別離
くるくると、村の上空を大きな鳥が旋回していた。
最初に気づいたのはアサだった。
「――ムスビだ」
アサが呟く頃には、ほとんどの村人たちも空を仰いでいた。
ムスビは、何かを確かめるように何度も円を描き、やがて、ひときわ低く降下すると、迷うことなくミナギの元へと静かに舞い降りた。
ミナギがわずかに腕を傾け、ムスビを受け止める。
誰かが、
「おぉ」
と声を上げた。
ムスビは、キッ、キッ、キッ、と鋭く鳴いた。
何かを警告するような音だった。
その足には、細く巻かれたものがあった。
ミナギの指が、それに触れる。
解く。
広げる。
――その瞬間だった。
空気が、変わった。
ミナギの視線が紙の上で止まり――息が途切れた。
目の奥に揺れる影。
わずかに震える唇。
一瞬、世界から切り離されたかのように、立ち尽くしている。
言葉も動きも、まるで凍りついたかのようだ。
アサは、その様子をじっと見つめていた。
そんな姿のミナギを見るのは初めてだった。
「……どうしたの?」
問いかける声は、思った以上に小さく、頼りなかった。
ミナギはすぐには答えない。
確かめるようにゆっくりと息を吐く。
やがて、ミナギは顔を上げた。
「――国に、戻らなければならない」
ミナギの言葉にアサは一瞬、世界の音が遠のいたかのように感じた。
鳥の声も。
風の音も。
森のざわめきも。
すべてが遠くなり、鼓動だけが耳の奥で高鳴る。
え、と小さな声が、喉に引っかかる。
言葉は出ず、全身の血が冷たく固まってしまったかのようだった。
アサは立ちすくみ、呆然と目の前のミナギを見つめていた。
ミナギは、紙片に何かをサラサラと書き込み、ムスビの足にそっと結いつけた。
ムスビは、静かに羽を広げ、ひと声、キィーッと鳴くと、空へと舞い上がった。
アサはその動きを見守り、村人たちも思わず息を飲む。
風に乗ったムスビは、確かに何かを伝えるために飛び立ったのだと、誰もが感じていた。
ムスビを見送ると、ミナギは、すぐに動き出した。
持ち物をまとめ、必要なものを選び取る手つきに、一切の迷いがない。
その速さは、準備というより、すでに決まっていたことをなぞっているようにも見えた。
「おい、どうしたんだ急に」
「――あの鳥は何だ」
「何が書いてあったんだ」
村人たちの声が次々に飛ぶ。
戸惑いが混じったざわめきが広がる。
だが――
ミナギは答えない。
誰の問いにも振り向かず、ただ黙々と手を動かし続ける。
その横顔は、固く強張っていた。
何かを押し殺すように。
あるいは、すべてを切り離すように。
その沈黙が、かえって場を張り詰めさせる。
アサは、その様子を少し離れた場所から見ていた。
声をかけることもできず、ただ、立ち尽くしている。
胸の奥が、じわじわと冷えていく。
さっきまで、同じ場所にいたはずなのに。
もう――
ミナギの心はどこか遠くへ行ってしまっているような気がした。
「ミナギ」
ざわめきの中で、その一言だけがまっすぐ届く。
ミナギの手が、わずかに止まった。
アサは一歩、踏み出す。
足が重い。
それでも止まれなかった。
ミナギはこちらを振り向かない。
アサは、たまらず手を伸ばす。
その腕を、掴んだ。
「ミナギ」
初めてだった。
――こんな風に、強く触れるのは。
「また――戻ってくる?」
なんとか絞り出した言葉は、ひどく震えていた。
一年――
ミナギがこの村に来てから、それだけの時が流れていた。
最初は、よそ者として警戒されていたはずの男は、いつの間にか、ここにいるのが当たり前になっていた。
だからこそ――
誰も、この突然の別れに追いつけていないようだった。
――また戻ってくる?
アサのその問いに、ようやくこちらを振り向いたミナギは、困ったような、どこか遠くを見るような笑みを浮かべた。
その表情を見た瞬間、アサの胸の奥で、何かが静かに沈んだ。
――ああ。
この人は、戻らない。
言葉を聞くまでもなく、そう分かってしまった。
「――今まで」
震えを押し殺しながら、アサは言う。
「今までありがとう。色々、教えてくれて」
ミナギはわずかに目を細めた。
それから、手を伸ばし――屈んでアサの目線に合わせると、その肩にそっと触れた。
「……お前なら、大丈夫だ」
短く、それだけを告げる。
温もりは、確かにそこにあるのになぜかもう――届かないもののように感じられた。
村の出口まで来ると、ミナギは足を止め、村の者たちに向かって深く頭を下げた。
言葉は添えず、ただ静かに。
――しかし、心からの感謝を示す所作。
そのまま背を向け、振り返ることなく歩き出す。
そして――
ミナギは村を旅立った。




