第10話 泥を啜りて、旧知を売る
遮光ピルケースの隅、プラスチックの微細な継ぎ目に食い込むようにしてこびりついた、爪の先ほどの小さな欠片。
太陽の直射日光を浴びたその瞬間、それは真珠のような深い光沢を放ち、見る角度によって妖艶な紫から深い黒へと、生き物のように表情を変える。明らかに市販の軽自動車や量産型の車両には使われない、特注の、そして気が遠くなるほど高価な塗料の破片だ。
凛という傲慢極まりない生霊をこの世に繋ぎ止め、俺の平穏だった人生を粉々に砕いた元凶へ肉薄するための唯一の、そしてあまりに細い蜘蛛の糸だ。この糸を掴み、真実という名の岸辺まで手繰り寄せるための術が、今の俺には決定的に、絶望的なまでに欠けていた。
「塗料片の分析なんて、個人が自宅の机でどうこうできるもんやないぞ。科捜研のデータベースにアクセスできる特権があるわけやない。民間の鑑定機関に正面から持ち込んだら、今の俺の全財産をはたいたところで、分析装置のメイン電源入れるための基本料金にすら届かへんやろな」
俺は机に置かれた小さな箱を、呪いの道具でも見るような忌々しい目で見つめ、肺の底にあるすべての空気を吐き出すような重苦しい溜息を漏らした。指先一つで論理の迷宮を構築し、巨大なシステムを支配下に置いていたSE時代なら、情報の海に潜り込んで何らかの裏口を見つけ出せたかもしれない。今の俺は履歴書一枚すら幽霊の気まぐれな横槍でまともに書かせてもらえない、社会の巨大な歯車から弾き飛ばされた、名もなき産業廃棄物に過ぎないのだ。
(これだけの証拠がありながら、指をくわえて眺めとることしかできへんのか。俺の指先は、もうコード叩くためやのうて、ゴミ漁るためにあるっちゅうんか)
《タクミ、何をそんなに無様な顔で悩んでいますの? 鳳凰寺の娘を撥ねた不届き者の正体など、その欠片に直接命令して、白状させれば済む話ではないかしら。貴方の悩みは、いつも矮小で退屈ですわね》
凛は重力を無視して空中で優雅に足を組み直し、俺の直面している絶望を、最高級の劇場の特等席で眺める三流の喜劇のように楽しんでいる。彼女にとって、物理的な鑑定や科学的な根拠などという概念は、自身の意志一つで捻じ曲げ、書き換えられる、取るに足らない瑣末な事柄に過ぎないのだろう。
(こいつには分からへんのやろな。理屈で塗り固められたこの世界の厳しさが。祈りや命令やったら、なんも抽出できへんいう事実が)
「命令して分かるんやったら、とっくに犯人の喉元に食らいついとるわ。これは科学なんや。塗料の化学組成、層の構成、溶剤の残留成分。それらを精密機械で数値化して、メーカーの秘匿データと照合して、初めて車種や製造年、さらには修理歴へ辿り着けるんや。この欠片に残された情報を無駄にするわけにはいかへん」
俺の脳裏には、ある一人の男の顔が焼き付いていた。佐藤。SE時代の同期であり、あの暗黒のデスマーチを泥水を啜り合うようにして潜り抜けた、数少ない友という呼称を許したはずの男だ。
あの日、プロジェクトが破綻し、積もり積もった全責任を俺一人が背負わされ、会社を追われる際、彼は何も言わずにディスプレイに向かい続け、俺と一度も視線を合わせることすらしなかった。
なぜ、あいつは沈黙を貫いたのか。保身のためか、それとも俺という人間に心底失望したからか。真相を確かめる術は、今の俺にはない。ただ、あの日あいつが俺に向けなかった視線の重みが、今も棘のように胸の奥底に刺さり、時折思い出したように疼くのだ。
風の噂では、あいつはその後すぐに会社を辞め、畑違いの化学メーカーへと潜り込んだと聞いている。統計解析に異常な執着を見せていたあいつのことだ、たとえ環境が変わろうとも、何かしら情報の核心に触れる場所に食らいついているに違いない。今の俺には、その根拠のない直感だけが唯一の希望だった。
(あいつのおる場所やったら、俺が喉から手ぇ出るほど欲しい分析装置があるはずや。せやけど、あの日俺を切り捨てたあいつに、どんな面下げて頼めばええんや。俺を疫病神やと蔑んどるかもしれへん男に、俺は魂まで売るんか?)
