宇良
廊下の淡い篝火が揺れる中、ミナギの足音が静かに響く。
背後から、かすかに布擦れの音がした。
振り返ると、宇良が立っていた。
「お久しぶりでございます、ミナギ様」
一見すると美しく、柔らかい物腰。
光を受けて微かに揺れる黒髪が、静かに胸元に落ちている。
だが、その穏やかな微笑の奥に、計り知れぬ深さと冷たさが潜んでいる。
「……ああ」
ミナギは一言だけ返す。
底知れぬ女だ、と改めて感じる。
「このところはご多忙でいらしたようですね」
宇良の声色は柔らかい。
しかし。
「一年も旅にお出でとは──」
その言葉は社交辞令のようで、同時に皮肉にも思える。
表面的には穏やかに振る舞いつつも、いつも微妙に挑発するような響きがある。
「一年か……気づけば、そう長くなっていたな」
ミナギは軽く肩をすくめ、微かな笑みを浮かべる。
「外の空気は、変わらず面白かった。投馬国の空気も悪くないが、少々窮屈でな」
その言い回しは、宇良の皮肉をそっと返すかのようでもある。
「ハヤトは息災か」
ハヤトとは、兄・隼比古と宇良との間の、今年六歳になる子供だ。
ミナギにとっては甥にあたる。
その小さな存在は、二人の血を受け継ぎながらも、どこか無邪気で伸びやかだった。
天真爛漫な笑顔と明るさは、ミナギの胸に自然と愛惜の情を呼び起こす。
宇良は微かに笑みを浮かべ、答える。
「お陰様にございます。日々いたずら盛りながらも、健やかに過ごしております」
そう言って、上品に手を口元に当てて、ホホホと笑った。
「貴方様のお帰りを心待ちにしておりましたのよ。『叔父上はいつお戻りになるのか』と。そればかり」
ミナギは、ハヤトのくるくると表情を変える愛らしい様子を思い浮かべ、思わず柔らかな笑みを零した。
その微笑を受け止めるように、宇良はふと表情を落ち着かせた。
「──お義父上は、大変残念でございました……」
悲しみに沈むかのような声色と、柔らかく伏せた視線。
だが、どこか演技めいている――
そのわずかな違和感が、ミナギの警戒心を鋭く刺激した。
微かに口元を引き締め、瞳の奥で冷たい光を走らせる。
「……嘆かわしいことだ」
声は平静を装いながらも、心の奥では確かな疑念が芽生えていた。
淡い灯火の下で、宇良の仕草のひとつひとつが、過剰に整いすぎているように感じた。
ふと、宇良の視線が廊下の奥へと滑った。
奥の広間からは、まだ熱を帯びた声の余韻がかすかに漏れ聞こえてくる。
兵たちの足踏み、鼓動のように重なる声――
隼比古が振るった檄の熱気が、今もなお廊下を揺らしている。
「――戦が、始まるのですね」
宇良はそっと息をつき、声を落とす。
ミナギは揺らいでいた。
父を奪ったのは本当に狗奴国なのか――
戦を避けたいという思いが、言葉にはならずとも微かな呼吸の揺れや肩先の緊張に現れる。
宇良はそんなミナギを、柔らかな微笑の奥に鋭い観察の光を隠して、見つめる。
「ミナギ様は、戦がお嫌いのようでございますね」
その言葉は上品で、微かに挑むような響きを帯びていた。
ミナギは視線を細め、眉間にわずかに皺を寄せる。
「……戦がもたらすものの重さを案じているだけだ」
宇良は微笑を崩さず、上品に手を胸元に添えたまま、静かに告げる。
「その冷静さは、ご立派でございますわ」
柔らかな声音。
ほんのわずかに目を細めて、彼女は続ける。
「しかし──戦の気配はすでに、兵たちを熱く染め上げておりますのよ、ミナギ様」
それは、冷たい現実を突きつけるには十分すぎるほど、はっきりとした響きを持っていた。
廊下の奥からは、相変わらず、兵士たちの熱意の残滓が滲み、鼓舞の声の余韻が微かに揺らめく。
「……心得ている」
ミナギの声は平静を装うが、心中では、戦が不可避である現実が重く絡み合い、胸に圧をかけていた。
宇良は少し首を傾げ、余裕ある微笑を浮かべる。
「誰もが、抗えぬ流れに身を任せねばならぬこともありますわ」
その言葉の余白には意味深な影が潜む。
ミナギはその微かな含みを読み取り、体がわずかに硬くなる。
父の死。
戦の行く末。
そして――宇良の静かな視線。
心の内で、それらが絡み合う。
廊下の淡い灯火の下で、互いの思惑だけが、沈黙の中に静かに浮かび上がっていた。




