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アマガタリ  作者: ひよりの
第一章
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流動




 隼比古《はやひこ》の身体《からだ》が泥《どろ》へ沈《しず》んだ――その瞬間《しゅんかん》。


 戦場《せんじょう》はほんのわずかに呼吸《こきゅう》を止《と》めた。



 矢《や》の飛《と》ぶ音《おと》も。  


 槍《やり》の衝突《しょうとつ》も。   


 誰《だれ》かの叫《さけ》びすらも。



 一瞬《いっしゅん》だけ遠《とお》のく。



 森《もり》の奥《おく》に広《ひろ》がっていたはずの喧騒《けんそう》が、まるで厚《あつ》い布《ぬの》で覆《おお》われたかのように鈍《にぶ》くなる。



 その静寂《せいじゃく》の中心《ちゅうしん》に、ひときわ異質《いしつ》な影《かげ》が立《た》っていた。



 狗奴国《くなこく》の王子《おうじ》――久志奈《くしな》の大兄《おおえ》。



 森《もり》の中《なか》に現《あらわ》れた岩塊《がんかい》のような存在《そんざい》だった。


 地面《じめん》に根《ね》を張《は》ったかのような足運《あしさば》き。


 筋肉《きんにく》は盛《も》り上《あ》がり、その手《て》に握《にぎ》る長大《ちょうだい》な鉄製《てつせい》の槍《やり》は、一振《ひとふ》りで命《いのち》を砕《くだ》けることが想像《そうぞう》できる。


 戦場《せんじょう》において己《おのれ》の力《ちから》を疑《うたが》わぬ王子《おうじ》の自信《じしん》。


 そして相手《あいて》を恐怖《きょうふ》でねじ伏《ふ》せる威圧《いあつ》。



 久志奈《くしな》の視線《しせん》が、ひとつの点《てん》に収束《しゅうそく》する。



 ――ミナギへと。



 その口元《くちもと》が歪《ゆが》む。



「前《まえ》に出《で》よ、投馬《とうま》の若《わか》き王子《おうじ》よ。力《ちから》の違《ちが》いを見《み》せてやろう!」



 声《こえ》は笑《わら》っている。


 だがその笑《わら》いは歓喜《かんき》ではなく、踏《ふ》み潰《つぶ》す前提《ぜんてい》の余裕《よゆう》だった。



 ミナギは応《こた》えない。


 槍《やり》の柄《え》を握《にぎ》る手《て》にだけ、わずかな圧《あつ》が宿《やど》る。


 視線《しせん》は逸《そ》らさず、ただ相手《あいて》の呼吸《こきゅう》と動《うご》きを見極《みきわ》めていた。



 距離《きょり》が詰《つ》まる。


 空気《くうき》が重《おも》くなる。


 泥《どろ》の匂《にお》いと血《ち》の鉄臭《てつくさ》さの中《なか》に、焦《こ》げた藁《わら》の煙《けむり》が混《ま》ざり、視界《しかい》をわずかに濁《にご》らせる。




