第参拾伍話 妙才
夏侯惇と夏侯淵、そして曹洪は劉備たちのいる丘の反対側にいた。
蒼武搭載の望遠鏡を最大倍率にして、ようやく曹操らの姿が見えるだけで顔はぼやける程度までしか映らない。
何の目的のために曹操が劉備の元へ行ったかは分からない。だが分からなくてもいい、と夏侯惇は思った。
曹操は彼らの知る常識の外で生きている。何をするにしても、後から考えて「そういうことだったのか」と納得することがある。彼にとっては年下の従兄妹だが、自分などよりはるかに頭脳明晰で行動力のある曹操のことはもはや尊敬すべき主として敬っている。
彼女の頭脳と行動力ならば、この血と汚辱でまみれた世界に一筋の光明を与えてくれる。そう信じたからこそ、彼は曹操に従った。それは夏侯淵や曹仁、曹洪らも同じだろう。
そしてそれは、こうして官軍の中でもめきめきと頭角を現すのを見て間違いないことだと確信している。
だがそれに伴い、彼の悩みも出てくる。
ずばずばと物事を解決していく彼女は確かに有能だ。だがその有能さは、事なかれ主義と汚職によどんだ空気をまとう蒼漢王朝にとって異端だ。異端ということは、それを除く勢力があるということ。
だがそれを知ってか知らずか、おそらく前者だろうが、曹操は自らの信じる道を行く。他の者の傘の下には決して入ろうとしない。だからこそ彼女を排斥しようという勢力から狙われるのは時間の問題だ。
その時に彼女の盾になる。そう夏侯惇とその親族3人は誓った。
そう、誓ったのだ。曹操より先に死ぬ、と。
それは彼の、4人の共通の想い。だがその誓いは早計だったのではないかと最近彼は思うのだ。
曹洪、曹仁はまだいい。曹操と同年代でまだがむしゃらに世の中を泳ぎ渡ろうとする気力は貴重なものだ。夏侯惇本人も、曹操らとは2つしか離れていないが、それなりに世間は知ってるつもりだ。蒼漢王朝創成の英雄の1人である夏侯嬰、その末裔として恥ずかしくないよう父親にはしっかりと礼儀作法に政界や実力者との付き合い方を叩き込まれた。
問題は彼の妹、夏侯淵のことだった。
問題といっても彼女が何かしでかしたわけではない。彼女は夏侯惇の1つ下の妹で、夏侯家の長女として何不自由なく、だがしっかりと厳しく育てられて人格に問題もない。寡黙で人付き合いもほとんどなく、戦場では1キロ先の狙いも外さないという驚異的な狙撃術の腕を持ち、何より他の誰よりも身長のある夏侯惇とわずか数センチしか違わない体躯の持ち主から、相手が委縮して婿の貰い手がいないという頭痛の種があるがそれもいずれは何とかなると思っている。
問題は……彼女の嗜好だった。
性癖と言っても良い。
彼女は曹操が好きだった。
いや、愛していた。
従兄妹の曹操のことが大好きで大好きで、傍を離れたがらずに、1日会わないだけで7日も断食したかのようにやつれたように見える。ただそうはいってもそれを表に出したり、声にして思いを伝えたことはない。
だからそれは兄の夏侯惇以外には、曹仁も曹洪も荀彧も、そして当の本人の曹操さえも知らないことだ。
当然、彼も妹からそれを聞かされたわけではなく、ずっと共にいる妹のわずかな反応でそれを感知しただけにすぎず、決定的な証拠もないままに、ある事件によってそれを確信したにすぎないのだが。
それは7年前。皆とはよく外で遊んだ。都の洛陽じゃない。彼らの生家である沛国ショウ県でのことだ。
ある時に、町で酔っ払いに絡まれた。
『てめぇ、このクソガキが! てめぇらが騒ぐから酒がこぼれちまったじゃねぇか! 親呼んで来い。弁償させてやる!』
それは言いがかりに過ぎなかったのだろう。昼間から酒を飲む、さして着ているものもぼろぼろで、ただのゴロツキのようなものだった。
絡まれたのは、当時は気弱だった曹洪。一番年下の彼が絡みやすそうだと男たちが思ったのだろう。
『その意見には5点反論すべきことがある。1つ、我らが落としたという証拠はない。1つ、曹洪から距離があったのに酒がこぼれたとはいかに! 1つ、仮に曹洪がぶつかったのであれば、曹洪の体にもかかるべきだろう。だがそんな跡はなく匂いもしない。1つ、見ない顔だがどこから来た。お前らのようなよそ者が天下の往来で絡むとは、恥を知れ。1つ、それでもなお我らに因縁を含むのであれば、よかろう。この曹孟徳が天下の裁定を下してやろう! 以上だ!』
そう、とうとうと反論をしたのは、当時まだ10にならない曹操だった。
それは確かに的を射ていた内容だったが、ゴロツキにとってはそれが正しいかどうかは問題ではなかった。ただ仕立てのよい着物を来た子供たちに絡み、あわよくば親から金を脅し取れればラッキー程度に思ったのだろう。
そんな軽い気持ちが、こうも子供に(反論が正しいかは別として)言い返され、周囲から失笑を買ったのだ。それほどの知恵があるような連中ではなく、おそらく字も書けないのだろう。曹操はそれを見越して一気にまくしたてたのだ。
だがそれは彼女にしては失策だった。
