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アマガタリ  作者: ひよりの
第一章
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毒




 夜《よる》の闇《やみ》は、ますます濃《こ》く深《ふか》まる。


 宮《みや》の奥《おく》――灯《あか》りはひとつ、低《ひく》く揺《ゆ》れている。



 ミナギは座《ざ》していた。


 その手《て》には、布《ぬの》に包《つつ》まれたもの。


 父《ちち》の傷口《きずぐち》から拭《ぬぐ》い取《と》った血《ち》の、わずかな残滓《ざんし》。


 乾《かわ》ききらぬそれが、黒《くろ》く鈍《にぶ》い色《いろ》を帯《お》びている。



 向《む》かいに、タヅマがいる。


 老《お》いた身体《からだ》を静《しず》かに据《す》え、しかし眼光《がんこう》は鋭《するど》く、怜悧《れいり》な光《ひかり》を宿《やど》している。



 ミナギは布《ぬの》をゆっくりと開《ひら》く。


 指先《ゆびさき》でそれを擦《こす》る。


 粘《ねば》りと、乾《かわ》ききらぬ湿《しめ》り。


 しかし彼《かれ》の視線《しせん》は手元《てもと》にはなく、どこか遠《とお》くを見据《みす》えるように定《さだ》まっていた。



 さらに、もう一度《いちど》匂《にお》いを確《たし》かめる。



「――この匂《にお》いに覚《おぼ》えがある」



 呟《つぶや》く。



「ヤツガシラだ」



 その言葉《ことば》に、タヅマは、わずかに目《め》を見開《みひら》いた。


 彼《かれ》は布《ぬの》の上《うえ》に視線《しせん》を落《お》とし、鼻先《はなさき》へとゆっくり寄《よ》せる。

 


「……このわずかな匂《にお》いを、よくぞ嗅《か》ぎ分《わ》けられましたな」



 その声《こえ》には、驚《おどろ》きと感嘆《かんたん》が滲《にじ》んでいた。



「常《つね》の者《もの》であれば、まず気《き》づきませぬ」



 ミナギは、わずかに視線《しせん》を逸《そ》らした。

 


「――癖《くせ》だ」



 短《みじか》く、しかしそれ以上《いじょう》を拒《こば》むような言《い》い回《まわ》し。


 タヅマは黙《もく》して、目《め》をわずかに伏《ふ》せる。


 布《ぬの》の上《うえ》に指先《ゆびさき》を軽《かる》く触《ふ》れる。



「それに、この黒《くろ》ずみ――」



 微《かす》かに眉《まゆ》を寄《よ》せ、観察《かんさつ》する眼差《まなざ》しには慎重《しんちょう》さが宿《やど》る。 



「乾《かわ》ききってはおりませぬな」



 ミナギは黙《だま》って見《み》ている。



「血《ち》が酸《す》えて黒《くろ》くなるのは、さほど珍《めずら》しくはございません。されど――」



 わずかに目《め》を細《ほそ》める。



「回《まわ》りの速《はや》い毒《どく》であれば、このようには残《のこ》りませぬ」



「――狗奴《くな》の毒《どく》じゃない」



 ミナギは確信《かくしん》を込《こ》めて言《い》った。



「左様《さよう》でございましょうな」



 タヅマは薄《うす》く笑《わら》う。



「彼《か》の者《もの》どもは、もっとせっかちでございます」



 ミナギは頷《うなず》く。



「ヤツガシラは……特定《とくてい》の岩場《いわば》にしか生《は》えぬ花《はな》だ。しかも、採取《さいしゅ》には熟練《じゅくれん》を要《よう》し、季節《きせつ》を選《えら》ばぬと効力《こうりょく》を失《うしな》う」



 低《ひく》く、言《い》う。


 タヅマの目《め》が、かすかに揺《ゆ》れた。



「手《て》に入《はい》るのはこの国《くに》に限《かぎ》られる――しかも扱《あつか》える者《もの》はわずかだ」



 しばし沈黙《ちんもく》が流《なが》れる。


 その空気《くうき》は、重《おも》く、鋭《するど》く、室内《しつない》を満《み》たしていた。

 


 やがて、タヅマが呟《つぶや》く。



「…自《おの》ずと手《て》を下《くだ》した者《もの》は絞《しぼ》られますな」



 そして、ミナギを見《み》やる。



「――どうされるおつもりで?」



 ミナギは目《め》を閉《と》じ、広間《ひろま》の光景《こうけい》を思《おも》い浮《う》かべる。



 怒《いか》り。


 声《こえ》。


 喧騒《けんそう》。



「──止《と》めねば」



 ミナギの言葉《ことば》に、タヅマの目《め》がわずかに細《ほそ》くなる。


 その一瞬《いっしゅん》、室内《しつない》の空気《くうき》がすっと重《おも》さを増《ま》し、火《ひ》の揺《ゆ》らぎだけがやけに大《おお》きく見《み》えた。



 タヅマはすぐには返《かえ》さなかった。


 口《くち》を開《ひら》く代《か》わりに、ひと呼吸《ひとこきゅう》だけ置《お》く。


 言葉《ことば》を選《えら》ぶような沈黙《ちんもく》が、場《ば》を静《しず》かに押《お》し潰《つぶ》していく。



「……鏃《やじり》がある以上《いじょう》、皆《みな》はそちらを信《しん》じましょう」



 低《ひく》く落《お》とされた声《こえ》は、静《しず》かだが揺《ゆ》らぎがない。



「毒《どく》に気《き》づく者《もの》は、ミナギ様《さま》をおいて他《ほか》にはございませぬ」 



 言葉《ことば》は柔《やわ》らかいが、その奥《おく》には揺《ゆ》るがぬ線《せん》が引《ひ》かれていた。



「仮《かり》に見抜《みぬ》けたとしても――」



 そこで一度《いちど》、言葉《ことば》が切《き》れる。


 外《そと》から吹《ふ》き込《こ》む風《かぜ》が、戸口《とぐち》の布《ぬの》をかすかに揺《ゆ》らした。



「証《あかし》には弱《よわ》うございます」



 容赦《ようしゃ》のない現実《げんじつ》の告知《こくち》だった。



「何《なに》より、既《すで》に火《ひ》は放《はな》たれております」



 灯火《ともしび》の揺《ゆ》らぎが、ふたりの目《め》に映《うつ》る。



「一度《いちど》燃《も》え広《ひろ》がった戦《いくさ》の炎《ほのお》は、理《り》では消《け》せませぬ」



 タヅマは、静《しず》かに目《め》を伏《ふ》せた。



「戦《いくさ》とは――こうして始《はじ》まるものにございます」



 その声音《こわね》には、わずかな哀《あわ》れみが混《ま》じっていた。

 


 ミナギの脳裏《のうり》に、ふと別《べつ》の声《こえ》が蘇《よみがえ》る――


 先程《さきほど》の廊下《ろうか》での、宇良《うら》の言葉《ことば》。



『戦《いくさ》の気配《けはい》はすでに、兵《へい》たちを熱《あつ》く染《そ》め上《あ》げておりますのよ、ミナギ様《さま》』



 あの時《とき》の微《かす》かな挑発《ちょうはつ》めいた言葉《ことば》が、今《いま》、タヅマの言葉《ことば》と重《かさ》なった。



 戦《いくさ》の炎《ほのお》は、すでに燃《も》え広《ひろ》がっている。


 理《り》では消《け》せぬ熱《ねつ》と意思《いし》の奔流《ほんりゅう》。


 ミナギは目《め》を閉《と》じ、額《ひたい》にわずかに皺《しわ》を寄《よ》せた。

  




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