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アマガタリ  作者: ひよりの
第一章
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22/143

業火




 ミナギが村《むら》を去《さ》ってから、早《はや》くも半年《はんとし》の月日《つきひ》が流《なが》れようとしていた。

  


 アサはミナギに教《おし》えられた日々(ひび)の修行《しゅぎょう》を怠《おこた》らなかった。


 石《いし》や木《き》、動物《どうぶつ》の骨《ほね》を丁寧《ていねい》に並《なら》べ、風《かぜ》の匂《にお》いに耳《みみ》を澄《す》まし、鳥《とり》や虫《むし》の声《こえ》に意識《いしき》を集中《しゅうちゅう》させる。


 水《みず》の流《なが》れが岩《いわ》に当《あ》たる音《おと》から変化《へんか》を読み取り、空気《くうき》の微《かす》かなうねりから、方向《ほうこう》や気配《けはい》を感じ取《と》る。



 そうして、日々(ひび)を静《しず》かに――


 しかし全身全霊《ぜんしんぜんれい》で過《す》ごしていた。



 だが、どれほど身《み》を研《と》ぎ澄《す》ませても、胸《むね》の奥《おく》にぽっかりと空《あ》いた穴《あな》は塞《ふさ》がらなかった。



 ミナギと過《す》ごした時間《じかん》。


 交《か》わした言葉《ことば》や視線《しせん》。


 ふとした仕草《しぐさ》のひとつひとつの思《おも》い出《で》を手繰《たぐ》ることで、ようやく心《こころ》の均衡《きんこう》を保《たも》つしかない毎日《まいにち》が続《つづ》いた。




 そんな日常《にちじょう》にも、戦乱《せんらん》の影《かげ》は忍《しの》び寄《よ》っていた。


 山向《やまむ》こうの村《むら》が、狗奴国《くなこく》の軍勢《ぐんぜい》によって蹂躙《じゅうりん》されたという噂《うわさ》が、風《かぜ》に乗《の》って届《とど》く。



 焼《や》け焦《こ》げる匂《にお》い。


 叫《さけ》び声《ごえ》。

  


 ――想像《そうぞう》するだけで村《むら》は重《おも》く沈《しず》み、不安《ふあん》と緊張《きんちょう》が空気《くうき》を覆《おお》った。



 アサは小《ちい》さく息《いき》をつく。


 そして、目《め》の前《まえ》の森《もり》のざわめきに耳《みみ》を澄《す》ましながら、次第《しだい》に迫《せま》り来《く》る喧騒《けんそう》の気配《けはい》を、心《こころ》の奥底《おくそこ》で感じ取った。

 



 ◇




 その日《ひ》は、森《もり》がざわめいていた。


 木々(きぎ)の揺《ゆ》らめき、葉擦《はず》れがいつもと違《ちが》う音《おと》を立《た》てる。


 風《かぜ》は低《ひく》く唸《うな》り、枝《えだ》を揺《ゆ》らして森《もり》全体《ぜんたい》を震《ふる》わせる。


 鳥《とり》たちは声《こえ》を潜《ひそ》め、森《もり》に沈黙《ちんもく》が訪《おとず》れていた。



 何《なに》かがおかしい――



 自然《しぜん》のすべてが、何《なに》か恐《おそ》るべき兆《きざ》しを前《まえ》に、息《いき》を呑《の》んでいるかのようだった。



 やがて、鼻《はな》を突《つ》く煙《けむり》の匂《にお》いが風《かぜ》に乗《の》って漂《ただよ》ってきた。


 アサは息《いき》を呑《の》み、はっと振《ふ》り返《かえ》る。



 村《むら》が――



 心臓《しんぞう》が跳《は》ね、足《あし》が自然《しぜん》と前《まえ》へと動《うご》く。


 森《もり》を抜《ぬ》け、村《むら》への細《ほそ》い道《みち》を必死《ひっし》に駆《か》けた。



 その先《さき》に、信《しん》じられない光景《こうけい》が広《ひろ》がっていた。


 村《むら》の外《はず》れに置《お》かれた簡素《かんそ》な倉《くら》。  



 干物《ほしもの》。  


 藁《わら》の屋根《やね》――



 すべてが火《ひ》の手《て》にかかり、煙《けむり》を立《た》ち上《のぼ》らせ、赤黒《あかぐろ》い炎《ほのお》が跳《は》ね上《あ》がる。

 


