警告《けいこく》か。


 微睡《まどろ》みと現実《げんじつ》の境界《きょうかい》が、まだはっきりと戻《もど》らない。



 ぼんやりと視界《しかい》を開《ひら》けば、天井《てんじょう》が見《み》える。


 徐々(じょじょ)に世界《せかい》が鮮明《せんめい》さを取《と》り戻《もど》す。



 太《ふと》い木《き》の梁《はり》。


 磨《みが》き上《あ》げられた柱《はしら》。


 落《お》ち着《つ》いた色《いろ》の土壁《つちかべ》。



 堂々(どうどう)たる建物《たてもの》の内部《ないぶ》であることが、一目《ひとめ》でわかる。



 どこだろう――



「あ、目《め》を開《あ》けたんだね」



 声《こえ》のした方《ほう》に目《め》を向《む》ける。



 子供《こども》が立《た》っていた。


 年《とし》の頃《ころ》は五《いつ》つか六《むっ》つほど。


 丸《まる》い瞳《ひとみ》でじっとアサを見《み》つめ、にっこりと微笑《ほほえ》む。


 若竹色《わかたけいろ》の上質《じょうしつ》な衣《ころも》を着《き》て、明《あか》るい色《いろ》の癖毛《くせげ》は、翡翠《ひすい》のついた発簪《かんざし》で纏《まと》められている。



 誰《だれ》だろう。



 思《おも》わず口《くち》に出《だ》して問いかけていた。



「ハヤトだよ」



 ――本当《ほんとう》に……誰《だれ》だろう。

 


 ゆっくりと周囲《しゅうい》を見渡《みわた》す。



「……ここはどこ?」



「ここは、投馬《とうま》の宮《みや》だよ」



「……とう、ま」



 そのとき、柔《やわ》らかく小《ちい》さな鳴《な》き声《ごえ》が聞《き》こえた。


 視線《しせん》を向《む》けると――ムスビがこちらを覗《のぞ》き込《こ》んでいた。



「……ムスビ」



「ムスビもね、心配《しんぱい》してたんだよ。きみ、三日《みっか》も眠《ねむ》っていたから、もう目《め》を覚《さ》まさないんじゃないかって」



「三日《みっか》……」



「叔父上《おじうえ》も、とても心配《しんぱい》してたよ」



「おじうえ……」



 アサの声《こえ》に、ハヤトは少《すこ》し間《ま》を置《お》き、口元《くちもと》に微《かす》かな笑《え》みを浮《う》かべた。



「きみがちゃんと息《いき》をしているか、何度《なんど》も何度《なんど》も確認《かくにん》しにくるんだ。薬師《くすし》にも『……本当《ほんとう》に生《い》きているのか?』って、何度《なんど》も何度《なんど》も」



 ハヤトは可笑《おか》しそうに、ふふっと笑《わら》った。



「あんな叔父上《おじうえ》、はじめて見《み》た」



 先《さき》ほどから出《で》てくる『叔父上《おじうえ》』とは、一体《いったい》誰《だれ》のことなのだろう――



 その時《とき》、ムスビがそっとアサの肩《かた》に体《からだ》をすり寄《よ》せる。


 小《ちい》さく温《あたた》かな存在《そんざい》がそこにいることを思《おも》い出《だ》すと、ふと思《おも》い至《いた》る。



「――叔父上《おじうえ》って、もしかして……ミナギのこと?」



 その瞬間《しゅんかん》、甲高《かんだか》い声《こえ》が廊下《ろうか》の奥《おく》から響《ひび》いた。



「ミナギ様《さま》とお呼《よ》びなさい!」



 そこに立《た》っていたのは、恰幅《かっぷく》の良《よ》い中年《ちゅうねん》の女性《じょせい》。


 麻《あさ》のよく仕立《した》てられた衣《ころも》に、きちんと整《ととの》えられた髪《かみ》。


 厳《おごそ》かな物腰《ものごし》ながらも、気《き》の強《つよ》さを感《かん》じさせる。



「お目覚《めざ》めになられたのですね。お体《からだ》の調子《ちょうし》はいかがですか?」



 アサは、まだ微《かす》かに夢《ゆめ》の名残《なごり》が胸《むね》の奥《おく》でくすぶるまま、目《め》の前《まえ》の光景《こうけい》をぼんやりと見《み》つめていた。



