肆拾漆 危急
「荀彧、敵は!?」
曹操は劉備軍の陣営から馬で西へ駆ける。その方角に敵、そして曹操の陣営がある。
とにかく味方と合流するべく、単騎、曹操は駆けた。
「…………」
「荀彧!」
彼女の背中に抱き着くようにして共に馬に乗っている参謀に対し、曹操は声を強めた。
荀彧はその声にようやく自分が呼ばれたことに気づいたようだ。
「…………申し訳、ありません」
そう深々と謝罪した。その声にわずかに涙が混じっていたが、曹操はそれを無視した。
「謝罪の理由は!?」
「私が、敵の動きを感知できず、このような奇襲を許してしまったことです」
「そうだ。だが起きたことは仕方ない。反省はいいが、今は頭を動かせ。でなければ、死ぬぞ」
「は、はい!」
僅か10歳の子供に酷な要求だと、曹操自身も分かっている。だが大人として扱えと言ったのは彼だ。そこで甘やかすのは、彼に対する冒涜になる。
「状況を」
「は、はい! 歩兵は夏侯惇殿が蒼武から指示を出しております。曹仁殿と夏侯淵殿が合流して指揮を取るようです」
「曹洪は?」
「劉備に敗北後、その場を動いていません。劉備は曹洪殿を守るように迎撃の姿勢を見せています。そしてその劉備の部下たちですが……背後、動きがありました。どうやら全兵力をもって丘を降るようです」
「ふむ。敵の蒼武4機に対し、味方の蒼武は3機。だが曹洪の1機は動かず、か」
とりあえずの状況は把握できた。そして彼女は内心苦笑する。
(劉備のあの動き。やはり龍綬を持つのか、あの少女。ならばあれが守る(曹洪)子廉は問題ない。それが博愛主義ゆえか、それとも私に対する恩を売っているかは分からんがな)
どちらでもいいと思う。少なくとも劉備と諸葛亮と名乗った2人は使える。そして関羽と張飛。その3機の蒼武を支配下に置けば、彼女に敵う敵はこの蒼漢王朝にはいないだろう。袁紹や袁術など目ではない。そうなれば自分が主導して、この国をさらに良くしていく。その未来がありありと見えるようだ。
もちろん、劉備をはじめとする連中がそう簡単に彼女になびくかは、これからのスカウト次第だが。
「敵はおそらく宛県周辺に巣食っていた黄巾党の一部でしょう。なんでも大将軍が率いているとか」
宛県は現在地である豫洲から西へ100キロほど。荊州の北部に位置する場所で、そこから北へ向かえば洛陽、南へ向かえば長江に出、東は当然豫洲、西は漢中へと続く、まさに交通の要所だった。
そこを落とせば援軍を自由自在に向かわせられるということで、官軍と激戦が繰り広げられたと聞く。
(宛の官軍が負けたか。存外不甲斐ない)
とは思うが、実際はどうなっているか分からない。あるいはそちらの戦況で、こちらの戦略も練り直さなければならないだろう。それは続報を待つとして、今大事なのはこの戦場だ。
奇襲を受けて少なからず浮足立つ味方。しかも武器も満足にない状況。その打開策に曹操は頭を動かし続ける。そして1つの答えにたどり着く。
「戦況は問題ない。夏侯惇がうまく兵を動かしている。だが下手に犠牲を増やすこともすべきではない。やはり自分が烈紅に乗るしかない。烈紅ならば敵の量産型など物の数ではないからな」
曹操専用の次世代型蒼武・烈紅。その機動性は従来の3倍で、並みの蒼武では歯が立たない。ただし完全武装した敵の蒼武4機を相手に、重工剣しか装備して来ていない状態で完勝できるかは不明だが。
それでもそれが一番犠牲の少ない戦い方だと彼女の脳内にある優秀な算盤がはじき出した計算結果だった。
だがそこに至るまでが一番の問題だった。
彼女のいる位置は、烈紅のある曹操陣営と劉備陣営の中央付近。まだ距離がある。何より敵が襲ってきたのが西からなので、曹操の陣営は真っ先に攻撃の標的になりうる。搭乗者がいなければ最強蒼武とはいえ、ただのガラクタだ。破壊は容易だし、何より明らかに他の蒼武と一線を画した形状は、最新型と見られて鹵獲される可能性もある。
(私の烈紅を奪う、だと? そんなこと……天地が裂けても許さない!)
