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<全50ep> 鳳凰寺凛の生霊事件簿 ~視えるのは、世界で無職(おれ)一人~  作者: 第三ひよこ丸
第1部 【不吉な同居人】

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第09話 鳳凰寺流、絶望の赤ペン指導

 遮光ピルケースという、一族の罪を暴くための唯一の証拠を確保し、命からがらアパートへ帰り着いた俺を待っていたのは、安らぎではなくさらなる精神的蹂躙だった。

 

 一族の闇を暴く手伝いには軍資金がいる。そして金を得るには、まずは社会的な身分を取り戻すための職が必要だった。

 俺が埃っぽい机に向かい、近所のコンビニで買ったごく一般的な履歴書を広げると、背後から凍てつくような風が吹き抜け、値踏みするような視線がうなじに突き刺さる。


《タクミ、このペラペラの紙切れは何かしら? 鳳凰寺家の人間が目にする書類にしては、あまりにも紙質が下劣で反吐が出ますわね》


 凛は空中で優雅に足を組み、扇子の端で俺のデスクをツンと突いた。

 実体がないはずの彼女の動作に合わせて、机の上の消しゴムのカスが、怯えるように微かに震え、床へと滑り落ちる。

 その視線は、紙の繊維の粗さからインクの安っぽさに至るまで、すべてを価値なき塵と断じる傲慢さを孕んでいた。


《まさか、これで誰かに頭を下げに行くつもりではありませんわよね? 鳳凰寺の名を汚すにも程がありますわ。貴方はわたくしの足代わりなのですから、もっと……そう、金糸を織り込んだ和紙に認めるとか、最低限の礼儀があるでしょうに》


 俺は彼女の世間知らずな妄言を完全に無視して、百円のボールペンのノックを何度も繰り返した。

 カチカチという乾いたプラスチックの音が、狭い六畳間に空虚に響き渡る。

 指先に伝わる安っぽい振動が、今の俺のどん底の境遇を象徴しているようで、奥歯を強く噛み締めた。


「……履歴書や。これがないと、俺はこの社会で透明人間以下の存在なんや。静かにしとけ、今から人生の再起を懸けた志望動機を捻り出すんやからな」

 

 俺は震える指先でペンを握り、氏名や住所を淡々と、だが魂を削るような思いで書き込んでいく。

 特技の欄に、SEとして深夜までコードを叩き込み、指に覚えこませた唯一の技術である『ブラインドタッチ』という文字を刻んだその瞬間――。

 机の端に転がっていた安物の赤ペンが、意思を持った生き物のようにカタカタと激しく震え出した。


「なっ……何や、ポルターガイストか!?」


 俺が驚愕に目を見開く間もなく、赤ペンは重力を無視して宙へと跳ね上がり、俺の履歴書の上で鋭く舞った。

 透明な指揮者が振るタクトのように、ペン先は迷いのない動きで『ブラインドタッチ』の文字を、真っ赤な太い二重線で無残に抹消していく。


《オーッホッホッホ! 驚くには当たりませんわ。貴方が無様な顔を晒して、豚のように惰眠を貪っている間に、わたくしがどれほど研鑽を積んだと思っておりますの?》


 凛は扇子を広げ、勝ち誇ったように喉を鳴らした。

 その瞳は達成感に満ち溢れ、まるで手に入れたばかりの玩具を自慢する子供のような無邪気さと、他者を圧倒する支配欲が混ざり合っている。


《想いの力で物に干渉するなど、鳳凰寺の娘たるわたくしにかかれば造作もないことですわ。この赤ペン一本を操れぬようで、どうしてあの一族の腐りきった連中を統べることができまして? 感謝なさい、わたくし直々の添削を受けられる幸運を!》


 彼女の指先が優雅に宙を踊ると、赤ペンが激しく空を切り、余白に禍々しいほどの筆致で文字を書き殴り始めた。

 その文字は、名家の令嬢らしい流麗な書体でありながら、内容はあまりにも物騒なものだった。


《ましてや、暴力に訴えるような野蛮な特技を誇示するなど、わたくしの身体を取り戻す協力者として恥を知りなさいまし。一族の者に知られたら、それだけで貴方の首は飛びますわよ》


 赤ペンが吸い付くように動き、俺の履歴書には『暗闇での隠密行動および一撃必殺の暗殺術』という、鮮血のような赤色の文字が躍った。


「おい、ふざけんな! やめろ! 何の話や、ブラインドタッチやぞ! 元SEの俺が、地獄みたいな納期の中で磨き上げた唯一の生存戦略や! これが虚偽なわけあるか!」


 俺が顔を真っ赤にして反論すると、凛は心底呆れたという風に溜息をつき、赤ペンを指揮棒のように俺の鼻先へ突きつけた。


《何を仰いますの。文字通りに読み取れば明白でしょう? ブラインド(盲目)タッチ(接触)……。つまり、視界を封じられた状態での近接格闘技、あるいは闇夜に紛れて標的に触れるだけで命を奪う、暗殺術の類ですの? 貴方のいた『えすいー』という組織は、よほど物騒な暗殺者集団だったのですわね》


 俺は天を仰いだ。泣きそうになってくる。

 思考が完全に停止し、脳内が真っ白なノイズで埋め尽くされていく。

 SEという職業を、彼女は一体どのような闇の家業と勘違いしているのだ。


「……ええか、よう聞けよ。SEっちゅうのは暗殺者やない。目隠しして敵を薙ぎ倒す武術でもない。画面見んとキーボード叩く、効率化のための事務スキルや。暗殺どころか、ただカチャカチャ音立てるだけの、これ以上ないくらい地味で報われへん作業なんや!」