 思《おも》わず言葉《ことば》を詰《つ》まらせていると、次《つぎ》の瞬間《しゅんかん》。


 廊下《ろうか》の奥《おく》から慌《あわ》ただしい足音《あしおと》が響《ひび》き渡《わた》った。


 振《ふ》り返《かえ》ると、戸口《とぐち》に立《た》っていたのは――



 ミナギだった。



「――目《め》を……覚《さ》ましたか……」



 その声《こえ》は、低《ひく》く震《ふる》え、重《おも》みを帯《お》びていた。


 しかし同時《どうじ》に、安堵《あんど》、喜《よろこ》び、そして言葉《ことば》にできぬ感慨《かんがい》が、息《いき》のひとつひとつに滲《にじ》んでいる。



 ミナギは一歩《いっぽ》、また一歩《いっぽ》と、つかつかと歩《あゆ》み寄《よ》り、躊躇《ためら》うことなくアサの手《て》を取《と》った。



「良《よ》かった……一時《いっとき》は、本当《ほんとう》に危《あぶ》なかったんだ」




 ――アサは息《いき》を飲《の》む。



 確《たし》かに、目《め》の前《まえ》の人物《じんぶつ》はミナギだ。


 けれども、その佇《たたず》まいは、これまで見《み》てきた彼《かれ》とはまったく異《こと》なる。



 上質《じょうしつ》な衣《ころも》に、丁寧《ていねい》に施《ほどこ》された装飾《そうしょく》。


 腰《こし》には精緻《せいち》な帯《おび》。


 髪《かみ》には宮仕《みやづか》えの者《もの》でも容易《ようい》には手《て》を出《だ》せぬであろう、絢爛《けんらん》たる簪《かんざし》。



 その一挙手一投足《いっきょしゅいっとうそく》から、ただ者《もの》ではない存在感《そんざいかん》が漂《ただよ》っていた。



 先《さき》ほど女性《じょせい》が告《つ》げた声《こえ》が耳《みみ》に蘇《よみがえ》る。



『ミナギ様《さま》とお呼《よ》びなさい!』



 そしてアサが今《いま》居《い》るここは。


 ――投馬国《とうまこく》の宮《みや》。


 そのことも思《おも》い合《あ》わせれば、目《め》の前《まえ》の人物《じんぶつ》の立場《たちば》が、ようやく腑《ふ》に落《お》ちてくる。



 アサはごくりと喉《のど》を鳴《な》らし、あ(・)の(・)問いを、もう一度《もういちど》口《くち》にした。



「……ミナギって……えらい人《ひと》なの?」



 アサの言葉《ことば》に、先《さき》ほどの女性《じょせい》が眉《まゆ》を顰《ひそ》め、ごほんと咳払《せきばら》いした後《あと》、凛《りん》とした声《こえ》で答《こた》え始《はじ》める。



「――こちらの御方《おかた》は」



 その女性《じょせい》は、きっちりと背筋《せすじ》を伸《の》ばし、アサの目《め》を真《ま》っ直《す》ぐに見据《みす》えた。



「投馬国王《とうまこくおう》――ミナギ様《さま》にございます」



 ミナギは少《すこ》しばつの悪《わる》そうな表情《ひょうじょう》を浮《う》かべる。



「いや、侍女頭《じじょがしら》……まだ王《おう》では――」



「何《なに》をおっしゃいます、殿《との》」



 侍女頭《じじょがしら》の目《め》が鋭《するど》く光《ひか》った。



「今《いま》やこの国《くに》には、貴方様《あなたさま》以外《いがい》に王《おう》となるべき方《かた》はおられません――その御身《おんみ》を過小《かしょう》にお思《おも》いになってはなりませぬ」



 凛《りん》とした声《こえ》には、揺《ゆ》るぎない忠誠《ちゅうせい》と誇《ほこ》りが滲《にじ》んでいた。


 アサはそのやり取《と》りを目《ま》の当《あ》たりにして、さらに混乱《こんらん》する。



「……王《おう》、様《さま》」



 その言葉《ことば》が胸《むね》に届《とど》いた瞬間《しゅんかん》、アサの頭《あたま》の中《なか》は驚《おどろ》きの連続《れんぞく》でぐるりと回《まわ》った。



 ――えらい、なんてもんじゃない。



 思《おも》わず目眩《めまい》を覚《おぼ》え、視界《しかい》がくらりと揺《ゆ》れる。



「アサ!」



 慌《あわ》てて手《て》を伸《の》ばすミナギに、

  


「なりません!」



 侍女頭《じじょがしら》が、一喝《いっかつ》する。



「アサ様《さま》は今《いま》お目覚《めざ》めになられたばかり。まだなお、十分《じゅうぶん》な休養《きゅうよう》が必要《ひつよう》でございます。今日《きょう》のところは、どうかご退室《たいしつ》願《ねが》います!」



「えー」



 と不満《ふまん》げに声《こえ》を漏《も》らすハヤト。



「ハヤト様《さま》は、この後《あと》は槍術《そうじゅつ》のお稽古《けいこ》の時間《じかん》でございましょう!」



 ハヤトは侍女頭《じじょがしら》の迫力《はくりょく》にたじろぎ、渋々(しぶしぶ)と引《ひ》き下《さ》がる。



 少《すこ》し間《ま》を置《お》き、ハヤトはにっこりと微笑《ほほえ》み、片手《かたて》をふわりと振《ふ》った。



「またね、アサ」



 そう言《い》って、軽《かる》い足取《あしど》りで駆《か》けて行《い》った。



「……騒《さわ》がせたな。とりあえず、ゆっくり休《やす》め」

 


