確執
宮の中は、さらに静かだった。
足音だけが響く。
最奥の間へと続く道は、やけに長く感じられた。
やがて、厚い布で覆われた入口の前で足が止まる。
香の匂いが、かすかに漂っていた。
死を隠すための匂い。
ミナギは、その意味を理解していた。
布を払う。
中は、薄暗かった。
灯は落とされ、わずかな光だけが揺れている。
外の世界とは、切り離された空間。
床に近い位置に設えられた寝台。
その上に――
顔が見える距離まで来て、ミナギは立ち止まった。
――父だった。
呼吸はない。
肌は、すでに冷たく、色を失っていた。
かつての威圧も、熱も、すべてが抜け落ちている。
ミナギは膝をついた。
肩に触れる。
冷たい。
生の気配は、もうない。
そのまま、力を込め、わずかに遺体を、横へと転がす。
衣擦れの音が、静寂の中に響いた。
その瞬間、周囲の空気が、わずかに張り詰めた。
王の亡骸に手をかける――それは本来、許されぬ行為だ。
だが、止める者はいない。
脇に控える臣下たちは、誰もが息を潜めていた。
ミナギの動きには、迷いがなかった。
露わになる背。
すでに鏃は抜かれている。
だが、その痕は、深く残っていた。
肉を裂いた跡。
広がる黒ずみ。
指先で、触れる。
ほんのわずかに――乾ききらぬ粘り。
そして、匂い。
香に紛れて、ほとんど消えかけたそれを、ミナギは確かに拾う。
ミナギは、指を離した。
そしてゆっくりと、遺体を元の姿へと戻した。
「見たか」
背後から声が落ちる。
振り向かずとも分かる声だった。
「――狗奴の矢だ」
兄、隼比古はそう言った。
その声には、悲しみよりも、どこか昂りが混じっている。
ミナギはゆっくりと腰を上げ、静かに振り返った。
そこに立つ男の顔は、以前と何も変わらないはずだった。
だが――決定的に違う。
座すべき場所を、すでに己のものとした者の顔。
「鹿狩りの最中だ。森の奥から射られたらしい」
隼比古の言葉に、ミナギは視線を落とす。
父の傍ら――布の上に置かれたそれに。
まるで三つの牙を持つかのような鏃。
肉を裂き、絡み、容易には抜けぬ形。
狩りではなく、確実な殺傷を目的とした造り。
狗奴国が主に、戦に使用する鏃だ。
「これで、大義は立った」
兄の声が、静寂の中に染み込む。
ミナギは顔を上げ、隼比古を見据えて言った。
「この鏃のみで狗奴国の仕業と断ずるのは――尚早ではないか?」
「――まさか、恐れているのか?」
隼比古の顔に嘲りが滲む。
「違う」
ミナギは即座に応じた。
「無用な争いは避けるべきだと言っている」
「……無用だと?」
隼比古の瞳から嘲笑が消え、底冷えのする怒号へと変わる。
「父上が殺されたのだぞ! 我が国の王が屠られたのだ!」
「それでもだ」
ミナギは一歩も退かない。
「拙速に動くべきではない」
強い言葉に、隼比古の眉がわずかに動く。
「今、狗奴に攻め入れば――」
「好機だ!」
ミナギの懸念を叩き割るように、隼比古が声を荒らげた。
「父は殺された! 仇を討つ! 誰もが納得する!」
空気が激しく波打ち、壁際に控える臣下たちの視線が怯えと戸惑いに揺れた。
誰もが二人の王子の間に立ち込める火花に呑まれ、身動きが取れずにいる。
「――国が焼けるぞ」
ミナギの低く、刃のように研ぎ澄まされた一言が落とされた。
その冷徹な言葉が、隼比古の逆鱗を容赦なく抉った。
顔からは余裕が完全に消え失せ、醜悪に歪む。
「――黙れ」
一歩詰め寄る隼比古の眼差しが、殺意を孕んで突き刺さる。
「次の王は、この俺だ」
宮内の空気が凍る。
「貴様など――父上が戯れに拾い上げた、賤女の落とし子にすぎぬ」
隼比古は吐き捨てるように、侮蔑の限りを言葉に込めた。
「知ったような口をきくな」
血統を冒涜する冷酷な刃。
だが、ミナギは瞬きひとつしなかった。
逆上もせず、瞳に怒りの炎を灯すこともない。
ただ底知れぬ深淵のような静寂を湛えたまま、兄の目を真っ直ぐに見据え返していた。
そのあまりにも揺るぎない眼差しに、気圧されたのは隼比古の方だった。
喉仏がわずかに上下し、息を呑む微かな音が落ちる。
隼比古は苛立ちを誤魔化すように顎を上げ、強引に冷徹な仮面を被り直した。
「――よい」
短く、言い放つ。
「話は終わりだ」
その声には、先ほどまでの苛立ちはない。
「兵を集めよ」
振り向きもせず命じる。
「すべての者を、広間へ」
翻る衣の音を残し、隼比古が帳をくぐって去っていく。
薄暗い死の部屋に残されたミナギは、父の亡骸の傍らに置かれた三叉の鏃を見つめながら、静かに、深く息を吐き出した。