彼女の専用にカスタマイズされた烈紅。それをもってこの蒼漢王朝で上り詰めると確信していた彼女にとって、それを奪われるとは半身を引き裂かれるも同然だった。しかもどこの馬の骨とも知らない相手にだ。
それは彼女の誇りにかけて絶対にあってはならないことだ。
だから焦る。焦って馬に通常以上の速度を要求してしまう。
だが事態は彼女の裏目裏目に展開していく。
「姫!」
「っ!」
荀彧の声と同時に気づいていた。前方。黄巾を頭につけた兵が曹操の行く手を遮るように展開している。その数、100を超える。こんなところを走る単騎、しかも曹操はひらひらのマントをつけている。これで目立つなということはありえない。将校以上の身分と見て、狙い撃ちを仕掛けたのであれば敵もただの素人に毛が生えただけの連中ではないということになる。
「……荀彧、お前は戻れ。戻り、関羽に守ってもらえ」
曹操は剣を抜きながら荀彧に言った。天才的な頭脳と技術力を見せるとはいえ、彼はまだ10歳だ。剣を抜いての修羅場など潜り抜けることはできない。いや、そもそも曹操自身も腕に確実な自身があるわけではない。剣技では曹洪に勝てないし、近接格闘では夏侯淵に及ぶべくもない。
大半が元農民とはいえ、100人を相手に切り抜けられるかは微妙なところだった。
「いえ、僕は姫と共にいます。相手は大軍とはいえ騎馬を持たない集団です。突破だけならば可能です」
振り返り、荀彧の顔を見下ろす形で見た。その目に怯えも決死の色もない。ただ万事を彼女に委ねる、いや、彼の頭脳と合わさってこの場を切り抜ける算段をつけている。そんな表情だ。
「ふっ、なら我が軍師の言う通りにしてみようか」
そう、曹操は小さく笑うと、前を向き馬を走らせる。
「では、行く!」
その言葉に返って来たのはギュッと服を握りしめる荀彧の握力だった。
それを返事と受け取り、彼女は馬を走らせる。敵。歩兵の集団に恐れが見える。やはり。確信した。1騎とはいえ、こちらは騎兵だ。轢き殺されに馬の前に出る者はいない。蒼武には格段に劣るが、歩兵にとって騎兵は脅威でしかない。ましてや元農民の烏合の衆となればなおさらだ。止まらなければ。
「ええい、槍で突け! 馬を驚かせろ!」
相手の指揮官らしい男が叫ぶ。それに応じて敵が槍をこちらに向けようとする。
馬は敏感で臆病な生き物だ。その行為におどろき、棹立ちにでもなればそこを相手は容赦なく突いてくる。そして放り出された曹操と荀彧は、今度こそ圧倒的数の暴力によりなます切りにされるだろう。
だからと曹操は馬に安心するよう首を叩き、そして一気に加速した。槍がこちらに狙いをつける前。相手の指揮官の位置は分かっている。そこに向かって一気に近づき、その驚愕に見開かれた男の首を一閃のもと刎ねた。
これで相手の指揮は崩壊する。指揮を失った烏合の衆など、単騎で突破するのはたやすい。
「このまま突破す――」
「姫! 前!」
「なにっ!?」
それは信じられない光景だった。突破しようとした先、敵のいないはずの原野に新しく敵が現れたのだ。ただ数はほんの10を超えるくらいで20はいない。だが質は圧倒的。騎兵だ。曹操が歩兵を突破すると見て、背後に置かれた兵力。突破した瞬間の安堵の刹那を捉えて狙い撃ちしてきたのだ。
完全に曹操が一杯食わされた形になった。そのことに彼女は動揺する。
「まさか! この私が……」
「姫、僕を残して!」
「そんなことできるか! くっ!」
刻一刻と近づく死。さすがに良い馬とはいえ、10以上の馬に包囲されて逃げ切ることなど不可能だ。疲れも溜まっている。
逃れられない死。着実に近づく死。
(こんなところで……私は!)
