因果
森を駆け抜ける足音は、もはや自分のものという実感を持たなかった。
泥を踏みしめ、根を飛び越え、枝の間を縫うたびに、視界が刻むように揺れる。
そのすべてを押し分けるようにして、ミナギは前へと進んでいた。
矢が空を裂く音。
盾が受け止める鈍い衝撃。
誰かの叫びが途中で途切れる気配。
すべてが重なり合い、森そのものが痛みを発しているようだった。
その中心へ――視界が開ける。
そして、見えた。
倒れている。
最初、それが何なのか理解するまでに、わずかな遅れがあった。
人の形をしているが、人として認識することを拒むほどに、そこには終わりが濃く滲んでいた。
隼比古だった。
泥の上に崩れ落ちた身体は、かつての動きの記憶を失っている。
甲冑は無残に歪み、肩口から胸にかけては泥と血で濡れ、重さだけが強調されていた。
――首筋。
そこに突き立っている一本の矢が、すべてを決定づけていた。
角度はわずかに下向きで、逃げる余地を許さない深さまで沈み込んでいる。
羽根だけが、まだかすかに震えていた。
声を上げ。
自らを誇示し。
戦場の理を無視して突き進んでいたその姿は――
もうどこにもない。
ミナギの足が止まる。
森の音が一瞬だけ遠のいたように感じられる。
しかしそれは現実ではなく、認識の空白だった。
次の瞬間には、戦場の喧騒が再び押し寄せてくる。
「――隼比古」
声にならない声が、喉の奥から零れる。
呼んだというより、形だけが言葉になったような呟きだった。
風がそれを攫う。
矢の飛ぶ音と混ざり、誰にも届かずに消える。
ミナギは一歩、遅れて踏み出す。
そして止まる。
胸の奥で何かが動く。
だがそれは熱ではない。
怒りでも、悲しみでもなかった。
ただ、静かに沈んでいく重さ。
水のない場所に落ちた石のように、音もなく深く沈殿していく感覚だった。
視線は逸らさないまま、隼比古の姿を見ている。
そこにはもう、意志も、誇りも、選択も残っていない。
あるのは結果だけだ。
その冷たさが、理解としてではなく、実感として胸に落ちてくる。
同時に、もうひとつの感情がわずかに浮かぶ。
それは憐憫と呼ぶには鋭く、同情と呼ぶには距離がある。
あまりにも短い選択の連続の果てに、ここへ落ちた存在への、静かな認識。
この死が意味するもの。
戦線への影響。
敵の動きの変化。
味方の動揺の波及範囲。
感情と計算が同じ層に並び、どちらも切り離せないまま同時に存在している。
そして、その奥にひとつだけ、冷え切った確信が残る。
――因果は偶然ではない。
この戦場において起きたことは、積み重なった選択の帰結だ。
誰かの無謀。
誰かの判断。
誰かの遅れ。
それらが絡まり合い、この一点に収束した。
父の死の影が、その思考の奥をわずかにかすめる。
だがミナギはそこに沈まない。
沈めば、次が失われる。
視線を上げる。
戦場はまだ終わっていない。
むしろ、崩れはこれから広がる。
倒れた一人の兄の姿と、まだ動き続ける戦の流れ。
その対比だけが、森の中で異様な静けさを作っていた。
そしてその静けさを破るように、再び矢が飛ぶ音が聞こえる。
ミナギは一度だけ目を閉じ、すぐに開いた。
そこに残るのは、喪失ではなく、選択の続きだった。