 俺がノートパソコンの蓋を跳ね上げ、実際にキーを叩いてみせると、凛は一瞬だけ丸くした瞳を扇子で隠し、気まずそうに視線を泳がせた。


《……あら。……そう。……ま、まあ、わたくしも、貴方のような下民がそのような高等な暗殺技術を持っているはずがないと、あえて試して差し上げただけですわ。ええ、当然分かっておりましたわよ。オーッホッホッホ!》


 高笑いの衝撃で、安物の電球がチカチカと不規則な点滅を繰り返す。

 彼女は赤面を誤魔化すように、ふわりと俺の肩越しに移動し、再び履歴書の『職歴』の欄に目を落とした。

 宙を舞う赤ペンが、俺がマナー通りに書き込んだ『一身上の都合により退職』という、再起を期した実直な文字列を乱暴に塗りつぶし、その横に流麗かつ傲慢な筆跡を刻んでいく。


《だとしても、この経歴の貧相さはどうにかしなさい。鳳凰寺一族の闇に挑み、わたくしの身体を取り戻そうとする男が、このような受動的で弱々しい文言を並べていては格が落ちますわ。せめて『資産管理のコンサルティング準備中』とでも書きなさい。それが、わたくしの側にいる者の最低限の矜持というものですわ》


 俺は机の引き出しから、救いを求めるように修正液を取り出した。

 容器を振るうたびに、中の小さな球がぶつかり合い、カチカチという苛立たしいリズムを刻む。

 だが、俺が修正液のペン先を紙に当てようとするより早く、宙の赤ペンが俺の指先をピシャリと叩いた。


「いっ……! 痛ぁっ! 何すんねん! 物理攻撃かい! 幽霊のくせに力加減を知れ!」

 

《幽霊ではございませんわ! 生霊ですのよ! まったく、もう忘れたのかしら?》


「どっちも同じようなもんやろ! それより、そんなこと書いたら、書類選考の時点で精神科に回されるやろが! 俺は普通に、真っ当に就職したいんや、どこぞの投資詐欺師になりたいわけやない!」

 

《あら、嘘ではありませんわ。わたくしが目覚め、身体を取り戻せば、鳳凰寺の膨大な資産はわたくしの意のままに動かせますもの。貴方はその管理を任される予定の、いわば未来の重臣。虚飾ではなく、先行投資としての事実ですわ》


 凛は悪びれた様子もなく、むしろ名案だと言わんばかりに胸を張る。

 その瞳には、一族の闇に潜む犯人への激しい嫌悪と怒りと同じだけの自分の言葉こそが世界の法であるという揺るぎない確信が宿っている。

 さらに、彼女の意思を受けた赤ペンは止まらない。趣味の『読書』という、せめてもの誠実さを見せた項目を囲むように、真っ赤な丸が執拗に描かれていく。


《趣味の欄も修正が必要ですわね。読書などと漠然とした表現ではなく、もっと具体的に『帝王学の研究』と書き足しなさいな。世の理を知らぬ者に、わたくしの盾は務まりませんわ。今の貴方には、人の上に立つ者の振る舞いが決定的に欠けておりますのよ》


 修正液の鼻を突く独特の匂いが、狭い部屋の空気を淀ませていく。

 俺は、彼女が操る赤ペンによるオカルト的介入と、自分が書いた真っ当な履歴の間で、激しく板挟みになっていた。

 一文字書くごとに赤が入る。一歩進もうとするたびに、彼女の浮世離れした美学によって足払いを食らう。


(……俺が書いてんのは、日本中の就活生が書いとる、どこにでもある普通の履歴書や。そやのに、なんでこのお嬢様がポルターガイストなんぞしてまで口出ししてくると、怪しげな暗殺集団の残党か、あるいは国際的な詐欺師の自伝みたいになっていくんや?)


 

 窓の外、港町の夜が静かに更けていく。

 今、俺は実体のない幽霊と、意思を持って暴れる赤ペンを相手に、実体のない資産家の矜持について終わりのない議論を戦わせている。

 この不毛なやり取りこそが、今の俺の人生そのもののように思えてきて、めまいがした。


(こんな書類、送れるわけないやろ。別に普通の履歴書のはずやのに、あいつの『物理的添削』が入るたびに、内定どころか警察への通報案件に近づいていっとる気がする。これがあいつの言う『矜持』の結果やいうんなら、俺は一生無職でおったほうが安全なんちゃうか……?)


 凛の目的は一つ。生霊という状態を脱し、身体を取り戻すこと。

 そのために俺を利用しようとしているのは分かるが、このままでは身体を取り戻す前に、俺の社会的命が尽きてしまう。


「もうええ、寝る……。これ以上起きとったら、俺自身が自分の経歴をファンタジー小説の英雄譚か何かに書き換えてまいそうや」


 俺は、重い体を引きずるようにして、万年床へと倒れ込んだ。

 布団からは、長い間干していない湿気た埃の匂いがしたが、今の俺にはそれすらも、この狂ったオカルト体験から引き戻してくれる唯一の現実的な安らぎに感じられた。


(明日、あいつが勝手に封筒の中へ変な果たし状とか、一族への宣戦布告メモでも入れへんことを祈るだけや。マジで勘弁してくれよ……)


 万が一にも、あらぬ誤解で俺の『暗殺術』や『帝王学』が企業の採用担当者の目に触れたら……。

 その時は、迷わずこのボロアパートの屋上から飛び降りてやる。

 俺は机の電気を乱暴に消した。

 暗闇の中でも、宙に浮いたままの赤ペンと、凛の瞳だけが、獲物を狙う鷹のように爛々と輝き、俺の眠りを妨げようとしていた。

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