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アマガタリ  作者: ひよりの
第一章
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確執




 宮《みや》の中《なか》は、さらに静《しず》かだった。


 足音《あしおと》だけが響《ひび》く。


 最奥《さいおう》の間《ま》へと続《つづ》く道《みち》は、やけに長《なが》く感《かん》じられた。



 やがて、厚《あつ》い布《ぬの》で覆《おお》われた入口《いりぐち》の前《まえ》で足《あし》が止《と》まる。


 香《こう》の匂《にお》いが、かすかに漂《ただよ》っていた。


 死《し》を隠《かく》すための匂《にお》い。


 ミナギは、その意味《いみ》を理解《りかい》していた。



 布《ぬの》を払《はら》う。


 中《なか》は、薄暗《うすぐら》かった。


 灯《ひ》は落《お》とされ、わずかな光《ひかり》だけが揺《ゆ》れている。


 外《そと》の世界《せかい》とは、切《き》り離《はな》された空間《くうかん》。


 床《ゆか》に近《ちか》い位置《いち》に設《しつら》えられた寝台《しんだい》。



 その上《うえ》に――



 顔《かお》が見《み》える距離《きょり》まで来《き》て、ミナギは立《た》ち止《ど》まった。



 ――父《ちち》だった。



 呼吸《こきゅう》はない。


 肌《はだ》は、すでに冷《つめ》たく、色《いろ》を失《うしな》っていた。


 かつての威圧《いあつ》も、熱《ねつ》も、すべてが抜《ぬ》け落《お》ちている。



 ミナギは膝《ひざ》をついた。


 肩《かた》に触《ふ》れる。


 冷《つめ》たい。


 生《せい》の気配《けはい》は、もうない。



 そのまま、力《ちから》を込《こ》め、わずかに遺体《いたい》を、横《よこ》へと転《ころ》がす。


 衣擦《きぬず》れの音《おと》が、静寂《せいじゃく》の中《なか》に響《ひび》いた。



 その瞬間《しゅんかん》、周囲《しゅうい》の空気《くうき》が、わずかに張《は》り詰《つ》めた。


 王《おう》の亡骸《なきがら》に手《て》をかける――それは本来《ほんらい》、許《ゆる》されぬ行為《こうい》だ。


 だが、止《と》める者《もの》はいない。


 脇《わき》に控《ひか》える臣下《しんか》たちは、誰《だれ》もが息《いき》を潜《ひそ》めていた。



 ミナギの動《うご》きには、迷《まよ》いがなかった。


 露《あら》わになる背《せ》。


 すでに鏃《やじり》は抜《ぬ》かれている。


 だが、その痕《あと》は、深《ふか》く残《のこ》っていた。



 肉《にく》を裂《さ》いた跡《あと》。


 広《ひろ》がる黒《くろ》ずみ。


 指先《ゆびさき》で、触《ふ》れる。


 ほんのわずかに――乾《かわ》ききらぬ粘《ねば》り。


 そして、匂《にお》い。


 香《こう》に紛《まぎ》れて、ほとんど消《き》えかけたそれを、ミナギは確《たし》かに拾《ひろ》う。



 ミナギは、指《ゆび》を離《はな》した。


 そしてゆっくりと、遺体《いたい》を元《もと》の姿《すがた》へと戻《もど》した。



「見《み》たか」



 背後《はいご》から声《こえ》が落《お》ちる。


 振《ふ》り向《む》かずとも分《わ》かる声《こえ》だった。



「――狗奴(くな)の矢《や》だ」



 兄《あに》、隼比古《はやひこ》はそう言《い》った。


 その声《こえ》には、悲《かな》しみよりも、どこか昂《たかぶ》りが混《ま》じっている。



 ミナギはゆっくりと腰《こし》を上《あ》げ、静《しず》かに振《ふ》り返《かえ》った。



 そこに立《た》つ男《おとこ》の顔《かお》は、以前《いぜん》と何《なに》も変《か》わらないはずだった。



 だが――決定的《けっていてき》に違《ちが》う。



 座《ざ》すべき場所《ばしょ》を、すでに己《おのれ》のものとした者《もの》の顔《かお》。



「鹿狩《しかが》りの最中《さいちゅう》だ。森《もり》の奥《おく》から射《い》られたらしい」



 隼比古《はやひこ》の言葉《ことば》に、ミナギは視線《しせん》を落《お》とす。


 父《ちち》の傍《かたわ》ら――布《ぬの》の上《うえ》に置《お》かれたそれに。


 まるで三《みっ》つの牙《きば》を持《も》つかのような鏃《やじり》。


 肉《にく》を裂《さ》き、絡《から》み、容易《ようい》には抜《ぬ》けぬ形《かたち》。


 狩《か》りではなく、確実《かくじつ》な殺傷《さっしょう》を目的《もくてき》とした造《つく》り。


 狗奴国《くなこく》が主《おも》に、戦《いくさ》に使用《しよう》する鏃《やじり》だ。



「これで、大義《たいぎ》は立《た》った」



 兄《あに》の声《こえ》が、静寂《せいじゃく》の中《なか》に染《し》み込《こ》む。


 ミナギは顔《かお》を上《あ》げ、隼比古《はやひこ》を見据《みす》えて言《い》った。



「この鏃《やじり》のみで狗奴国《くなこく》の仕業《しわざ》と断《だん》ずるのは――尚早《しょうそう》ではないか?」



「――まさか、恐《おそ》れているのか?」



 隼比古《はやひこ》の顔《かお》に嘲《あざけ》りが滲《にじ》む。



「違《ちが》う」



 ミナギは即座《そくざ》に応《おう》じた。



「無用《むよう》な争《あらそ》いは避《さ》けるべきだと言《い》っている」



「……無用《むよう》だと?」



 隼比古《はやひこ》の瞳《ひとみ》から嘲笑《ちょうしょう》が消《き》え、底冷《そこび》えのする怒号《どごう》へと変《か》わる。

 