いつも周囲を言いくるめていた彼女が、初めて言葉の通じない相手と知った事件。問答無用で拳を出してきた男に、曹操は回避する素振りすらなかった。
結局、即座に動いた夏侯惇が拳を受ける羽目になり、騒ぎを聞きつけて駆け付けてきた警邏に気づいたゴロツキは逃げるようにして去っていった。
殴られてしりもちをついた夏侯惇に、曹操は申し訳なさそうに近づいて彼を助け起こし、
『すまん、惇。あのような奴らだということ、見誤った』
『これくらい問題ない。それより無事か?』
『ふっ、男らしいな、惇。私が女だったら惚れているぞ?』
『ば、馬鹿野郎』
曹操は夏侯惇を彼女の家に連れて行き、そこで手当てを受けて改めて謝罪した。曹洪と曹仁は何をどうすればいいのか、終始おろおろしていたし、夏侯淵に至っては、
『姫……許さず』
何やらずっとぶつぶつと言っている始末。
こいつも思うところがあるんだろう。その時はそれくらいにしか夏侯惇は思っていなかった。
だが事件はそれで終わらなかった。
翌日のことだ。
県の省庁の前のクヌギの木に、2人の男がぶらさがっていた。当然、前日に曹操らに絡んだあのゴロツキ2人だ。
彼らはボコボコに殴られ、腫らした顔で息も絶え絶えになってミノムシのように吊るされていたのだ。当然、彼らには役人の追及が行われたが、何が起きたか、彼らは一切口を割らなかった。ただ恐ろしいものでも見たかのように、終始怯えていたと噂された。
そんな光景を見て曹操はつぶやいた。
『天罰という奴かな』
『当然。姫に仇なす。天誅』
そう真っ先に相槌を打ったのは、驚いたことに夏侯淵だった。
普段なら無言でうなずくなり、何も言わずにいるはずだがこの時は明確に意思を示した。それが夏侯惇には気になった。
だが後から考えれば、その前日。家に帰ってから夏侯淵はずっと部屋に閉じこもり、夜にも姿を見せなかった。そして真夜中に夢うつつの夏侯惇が、隣部屋に入る誰かの音を聞いた。
それが、夏侯淵が外に出て帰ってきた音だと思わないでもなかった。そしてその時に彼女が何をしていたのか。天誅という言葉と合わせて考えると…………。
そこで彼は思考を止める。
17年。共に過ごしてきた兄妹だが、どうにも理解できないものがある。そしてそれを開くのは、自分の役目ではない。そう信じて今日まで生きてきた。
ただ少し彼は後悔していた。
曹操とつるむにあたって、後悔など万里の彼方へ放り投げてきた彼だが、妹のことばかりは失敗したと後悔している。あるいはあの時に聞いていれば、彼女の思いを汲み取ってやれば、今こうして悩むこともなかったのに。
「あー、淵。ちょっといいか?」
次の試合の準備をしている兵たちを眺める夏侯淵に話しかける。次の試合は夏侯淵が出る。近接格闘によるタイマン勝負。それに意気込みを見せるかのように、夏侯淵は彼方を見つめながら仁王立ちしている。
気合十分、闘志満タンと普通なら見るだろう。
だが彼には分かっていた。妹のこの姿は、そんな可愛げのあるものではないと。
彼女は間違いなく怒っている。
何が、というのはあまり聞きたくないがある程度は見当がついている。先ほど、曹操に試合後の挨拶にいった曹仁から経緯は聞いている。その内容を聞いて“ますます”彼女の機嫌が悪くなったのだ。
『姫はどうもあの諸葛亮ってのより、関羽って髭に興味を持ったらしいな』
という曹仁の言葉によってだ。
(マズいな、これは……)
何がマズいか。それは彼が一番よく知っている。そしてそれが起こった時、この後に発生する事件が曹操の覇道を妨げることになる。それは御免だった。
これまで曹操に人生を捧げ、そしてこれからも捧げる彼にとって。妹の扱いは戦力上にも重要で、それと同時に曹操に対する思いも重要だったのだ。
「えっと、淵? 話は聞いてくれるってことだな」
「…………」
反応がない。つまりそのまま話しても大丈夫ということだ。そう夏侯惇は見た。
「よし、分かった。とりあえず落ち着いてきいてくれ。姫のことだが――」
「あの髭、殺す」
「おーい。一応、味方だってこと分かってるよな……?」
「味方? 姫に触られて?」
「え? それさっきの曹仁の報告になかったよな。ってことはお前、見えたの? ここからあそこの状況?」
「…………」
「ダメだこりゃ。孟徳よ、俺は一応止めたからなー」
夏侯惇は肩を落とす。
曹操という偶像をこれ以上ないほどに敬愛する彼女にとって、彼女に気に入られた男というのは異物以外の何ものでもない。あの曹操を殴り飛ばそうとした男たちと同じ。敵。殲滅すべき対象でしかない。
そんな彼女が、姫の寵愛を得ようとしている関羽という相手と、これから近接戦闘での戦いを強いられることになる。
夏侯淵の一番の得意分野は弓および光銃だ。その腕前を超える人間を彼は見たことがない。
だが。
だがそれ以上とは言わないが、次いで得意とすることが彼女にはある。
それこそが近接戦闘での組手。
肉体言語こそは彼女の得意とする凶器だった。
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