第拾捌話 狂奔
「おい、お前」
そう声をかけられるまで、鈴はその場を微動だにできなかった。それほどまでに、目の前で起きている光景がショッキングで、思考も視覚も全て夕暮れに染まる空へと吸い込まれてしまっていた。
呼ばれて振り返ったのは、特に何も考えたことではない。条件反射的に呼ばれたから振り返ったというだけ。当然、呼びかけが鈴に対してだったのかは、はっきりとしない。
それでも鈴は今、会話に飢えていた。この状況を共有できる相手が欲しい。そう感じたのは確かなことだった。
だが鈴は振り向いて後悔した。
「ひゅう、こいつぁめんこいぜ」
「おお、爺と婆しかいねーと思ったら、ちゃんとした上玉もいるじゃねぇか! けけけ」
そこにいたのは3人の見知らぬ男たち。顔を見たことがない。当然だ。目を怒らせて口をあんぐり開けた、知性の欠片もないような男は、村の周辺で見たこともない。
何よりこの男たちの姿はちぐはぐだった。上裸の1人を除けば、上着はボロボロで黒ずんだ色に変色している布製にもかかわらず、ズボン型の下は新品のようにまっさらで絹で織られたのでは、と思うほどに綺麗。さらに足元は草鞋や裸足ではなく、きっちりとした革製の靴だった。
どうしてこんなちぐはぐなのか、鈴は不思議に思う。
だが、この男たちが商人を襲い奪ったい服で、上着は相手の血がついて廃棄せざるを得なかったという理由は、世間の知識が少ない鈴にとっては知らないこと。
だが彼女にも1つだけ分かることがある。
鈴の視線は男たちの頭部に向いた。禿頭や、ぼさぼさの髪が覗いているが、揃って黄色のバンダナをしていた。それが表す身分は1つしかこの時代にはない。
(黄巾の……)
現在世間を騒がせている集団、黄巾党。教祖・張角の下、蒼漢王朝打倒を標榜して蜂起した彼らは、主に中原――すなわち洛陽近辺や曹操が戦っているエン州や豫洲などに多い。
鈴たちのいる楼桑里はそこから北の果て。黄巾の影もないと思われがちだが違う。
そもそも教祖である張角が本拠にしているのは、洛陽から黄河を渡ったところにある冀州だ。冀州はここ楼桑里からほど近いため、黄巾の賊が来るのではという噂は常にあった。
それが今、こうして鈴の村を襲っている。
今朝まで平和で明日の祭りを楽しみにしていた人たちが、こうして無残にも殺されて明日の朝日を拝むことは二度となくなる。そんな理不尽なことがあっていいのか。
それが鈴の中にふつふつと沸く思いだった。
同時、沸き上がる思いは心配の念だ。
兄の均はたぶん大丈夫。あれで目端は効くから、鈴と違って危ないことはしないだろう。それよりなにより、もう1人の兄・諸葛亮と彼女が慕う人物、劉備の安全だ。
まさか2人も黄巾の毒牙にかかってしまったのか。そう思うと居ても立っても居られない。
「ごめん、どいて!」
その一言だけで男たちの脇を抜け走り出そうとする。だがそれを機敏に感知した男が鈴を通せんぼする。
「おっと、いかせねぇよ」
「邪魔しないでよ!」
「あぁ? 舐めてんのか、てめぇ」
「けけっ、アニキ! こいつ、もうヤっちゃっていいっすよね!」
「そうだそうだ! こんな上玉、放っておくのはもったいねぇ。他の奴らにヤられる前に、俺たちでいただいちゃいましょうぜ!」
「ん……ま、そうだな。ちょっち田舎くせーが、てめぇらにはお似合いだ。だが趙の親分にバレねぇようにしろよ?」
「さっすが、アニキ。分かってるぅ!」
「ま、そこは問題ないでしょ。俺ら3人で楽しんだら、後は切り刻む。それでお終いっすよ」
「そうだな。くく、俺は別に死んでからヤるでもいいんだぜ」
「おお、アニキ。すげぇぜ」
「あー、もう俺。黄巾に入ってよかったぁ!!」
鈴は男たちの会話を耳では聞いているが、脳では理解しきれなかった。
(この男たちは何を言ってるの。やるとか切り刻むとか。一体誰を、何を、どうするつもりで……)
それよりも、と鈴は思う。
(この男たちはおばさんたちを殺した。こいつらが……黄巾が! 黄巾は、嫌な奴だ!)
その思いは口から出ないものの、理不尽で不合理で不条理な人生の終焉を見た鈴には、もはやそれだけが真理だった。そしてそれを隠すにはまだ鈴は幼い。
「おい、なんだてめぇ。その目つき」
鈴の怒りが外に漏れたのか。アニキと呼ばれた男がその視線、そして殺気に気づく。そこらのゴロツキでしかない男たちだが、そういう世界でこれまで生きてこれたのは、それなりの危険への嗅覚と上にへりくだり下に高圧的になる、処世術を学んでいたからだ。
今、この場でどういう態度が求められるか。それを心得ている。
「てめ、アニキにガンつけてんのかよ」
「あー、可哀そう。いや、おめでとうってことかな。俺らが天国へ連れてってやるよ。気持ち良すぎて昇天しやが――れぇ!?」
男の1人が前かがみになって、そのまま悶えたように地面に転がる。
鈴の長い足が、男の急所を思い切り蹴り上げたからだ。
「え?」
さらに鈴は動く。もう1人の男に、跳躍しながら鞭のようにしなる足を思いきり叩きつける。右の上段回し蹴りをもろに頭部にくらった男は、眼を回してその場に倒れ込む。
別段、鈴は格闘技を習ってきたわけじゃない。それでも毎日の走り込み、生まれもっての長い手足、そして黄巾に対する激しい怒りが一瞬で彼女を戦士へと変貌させた。
「このガキ!!」
残ったアニキが腰に差していた長刀を抜こうとする。
だがそれより鈴の動きの方が早い。それは咄嗟の反応。アニキとの距離を一瞬で詰めると、思いきり右足で相手の左足のふくらはぎを捉える。完全に剣――上体に意識が行っていたアニキは、虚を突かれた一発でわずかにバランスを崩す。左足が一瞬痺れ、膝が落ちた。
その膝に鈴は右足を思い切り踏み抜いた。そしてその反作用で一気に飛び上がる。
「あぁぁぁぁぁぁぁ!!」
放たれる獣の咆哮。蹴り上げた右足。逆の左、その膝がアニキの顎に当たって吹き飛ばした。
狙ったわけじゃない。ただ邪魔者を排除して2人の元へと駆けだしたい鈴の本能に、体が勝手に動いた結果でしかない。それでもその決死の本能の解放が、3対1という絶望的な状況を一気にひっくり返し、無事に窮地を逃れることにつながった。
(劉兄ちゃん……! 亮兄ちゃん!!)
心で念じる。2人の兄。それが無事でありますように。
ただそれだけを胸に、鈴は走る。いつもの朝のコースを。
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