「父上《ちちうえ》が殺《ころ》されたのだぞ! 我《わ》が国《くに》の王《おう》が屠《ほふ》られたのだ!」



「それでもだ」



 ミナギは一歩《いっぽ》も退《ひ》かない。



「拙速《せっそく》に動《うご》くべきではない」



 強《つよ》い言葉《ことば》に、隼比古《はやひこ》の眉《まゆ》がわずかに動《うご》く。



「今《いま》、狗奴《くな》に攻《せ》め入《い》れば――」



「好機《こうき》だ!」



 ミナギの懸念《けねん》を叩《たた》き割《わ》るように、隼比古《はやひこ》が声《こえ》を荒《あ》らげた。



「父《ちち》は殺《ころ》された! 仇《かたき》を討《う》つ! 誰《だれ》もが納得《なっとく》する!」



 空気《くうき》が激《はげ》しく波打《なみう》ち、壁際《かべぎわ》に控《ひか》える臣下《しんか》たちの視線《しせん》が怯《おび》えと戸惑《とまど》いに揺《ゆ》れた。


 誰《だれ》もが二人《ふたり》の王子《おうじ》の間《あいだ》に立《た》ち込《こ》める火花《ひばな》に呑《の》まれ、身動《みうご》きが取《と》れずにいる。



「――国《くに》が焼《や》けるぞ」



 ミナギの低《ひく》く、刃《やいば》のように研《と》ぎ澄《す》まされた一言《ひとこと》が落《お》とされた。


 その冷徹《れいてつ》な言葉《ことば》が、隼比古《はやひこ》の逆鱗《げきりん》を容赦《ようしゃ》なく抉《えぐ》った。


 顔《かお》からは余裕《よゆう》が完全《かんぜん》に消《き》え失《う》せ、醜悪《しゅうあく》に歪《ゆが》む。



「――黙《だま》れ」



 一歩《いっぽ》詰《つ》め寄《よ》る隼比古《はやひこ》の眼差《まなざ》しが、殺意《さつい》を孕《はら》んで突《つ》き刺《さ》さる。



「次《つぎ》の王《おう》は、この俺《おれ》だ」



 宮内《きゅうない》の空気《くうき》が凍《こお》る。



「貴様《きさま》など――父上《ちちうえ》が戯《たわむ》れに拾《ひろ》い上《あ》げた、賤女《しずのめ》の落《お》とし子《ご》にすぎぬ」


 隼比古《はやひこ》は吐《は》き捨《す》てるように、侮蔑《ぶべつ》の限《かぎ》りを言葉《ことば》に込《こ》めた。



「知《し》ったような口《くち》をきくな」



 血統《けっとう》を冒涜《ぼうとく》する冷酷《れいこく》な刃《やいば》。



 だが、ミナギは瞬《またた》きひとつしなかった。


 逆上《ぎゃくじょう》もせず、瞳《ひとみ》に怒《いか》りの炎《ほのお》を灯《とも》すこともない。


 ただ底知《そこし》れぬ深淵《しんえん》のような静寂《せいじゃく》を湛《たた》えたまま、兄《あに》の目《め》を真《ま》っ直《す》ぐに見据《みす》え返《かえ》していた。



 そのあまりにも揺《ゆ》るぎない眼差《まなざ》しに、気圧《けお》されたのは隼比古《はやひこ》の方《ほう》だった。


 喉仏《のどぼとけ》がわずかに上下《じょうげ》し、息《いき》を呑《の》む微《かす》かな音《おと》が落《お》ちる。


 隼比古《はやひこ》は苛立《いらだ》ちを誤魔化《ごまか》すように顎《あご》を上《あ》げ、強引《ごういん》に冷徹《れいてつ》な仮面《かめん》を被《かぶ》り直《なお》した。



「――よい」



 短《みじか》く、言《い》い放《はな》つ。



「話《はなし》は終《お》わりだ」



 その声《こえ》には、先《さき》ほどまでの苛立《いらだ》ちはない。



「兵《へい》を集《あつ》めよ」



 振《ふ》り向《む》きもせず命《めい》じる。



「すべての者《もの》を、広間《ひろま》へ」



 翻《ひるがえ》る衣《ころも》の音《おと》を残《のこ》し、隼比古《はやひこ》が帳《とばり》をくぐって去《さ》っていく。



 薄暗《うすぐら》い死《し》の部屋《へや》に残《のこ》されたミナギは、父《ちち》の亡骸《なきがら》の傍《かたわ》らに置《お》かれた三叉《さんさ》の鏃《やじり》を見《み》つめながら、静《しず》かに、深《ふか》く息《いき》を吐《は》き出《だ》した。





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