 木《き》の軋《きし》む音《おと》。


 破裂《はれつ》する屋根《やね》の音《おと》。  


 そして――混《ま》じるかすかな叫《さけ》び声《ごえ》。



 アサの足《あし》は震《ふる》え、胸《むね》は痛《いた》みに締《し》めつけられる。



 かつて皆《みな》で笑《わら》い、穏《おだ》やかな日々(ひび)を過《す》ごした村《むら》の中心《ちゅうしん》が、炎《ほのお》に覆《おお》われ、灰《はい》と煙《けむり》に飲《の》み込《こ》まれていく。

 


 遠《とお》くに、狗奴国《くなこく》の兵《へい》たちの姿《すがた》が見《み》えた。


 木《き》の盾《たて》を手《て》に、槍《やり》を構《かま》え、容赦《ようしゃ》なく村《むら》を進《すす》む男達《おとこたち》。


 笑《わら》い声《ごえ》と叫《さけ》び声《ごえ》が混《ま》ざり合《あ》い、村《むら》を蹂躙《じゅうりん》する。


 その冷酷《れいこく》さに、アサの胸《むね》は凍《こお》る。



「……母様《かあさま》――!」

 


 アサは咄嗟《とっさ》に駆《か》け出《だ》した。


 母《はは》を守《まも》るため、自分《じぶん》の家《いえ》へ――




 しかし、突如《とつじょ》暗《くら》い影《かげ》がアサの前《まえ》に立《た》ちはだかった。


 狗奴国《くなこく》の兵《へい》――無造作《むぞうさ》に武具《ぶぐ》を揺《ゆ》らし、目《め》に冷《つめ》たい光《ひかり》を宿《やど》す男《おとこ》――が、笑《え》みひとつなく、その身体《からだ》で道《みち》を塞《ふさ》ぐ。



 次《つぎ》の瞬間《しゅんかん》、アサの身体《からだ》は地面《じめん》に叩《たた》きつけられ、土《つち》と小石《こいし》が顔《かお》に跳《は》ねる。


 衝撃《しょうげき》で息《いき》が喉《のど》に詰《つ》まり、胸《むね》は激《はげ》しく締《し》めつけられた。


 恐怖《きょうふ》が血液《けつえき》の隅々(すみずみ)にまで染《し》み渡《わた》り、心臓《しんぞう》は頭《あたま》のてっぺんまで跳《は》ね上《あ》がる。 


 視界《しかい》は揺《ゆ》れ、世界《せかい》が歪《ゆが》み、森《もり》のざわめきも、遠《とお》くの炎《ほのお》の音《おと》も、すべて遠《とお》のいていく。


 ただ兵《へい》の存在《そんざい》と、全身《ぜんしん》に走《はし》る痛《いた》みだけが現実《げんじつ》として迫《せま》る。



 その男《おとこ》の顔《かお》には笑《え》みこそないものの、唇《くちびる》の端《はし》には薄《うっす》らとした下卑《げび》た感情《かんじょう》が滲《にじ》み、目《め》は楽《たの》しげに光《ひか》っていた。



「――おいおい、どうした、怖《こわ》がるのか?」



 低《ひく》く、吐《は》き捨《す》てるような声《こえ》が耳元《みみもと》に響《ひび》く。


 その冷酷《れいこく》さ、下衆《げす》さに、アサの身体《からだ》は震《ふる》え、全身《ぜんしん》が硬直《こうちょく》する。


 火《ひ》と煙《けむり》の匂《にお》いの中《なか》で、兵《へい》の腕《うで》がさらに力《ちから》を増《ま》すたびに、痛《いた》みと恐怖《きょうふ》が増幅《ぞうふく》され、逃《に》げ場《ば》のない絶望感《ぜつぼうかん》がじわじわとアサを包《つつ》み込《こ》んでいく。




 ――その瞬間《しゅんかん》だった。



 兵士《へいし》の首元《くびもと》に、冷《つめ》たく光《ひか》る短刀《たんとう》が深々(ふかぶか)と突《つ》き刺《さ》さった。



「ぐあっ――……!」



 兵士《へいし》は驚愕《きょうがく》の声《こえ》をあげる。


 その口《くち》から血《ち》が泡《あわ》となって溢《あふ》れ、兵士《へいし》の身体《からだ》は震《ふる》えた。



「……この、女《おんな》……!」



 アサは目《め》を見開《みひら》いた。



 ――母《はは》だった。

 


 母《はは》は必死《ひっし》の形相《ぎょうそう》で、全身《ぜんしん》を使《つか》って兵士《へいし》に食《く》らいつく。


 二人《ふたり》は地面《じめん》に擦《こす》れ合《あ》い、土埃《つちぼこり》と焦《こ》げた藁《わら》の匂《にお》いが立《た》ち込《こ》める中《なか》で、激《はげ》しく揉《も》み合《あ》った。



