毒
夜の闇は、ますます濃く深まる。
宮の奥――灯りはひとつ、低く揺れている。
ミナギは座していた。
その手には、布に包まれたもの。
父の傷口から拭い取った血の、わずかな残滓。
乾ききらぬそれが、黒く鈍い色を帯びている。
向かいに、タヅマがいる。
老いた身体を静かに据え、しかし眼光は鋭く、怜悧な光を宿している。
ミナギは布をゆっくりと開く。
指先でそれを擦る。
粘りと、乾ききらぬ湿り。
しかし彼の視線は手元にはなく、どこか遠くを見据えるように定まっていた。
さらに、もう一度匂いを確かめる。
「――この匂いに覚えがある」
呟く。
「ヤツガシラだ」
その言葉に、タヅマは、わずかに目を見開いた。
彼は布の上に視線を落とし、鼻先へとゆっくり寄せる。
「……このわずかな匂いを、よくぞ嗅ぎ分けられましたな」
その声には、驚きと感嘆が滲んでいた。
「常の者であれば、まず気づきませぬ」
ミナギは、わずかに視線を逸らした。
「――癖だ」
短く、しかしそれ以上を拒むような言い回し。
タヅマは黙して、目をわずかに伏せる。
布の上に指先を軽く触れる。
「それに、この黒ずみ――」
微かに眉を寄せ、観察する眼差しには慎重さが宿る。
「乾ききってはおりませぬな」
ミナギは黙って見ている。
「血が酸えて黒くなるのは、さほど珍しくはございません。されど――」
わずかに目を細める。
「回りの速い毒であれば、このようには残りませぬ」
「――狗奴の毒じゃない」
ミナギは確信を込めて言った。
「左様でございましょうな」
タヅマは薄く笑う。
「彼の者どもは、もっとせっかちでございます」
ミナギは頷く。
「ヤツガシラは…特定の岩場にしか生えぬ花だ。しかも、採取には熟練を要し、季節を選ばぬと効力を失う」
低く、言う。
タヅマの目が、かすかに揺れた。
「手に入るのはこの国に限られる――しかも扱える者はわずかだ」
しばし沈黙が流れる。
その空気は、重く、鋭く、室内を満たしていた。
やがて、タヅマが呟く。
「…自ずと手を下した者は絞られますな」
そして、ミナギを見やる。
「――どうされるおつもりで?」
ミナギは目を閉じ、広間の光景を思い浮かべる。
怒り。
声。
喧騒。
「──止めねば」
ミナギの言葉に、タヅマの目がわずかに細くなる。
その一瞬、室内の空気がすっと重さを増し、火の揺らぎだけがやけに大きく見えた。
タヅマはすぐには返さなかった。
口を開く代わりに、ひと呼吸だけ置く。
言葉を選ぶような沈黙が、場を静かに押し潰していく。
「……鏃がある以上、皆はそちらを信じましょう」
低く落とされた声は、静かだが揺らぎがない。
「毒に気づく者は、ミナギ様をおいて他にはございませぬ」
言葉は柔らかいが、その奥には揺るがぬ線が引かれていた。
「仮に見抜けたとしても――」
そこで一度、言葉が切れる。
外から吹き込む風が、戸口の布をかすかに揺らした。
「証には弱うございます」
容赦のない現実の告知だった。
「何より、既に火は放たれております」
灯火の揺らぎが、ふたりの目に映る。
「一度燃え広がった戦の炎は、理では消せませぬ」
タヅマは、静かに目を伏せた。
「戦とは――こうして始まるものにございます」
その声音には、わずかな哀れみが混じっていた。
ミナギの脳裏に、ふと別の声が蘇る――
先程の廊下での、宇良の言葉。
『戦の気配はすでに、兵たちを熱く染め上げておりますのよ、ミナギ様』
あの時の微かな挑発めいた言葉が、今、タヅマの言葉と重なった。
戦の炎は、すでに燃え広がっている。
理では消せぬ熱と意思の奔流。
ミナギは目を閉じ、額にわずかに皺を寄せた。




