ミナギが村を去ってから、早くも半年の月日が流れようとしていた。
アサはミナギに教えられた日々の修行を怠らなかった。
石や木、動物の骨を丁寧に並べ、風の匂いに耳を澄まし、鳥や虫の声に意識を集中させる。
水の流れが岩に当たる音から変化を読み取り、空気の微かなうねりから、方向や気配を感じ取る。
そうして、日々を静かに――
しかし全身全霊で過ごしていた。
だが、どれほど身を研ぎ澄ませても、胸の奥にぽっかりと空いた穴は塞がらなかった。
ミナギと過ごした時間。
交わした言葉や視線。
ふとした仕草のひとつひとつの思い出を手繰ることで、ようやく心の均衡を保つしかない毎日が続いた。
そんな日常にも、戦乱の影は忍び寄っていた。
山向こうの村が、狗奴国の軍勢によって蹂躙されたという噂が、風に乗って届く。
焼け焦げる匂い。
叫び声。
――想像するだけで村は重く沈み、不安と緊張が空気を覆った。
アサは小さく息をつく。
そして、目の前の森のざわめきに耳を澄ましながら、次第に迫り来る喧騒の気配を、心の奥底で感じ取った。
その日は、森がざわめいていた。
木々の揺らめき、葉擦れがいつもと違う音を立てる。
風は低く唸り、枝を揺らして森全体を震わせる。
鳥たちは声を潜め、森に沈黙が訪れていた。
何かがおかしい――
自然のすべてが、何か恐るべき兆しを前に、息を呑んでいるかのようだった。
やがて、鼻を突く煙の匂いが風に乗って漂ってきた。
アサは息を呑み、はっと振り返る。
村が――
心臓が跳ね、足が自然と前へと動く。
森を抜け、村への細い道を必死に駆けた。
その先に、信じられない光景が広がっていた。
村の外れに置かれた簡素な倉。
干物。
藁の屋根――
すべてが火の手にかかり、煙を立ち上らせ、赤黒い炎が跳ね上がる。
木の軋む音。
破裂する屋根の音。
そして――混じるかすかな叫び声。
アサの足は震え、胸は痛みに締めつけられる。
かつて皆で笑い、穏やかな日々を過ごした村の中心が、炎に覆われ、灰と煙に飲み込まれていく。
遠くに、狗奴国の兵たちの姿が見えた。
木の盾を手に、槍を構え、容赦なく村を進む男達。
笑い声と叫び声が混ざり合い、村を蹂躙する。
その冷酷さに、アサの胸は凍る。
「……母様――!」
アサは咄嗟に駆け出した。
母を守るため、自分の家へ――
しかし、突如暗い影がアサの前に立ちはだかった。
狗奴国の兵――無造作に武具を揺らし、目に冷たい光を宿す男――が、笑みひとつなく、その身体で道を塞ぐ。
次の瞬間、アサの身体は地面に叩きつけられ、土と小石が顔に跳ねる。
衝撃で息が喉に詰まり、胸は激しく締めつけられた。
恐怖が血液の隅々にまで染み渡り、心臓は頭のてっぺんまで跳ね上がる。
視界は揺れ、世界が歪み、森のざわめきも、遠くの炎の音も、すべて遠のいていく。
ただ兵の存在と、全身に走る痛みだけが現実として迫る。
その男の顔には笑みこそないものの、唇の端には薄らとした下卑た感情が滲み、目は楽しげに光っていた。
「――おいおい、どうした、怖がるのか?」
低く、吐き捨てるような声が耳元に響く。
その冷酷さ、下衆さに、アサの身体は震え、全身が硬直する。
火と煙の匂いの中で、兵の腕がさらに力を増すたびに、痛みと恐怖が増幅され、逃げ場のない絶望感がじわじわとアサを包み込んでいく。
――その瞬間だった。
兵士の首元に、冷たく光る短刀が深々と突き刺さった。
「ぐあっ――……!」
兵士は驚愕の声をあげる。
その口から血が泡となって溢れ、兵士の身体は震えた。
「……この、女……!」
アサは目を見開いた。
――母だった。
母は必死の形相で、全身を使って兵士に食らいつく。
二人は地面に擦れ合い、土埃と焦げた藁の匂いが立ち込める中で、激しく揉み合った。
母の短刀の刃は容赦を知らなかった。
鋼の冷たさと血の生々しさが混ざり合い、兵士の肉を貫く。
しかし次の瞬間、兵士の槍が母の胸を突き破り、母は大きく崩れ落ちた。
痛みと衝撃で微かに呻き、血の匂いが鼻を刺す。
母の倒れる間際、兵士もまた、泥と血にまみれて静かに息絶えた。
「――母様!」
アサは叫びながら、必死に身体を起こした。
よろめく足は震え、膝は泥と灰で汚れ、思うように動かない。
炎と煙にむせる空気の中、咳き込み、胸を焼く熱気に息を奪われながらも、ただ必死に母のもとへ。
母は荒く、断続的な呼吸の中で、かすかに唇を動かす。
アサは震える手を必死に母に伸ばした。
母の手が、その手を握り返した。
荒い呼吸の中で、母は最後の力を振り絞り、赤い瑪瑙を握らせた。
手の中に託された瑪瑙は、母の願い、母の命そのものだった。
「――生き、て……」
かすれた声は、風にかき消されそうになりながらも、アサの心に深く刻まれた。
瑪瑙を握りしめ、胸に押し当てる。
その瞬間、母は静かに、深く息を吐き、事切れた。
背後で炎がはじけ、煙が渦巻く中、アサの目からは涙が止めどなく流れ落ちる。
普段は決して言葉で愛を示さなかった母が、命がけで自分を護ろうとした。
アサの全身を、突き抜けるような深い絶望と、後悔の痛みが貫いた。
涙は止まらず、口からは嗚咽が漏れ、泥と煤にまみれ、顔はぐしゃぐしゃに汚れる。
焼け焦げた木々の臭いと血の匂いが鼻腔を刺す。
アサは立ち上がり、走り出した。
痛み。
疲労。
恐怖。
絶望――
すべてを蹴散らすように。
振り返ることは許されない。
逃げ場も分からない。
どこに辿り着けるのかも、見当もつかない。
――ただひたすらに。
森を抜け。
野を越え。
足を蹴り上げ。
腕を振る。
生き延びるために。
生き延びることだけが、母の願いに応える唯一の手段だと、心が叫んでいた。