 ミナギは、ふっと力《ちから》を抜《ぬ》くように、やわらかく微笑《ほほえ》んだ。


 そのまま、そっとアサの頭《あたま》に触《ふ》れる。


 温《ぬく》もりが、じんわりと伝《つた》わる。


 アサは一瞬《いっしゅん》だけ目《め》を見開《みひら》き、けれど何《なに》も言《い》わず、ゆっくりと頷《うなず》いた。


 ミナギはそれを確《たし》かめるように、わずかに目《め》を細《ほそ》める。


 静《しず》かに手《て》を離《はな》すと、名残《なごり》を残《のこ》すような間《ま》を置《お》き、踵《きびす》を返《かえ》す。



 バサッ、と風《かぜ》を裂《さ》く音《おと》がして、ムスビが軽《かろ》やかに飛《と》び上《あ》がり、ミナギの肩《かた》へと降《お》り立《た》つ。


 羽《は》ばたきの余韻《よいん》が、わずかに空気《くうき》を揺《ゆ》らした。


 ミナギは一瞬《いっしゅん》だけ視線《しせん》を横《よこ》にやり、当然《とうぜん》のようにその重《おも》みを受《う》け止《と》める。 



 足音《あしおと》は遠《とお》ざかり、やがて――


 部屋《へや》に静寂《せいじゃく》が訪《おとず》れた。




 アサはそのまま、しばらく動《うご》けなかった。


 頭《あたま》に残《のこ》る温《ぬく》もり。


 胸《むね》の奥《おく》に残《のこ》るざわめき。


 何《なに》をどう受《う》け止《と》めればいいのか分《わ》からず、ただぼんやりと、視線《しせん》だけが宙《ちゅう》をさまよう。



「アサ様《さま》」



 不意《ふい》に、静《しず》かな声《こえ》が響《ひび》いた。


 はっとして振《ふ》り向《む》くと、先《さき》ほどの侍女頭《じじょがしら》が立《た》っていた。


 手《て》には、水差《みずさ》しと上品《じょうひん》な漆塗《うるしぬ》りの器《うつわ》がひとつ。



「水《みず》をお持《も》ちいたしました」



 ゆっくりと差《さ》し出《だ》されるそれを、アサは両手《りょうて》で受《う》け取《と》る。


 わずかに震《ふる》える指先《ゆびさき》に、温《ぬく》もりが伝《つた》わった。



 口《くち》をつける。


 水《みず》はぬるく、やさしく喉《のど》を通《とお》り、乾《かわ》ききった身体《からだ》に染《し》み渡《わた》るようだった。



「まだ安静《あんせい》が必要《ひつよう》でございます。どうか、今《いま》はご無理《むり》をなさらず」



 侍女頭《じじょがしら》の声音《こわね》は先《さき》ほどの厳《きび》しさとは異《こと》なり、どこか穏《おだ》やかで、気遣《きづか》いが滲《にじ》んでいる。



「後《のち》ほど、薬師《くすし》をお呼《よ》びいたします。それまでは、ごゆっくりとお休《やす》みくださいませ」



 そう告《つ》げると、一礼《いちれい》し、部屋《へや》を後《あと》にした。




 再《ふたた》び、部屋《へや》に静寂《せいじゃく》が訪《おとず》れる。


 アサは静《しず》かに身《み》を横《よこ》たえた。


 敷《し》かれた寝具《しんぐ》は柔《やわ》らかく、これまで触《ふ》れてきたどの藁《わら》や布《ぬの》よりも、深《ふか》く身体《からだ》を受《う》け止《と》める。


 だが、その心地《ここち》よさとは裏腹《うらはら》に、胸《むね》の奥《おく》はまだ落《お》ち着《つ》かないままだった。



 ぼんやりと天井《てんじょう》を見《み》つめた。


 ミナギの姿《すがた》が浮《う》かぶ。



 ――投馬国王《とうまこくおう》。



 その事実《じじつ》が、遅《おく》れてじわじわと染《し》み込《こ》んでくる。



 あの手《て》の温《ぬく》もり。


 あの声《こえ》。



 知《し》っているはずの人《ひと》なのに、まるで遠《とお》い存在《そんざい》のようにも思《おも》える。



 考《かんが》えようとした思考《しこう》が、途中《とちゅう》でほどけていく。



 重《おも》い。



 瞼《まぶた》が、ゆっくりと落《お》ちてくる。


 身体《からだ》の奥《おく》から、眠《ねむ》りが引《ひ》き寄《よ》せるように広《ひろ》がっていく。


 考《かんが》える力《ちから》が、静《しず》かにほどけていく。



 今《いま》は――何《なに》も考《かんが》えたくない。


 ただ、眠《ねむ》りたい。



 アサは小《ちい》さく息《いき》を吐《は》き、そのまま身《み》を沈《しず》めた。


 意識《いしき》は、再《ふたた》びやわらかな闇《やみ》へと溶《と》けていく。


 どこか遠《とお》くで、再《ふたた》び、かすかな鳴《な》き声《ごえ》がしたような気《き》がした。


 それが現実《げんじつ》か夢《ゆめ》かを確《たし》かめる前《まえ》に、アサは静《しず》かに、眠《ねむ》りへと落《お》ちていった。




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