隼比古の身体が泥へ沈んだ――その瞬間。
戦場はほんのわずかに呼吸を止めた。
矢の飛ぶ音も。
槍の衝突も。
誰かの叫びすらも。
一瞬だけ遠のく。
森の奥に広がっていたはずの喧騒が、まるで厚い布で覆われたかのように鈍くなる。
その静寂の中心に、ひときわ異質な影が立っていた。
狗奴国の王子――久志奈の大兄。
森の中に現れた岩塊のような存在だった。
地面に根を張ったかのような足運き。
筋肉は盛り上がり、その手に握る長大な鉄製の槍は、一振りで命を砕けることが想像できる。
戦場において己の力を疑わぬ王子の自信。
そして相手を恐怖でねじ伏せる威圧。
久志奈の視線が、ひとつの点に収束する。
――ミナギへと。
その口元が歪む。
「前に出よ、投馬の若き王子よ。力の違いを見せてやろう!」
声は笑っている。
だがその笑いは歓喜ではなく、踏み潰す前提の余裕だった。
ミナギは応えない。
槍の柄を握る手にだけ、わずかな圧が宿る。
視線は逸らさず、ただ相手の呼吸と動きを見極めていた。
距離が詰まる。
空気が重くなる。
泥の匂いと血の鉄臭さの中に、焦げた藁の煙が混ざり、視界をわずかに濁らせる。
先に動いたのは久志奈だった。
巨体が一瞬沈み込む。
次の瞬間、鉄槍が空を裂いた。
その動作だけで空気が押し下げられるような圧が生まれる。
泥が爆ぜ、土が裂け、周囲の兵が思わず後退する。
だがミナギはそこにいない。
わずかに半歩。
いや、半歩にも満たない移動で軌道から滑るように抜ける。
足裏が泥を掴み、体勢を崩さず次の動作へ移行する。
返す刃のように槍が突き上げられ、久志奈の鎧の腹部を掠める。
火花のような衝撃が走る。
久志奈の顔が歪む。
「……小細工を」
次の瞬間、再び槍が振るわれる。
今度は速い。
重さではなく、連続性で押し潰す攻撃だった。
振り下ろし。
横薙ぎ。
突き上げ。
地面が揺れ、泥が弧を描いて飛ぶ。
それらは圧倒的な力を伴い、戦場に支配者の存在感を刻む。
しかし、ミナギは身体を滑らせ、槍を正確に受け止め、角度を変えて跳ね返す。
刃は地面だけを裂き、遅れて轟音が残る。
その繰り返しの中で、久志奈の表情に、わずかな変化が生じた。
岩のような顔がますます顰められ、唇の端がわずかに震える。
圧倒的な力を持つはずの自分の攻撃が、目の前で滑らかに躱される。
これまでの戦場では、誰もが恐怖と共に崩れ、屈してきたはずだった。
だが今、目の前で動じずに受け流す若き王子。
――ミナギ。
怒りと困惑が交錯し、久志奈の瞳が血走る。
その槍の振り下ろしはますます力を帯び、暴力性は増すが、かつての無慈悲な豪腕とは異なり、わずかに雑になっていた。
ミナギの冷静な受け流しは、久志奈の心に疑念を芽生えさせ、戦場の支配者としての自信を微かに揺るがせていた。
鋼と鋼が衝突する鋭い音が響き渡る。
互いの呼吸が荒く、汗と血に濡れた肌が光る。
怒りに任せ、久志奈は槍を振り回し突進する。
兵士たちは恐怖と興奮でざわめき、戦場は熱気に包まれる。
だが、ミナギはまるで水の流れを縫うかのように、鋭く身を滑らせ、次の一撃を瞬時に見極める。
槍先が肩をかすめ、鎧に振動が走る瞬間、久志奈の目がわずかに揺れた。
――その刹那。
ミナギの槍が、角度を変えて潜り込む。
鋭い突進とともに槍先が鎧の合わせ目のわずかな隙間を捉えた。
蛇のように滑り込み、そのまま久志奈の脇腹を深々と貫いた。
一瞬、時間が止まる。
久志奈の身体が硬直し、目が見開かれ、理解が追いつくより先に、身体だけが結果を受け取る。
そして膝が落ちる。
血が地面に滴り落ち、鎧を赤く染める。
ミナギは体重を乗せ、槍を押し込み、最後の一撃で久志奈を完全に制圧する。
血を吹き、肩を震わせる久志奈を、ミナギは冷徹な眼差しで見下ろした。
ミナギは槍を引き抜く。
次の瞬間、久志奈の巨体は力を失った岩のようにゆっくりと傾ぎ、そのまま地面を震わせて沈んだ。
周囲の兵士たちは息を呑む。
戦場の喧騒の中――両王子の死という象徴的な損失が、戦の流れに微妙な均衡を生み出す。
勝利も敗北もない、ただ血と泥に染まった現実だけが後に残った。