 先《さき》に動《うご》いたのは久志奈《くしな》だった。


 巨体《きょたい》が一瞬《いっしゅん》沈《しず》み込《こ》む。


 次《つぎ》の瞬間《しゅんかん》、鉄槍《てつやり》が空《そら》を裂《さ》いた。


 その動作《どうさ》だけで空気《くうき》が押《お》し下《さ》げられるような圧《あつ》が生《う》まれる。


 泥《どろ》が爆《は》ぜ、土《つち》が裂《さ》け、周囲《しゅうい》の兵《へい》が思《おも》わず後退《こうたい》する。



 だがミナギはそこにいない。


 わずかに半歩《はんぽ》。


 いや、半歩《はんぽ》にも満《み》たない移動《いどう》で軌道《きどう》から滑《すべ》るように抜《ぬ》ける。


 足裏《あしうら》が泥《どろ》を掴《つか》み、体勢《たいせい》を崩《くず》さず次《つぎ》の動作《どうさ》へ移行《いこう》する。


 返《かえ》す刃《やいば》のように槍《やり》が突《つ》き上《あ》げられ、久志奈《くしな》の鎧《よろい》の腹部《ふくぶ》を掠《かす》める。


 火花《ひばな》のような衝撃《しょうげき》が走《はし》る。



 久志奈《くしな》の顔《かお》が歪《ゆが》む。



「……小細工《こざいく》を」



 次《つぎ》の瞬間《しゅんかん》、再《ふたた》び槍《やり》が振《ふ》るわれる。


 今度《こんど》は速《はや》い。


 重《おも》さではなく、連続性《れんぞくせい》で押《お》し潰《つぶ》す攻撃《こうげき》だった。



 振《ふ》り下《お》ろし。  


 横薙《よこな》ぎ。  


 突《つ》き上《あ》げ。



 地面《じめん》が揺《ゆ》れ、泥《どろ》が弧《こ》を描《えが》いて飛《と》ぶ。


 それらは圧倒的《あっとうてき》な力《ちから》を伴《ともな》い、戦場《せんじょう》に支配者《しはいしゃ》の存在感《そんざいかん》を刻《きざ》む。



 しかし、ミナギは身体《からだ》を滑《すべ》らせ、槍《やり》を正確《せいかく》に受《う》け止《と》め、角度《かくど》を変《か》えて跳《は》ね返《かえ》す。


 刃《やいば》は地面《じめん》だけを裂《さ》き、遅《おく》れて轟音《ごうおん》が残《のこ》る。



 その繰《く》り返《かえ》しの中《なか》で、久志奈《くしな》の表情《ひょうじょう》に、わずかな変化《へんか》が生《しょう》じた。


 岩《いわ》のような顔《かお》がますます顰《しか》められ、唇《くちびる》の端《はし》がわずかに震《ふる》える。


 圧倒的《あっとうてき》な力《ちから》を持《も》つはずの自分《じぶん》の攻撃《こうげき》が、目《め》の前《まえ》で滑《なめ》らかに躱《かわ》される。


 これまでの戦場《せんじょう》では、誰《だれ》もが恐怖《きょうふ》と共《とも》に崩《くず》れ、屈《くっ》してきたはずだった。



 だが今《いま》、目《め》の前《まえ》で動《どう》じずに受《う》け流《なが》す若《わか》き王子《おうじ》。



 ――ミナギ。



 怒《いか》りと困惑《こんわく》が交錯《こうさく》し、久志奈《くしな》の瞳《ひとみ》が血走《ちばし》る。


 その槍《やり》の振《ふ》り下《お》ろしはますます力《ちから》を帯《お》び、暴力性《ぼうりょくせい》は増《ま》すが、かつての無慈悲《むじひ》な豪腕《ごうわん》とは異《こと》なり、わずかに雑《ざつ》になっていた。


 ミナギの冷静《れいせい》な受《う》け流《なが》しは、久志奈《くしな》の心《こころ》に疑念《ぎねん》を芽生《めば》えさせ、戦場《せんじょう》の支配者《しはいしゃ》としての自信《じしん》を微《かす》かに揺《ゆ》るがせていた。




 ◇




 鋼《はがね》と鋼《はがね》が衝突《しょうとつ》する鋭《するど》い音《おと》が響《ひび》き渡《わた》る。


 互《たが》いの呼吸《こきゅう》が荒《あら》く、汗《あせ》と血《ち》に濡《ぬ》れた肌《はだ》が光《ひか》る。


 怒《いか》りに任《まか》せ、久志奈《くしな》は槍《やり》を振《ふ》り回《まわ》し突進《とっしん》する。


 兵士《へいし》たちは恐怖《きょうふ》と興奮《こうふん》でざわめき、戦場《せんじょう》は熱気《ねっき》に包《つつ》まれる。



 だが、ミナギはまるで水《みず》の流《なが》れを縫《ぬ》うかのように、鋭《するど》く身《み》を滑《すべ》らせ、次《つぎ》の一撃《いちげき》を瞬時《しゅんじ》に見極《みきわ》める。


 槍先《やりさき》が肩《かた》をかすめ、鎧《よろい》に振動《しんどう》が走《はし》る瞬間《しゅんかん》、久志奈《くしな》の目《め》がわずかに揺《ゆ》れた。



 ――その刹那《せつな》。



 ミナギの槍《やり》が、角度《かくど》を変《か》えて潜《もぐ》り込《こ》む。


 鋭《するど》い突進《とっしん》とともに槍先《やりさき》が鎧《よろい》の合わせ目《あわせめ》のわずかな隙間《すきま》を捉《とら》えた。


 蛇《へび》のように滑《すべ》り込《こ》み、そのまま久志奈《くしな》の脇腹《わきばら》を深々(ふかぶか)と貫《つらぬ》いた。



 一瞬《いっしゅん》、時間《じかん》が止《と》まる。



 久志奈《くしな》の身体《からだ》が硬直《こうちょく》し、目《め》が見開《みひら》かれ、理解《りかい》が追《お》いつくより先《さき》に、身体《からだ》だけが結果《けっか》を受《う》け取《と》る。



 そして膝《ひざ》が落《お》ちる。


 血《ち》が地面《じめん》に滴《したた》り落《お》ち、鎧《よろい》を赤《あか》く染《そ》める。


 ミナギは体重《たいじゅう》を乗《の》せ、槍《やり》を押《お》し込み、最後《さいご》の一撃《いちげき》で久志奈《くしな》を完全《かんぜん》に制圧《せいあつ》する。


 血《ち》を吹《ふ》き、肩《かた》を震《ふる》わせる久志奈《くしな》を、ミナギは冷徹《れいてつ》な眼差《まなざ》しで見下《みお》ろした。



 ミナギは槍《やり》を引《ひ》き抜《ぬ》く。

 次《つぎ》の瞬間《しゅんかん》、久志奈《くしな》の巨体《きょたい》は力《ちから》を失《うしな》った岩《いわ》のようにゆっくりと傾《かし》ぎ、そのまま地面《じめん》を震《ふる》わせて沈《しず》んだ。




 周囲《しゅうい》の兵士《へいし》たちは息《いき》を呑《の》む。


 戦場《せんじょう》の喧騒《けんそう》の中――両王子《りょうおうじ》の死《し》という象徴的《しょうちょうてき》な損失《そんしつ》が、戦《いくさ》の流《なが》れに微妙《びみょう》な均衡《きんこう》を生《う》み出《だ》す。


 勝利《しょうり》も敗北《はいぼく》もない、ただ血《ち》と泥《どろ》に染《そ》まった現実《げんじつ》だけが後《あと》に残《のこ》った。




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