 母《はは》の短刀《たんとう》の刃《は》は容赦《ようしゃ》を知《し》らなかった。


 鋼《はがね》の冷《つめ》たさと血《ち》の生々(なまなま)しさが混《ま》ざり合《あ》い、兵士《へいし》の肉《にく》を貫《つらぬ》く。



 しかし次《つぎ》の瞬間《しゅんかん》、兵士《へいし》の槍《やり》が母《はは》の胸《むね》を突《つ》き破《やぶ》り、母《はは》は大《おお》きく崩《くず》れ落《お》ちた。


 痛《いた》みと衝撃《しょうげき》で微《かす》かに呻《うめ》き、血《ち》の匂《にお》いが鼻《はな》を刺《さ》す。


 母《はは》の倒《たお》れる間際《まぎわ》、兵士《へいし》もまた、泥《どろ》と血《ち》にまみれて静《しず》かに息絶《いきた》えた。



「――母様《かあさま》!」



 アサは叫《さけ》びながら、必死《ひっし》に身体《からだ》を起《お》こした。


 よろめく足《あし》は震《ふる》え、膝《ひざ》は泥《どろ》と灰《はい》で汚《よご》れ、思《おも》うように動《うご》かない。


 炎《ほのお》と煙《けむり》にむせる空気《くうき》の中《なか》、咳《せ》き込《こ》み、胸《むね》を焼《や》く熱気《ねっき》に息《いき》を奪《うば》われながらも、ただ必死《ひっし》に母《はは》のもとへ。



 母《はは》は荒《あら》く、断続的《だんぞくてき》な呼吸《こきゅう》の中《なか》で、かすかに唇《くちびる》を動《うご》かす。


 アサは震《ふる》える手《て》を必死《ひっし》に母《はは》に伸《の》ばした。


 母《はは》の手《て》が、その手《て》を握《にぎ》り返《かえ》した。


 荒《あら》い呼吸《こきゅう》の中《なか》で、母《はは》は最後《さいご》の力《ちから》を振《ふ》り絞《しぼ》り、赤《あか》い瑪瑙《めのう》を握《にぎ》らせた。


 手《て》の中《なか》に託《たく》された瑪瑙《めのう》は、母《はは》の願《ねが》い、母《はは》の命《いのち》そのものだった。



「――生《い》き、て……」



 かすれた声《こえ》は、風《かぜ》にかき消《け》されそうになりながらも、アサの心《こころ》に深《ふか》く刻《きざ》まれた。


 瑪瑙《めのう》を握《にぎ》りしめ、胸《むね》に押《お》し当《あ》てる。


 その瞬間《しゅんかん》、母《はは》は静《しず》かに、深《ふか》く息《いき》を吐《は》き、事切《ことき》れた。



 背後《はいご》で炎《ほのお》がはじけ、煙《けむり》が渦巻《うずま》く中《なか》、アサの目《め》からは涙《なみだ》が止《と》めどなく流《なが》れ落《お》ちる。


 普段《ふだん》は決《けっ》して言葉《ことば》で愛《あい》を示《しめ》さなかった母《はは》が、命《いのち》がけで自分《じぶん》を護《まも》ろうとした。


 アサの全身《ぜんしん》を、突《つ》き抜《ぬ》けるような深《ふか》い絶望《ぜつぼう》と、後悔《こうかい》の痛《いた》みが貫《つらぬ》いた。


 涙《なみだ》は止《と》まらず、口《くち》からは嗚咽《おえつ》が漏《も》れ、泥《どろ》と煤《すす》にまみれ、顔《かお》はぐしゃぐしゃに汚《よご》れる。


 焼《や》け焦《こ》げた木々(きぎ)の臭《にお》いと血《ち》の匂《にお》いが鼻腔《びくう》を刺《さ》す。



 アサは立《た》ち上《あ》がり、走《はし》り出《だ》した。



 痛《いた》み。  


 疲労《ひろう》。  


 恐怖《きょうふ》。  


 絶望《ぜつぼう》――



 すべてを蹴散《けち》らすように。



 振《ふ》り返《かえ》ることは許《ゆる》されない。


 逃《に》げ場《ば》も分《わ》からない。


 どこに辿《たど》り着《つ》けるのかも、見当《けんとう》もつかない。



 ――ただひたすらに。



 森《もり》を抜《ぬ》け。  


 野《の》を越《こ》え。    


 足《あし》を蹴《け》り上《あ》げ。  


 腕《うで》を振《ふ》る。



 生《い》き延《の》びるために。


 生《い》き延《の》びることだけが、母《はは》の願《ねが》いに応《こた》える唯一《ゆいいつ》の手段《しゅだん》だと、心《こころ》が叫《さけ》んでいた。




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