そう心中で叫んでもどうにもならない。だが彼女も武家の女。たとえ不可能でも1人でも多くを道連れに死ぬ。
それでも敵の数に圧倒される。四方八方から死が襲い掛かり、もはやどこにも逃げ場が亡くなった時。
「きゃああああ!!」
悲鳴。
そして死が彼女を貫く。
その刹那だ。
『姫っ!!』
蒼武の外部音声機からの声。その声に曹操はハッとした。
「夏侯淵!」
左手の丘から夏侯淵の乗る蒼武――烈紅が飛び出してきた。その動きは曹操が乗る時とは違い、緩慢で精彩に欠ける。あの蒼武は曹操用に設計されたもの。いかに百戦錬磨の夏侯淵でも容易には動かせない。だが移動だけはできる。
そして彼女の登場は、圧倒的優位にたっていた敵にとって想定外すぎる出来事だったようだ。何より蒼武に勝てるのは蒼武だけ。その原則からすれば相手に勝機は完全になくなった。悲鳴をあげながら騎兵、そして歩兵が北の方へと逃げていく。それを曹操は追わなかった。いや、追えなかった。
「た、助かった……」
背中越しに荀彧が鞍からずり落ちるのを彼女は感じた。強がっていてもさすがに10歳。体の力が抜けるのも無理もなく、彼女自身も荀彧がいなければ思いきりため息をついたに違いない。
だが曹操はそれを表には出さずに、気力で身を奮い立たせると馬から降りて、なんとか直立を保つ。
『無事、姫』
夏侯淵の抑揚の乏しい声が、近づいてくる蒼武から聞こえた。
そして蒼武は曹操の横まで来ると止まり、跪くとその胸部が開き、そこからひらりと長身の女性が現れた。夏侯淵だ。彼女が曹操に向ける表情には、いつもとあまり変わらない無表情ながらも憂慮と安堵の色が曹操には見て取れた。
それだけで曹操には十分だった。彼女は現れた夏侯淵に向かって走り、そして飛び込んで抱き着いた。
「助かった、さすがだな」
「ふ、ふひゃへほ!?」
それは曹操なりの感謝の表し方だったのだろう。命を救ったこと、そして彼女が今一番欲しているものを運んできたこと。それに対する感謝だ。
だが曹操に抱き着かれて顔をゆでだこのように真っ赤にした夏侯淵は、普段の彼女とはかけ離れた奇声をあげ、恍惚とした表情で弛緩しきっていた。彼女のためになる。それが全ての夏侯淵にとって、この感謝はご褒美以上の天に昇るものだった。
「さっきの悲鳴、誰かに言ったら……お仕置きだ」
「ひっ、りょ、了!」
「ん、良い子だ」
「ひゃぁ」
曹操は夏侯淵の頬に小さく口づけすると、パッと離れる。その瞬間に夏侯淵の表情が物惜しそうな表情に変わるのを荀彧は見た。
「夏侯淵、荀彧を頼む! 惇らと合流し、敵を撃滅しろ!」
「りょ、りょ、りょ、了解!」
曹操に命じられ、即座にいつもの冷静な彼女の表情に戻った。が、その口の端がぴくぴくとつり上がりそうになるのを、隣の荀彧は見て取っていた。
この夏侯淵という女性。戦場でもどこでも強者の象徴として荀彧の目には映っていた。だが最近思う。この娘(年上だが)、実はポンコツなのではないか、と。
一報、曹操は烈紅に乗り込むと、高速で烈紅に異常がないかを確かめる。何も異常はない。夏侯淵が敵に何かされる前に引っ張り出したのだろう。気が利きすぎる、だがそれがいい。
その満足の想いを吐き出すように、曹操は操縦桿を握り告げる。
「では、曹孟徳が出る!」