俺の胸の奥底に、腐りかけたどろどろの泥のような感情が広がっていく。黙殺されたことへの疑念か、あるいは落ちぶれ果てた姿を晒すことへの羞恥か。激しく葛藤する俺の指先が、アドレス帳に刻まれた佐藤の文字の上で、醜く震えながら静止する。
指先を動かすたびに、過去の記憶が濁流となって押し寄せてくる。徹夜明けに分け合った温い缶コーヒーの味。バグの迷宮を共に彷徨った深夜の連帯感。それらすべてが、あの日の沈黙によって完全に否定されたような気がして、吐き気がしてきた。それでも、この塗料片に秘められた鳳凰寺の闇を暴くには、あいつの持つ知性に頼る以外に道はないのだ。
(プライドなんて、とっくの昔に捨てとる。俺は、俺自身を切り売りしてでも、この真実を掴み取らなあかんのや。俺の平穏のためにな)
《あら、その『さとう』という男、名前からしてあまりに凡庸で退屈ですわね。そのような下民に、鳳凰寺一族の闇を覗かせるつもりですの?》
凛が、俺の悩みを見透かしたように、鼻先で冷たく笑う。
(この女にだけは、俺の情けなさを笑わせへん。利用できるもんは全部利用したる。それがたとえ、かつての友達の平穏を壊すことになってもや)
《わたくしの身体を取り戻すための足として仕える貴方が、そのような人間に頭を下げるなど、鳳凰寺の矜持が許しませんわ。どうしてもと言うなら、わたくしがその男を逆さ吊りにして、力ずくで装置を動かさせて差し上げましょうか?》
凛が不敵な笑みを浮かべると、机の上のペン立てが激しく鳴り響き、彼女の歪んだ意志が物理的な暴力へと変貌する予兆を見せた。
(暴力で解決できるほど、この世のシステムは単純やないんや。お前の傲慢さで、せっかくの糸口を断ち切られてたまるか)
「……余計な真似すんな。これは俺の過去の清算なんや。あいつには、俺自身の手で向き合わなあかんのや」
俺は、スマートフォンの発信ボタンを、自らの指をへし折るような強い力で押し込む。耳元で鳴り響く、無機質で残酷な呼び出し音。凛の傲慢な笑い声も、超常現象の震動も、今は遠い異世界の出来事のように遠ざかっていく。
一秒、また一秒と、自分が積み上げてきた安っぽいプライドが、薄皮を剥ぐように削り取られていく。一族の闇を暴き、この呪わしい生霊を元の身体へ戻すためなら、過去の遺恨も、親友の平穏も、今の俺にとってはすべてが盤上の駒に過ぎない。
不意に呼び出し音が途切れ、回線が繋がった特有の静寂が耳を打った。俺の喉を震わせたのは、旧友への温かい再会の挨拶などではない。復讐という名の甘い猛毒を最後の一滴まで飲み干すための低く、地面を這いずるような、掠れた声だった。
(もしもし、の一言が出る前に、俺は俺の中の何かを完全に殺すしかない。もう後戻りはできへん)
「佐藤か。俺や、田村や。お前に、頼みたいことがある。……お前が今、どこで何を分析しとるんかは知らへん。そやけど、俺にはお前の力が必要なんや。断る権利は、今の俺には与えたれへんのや」
凛の瞳が、暗闇の中で獲物を捉えた鷹のように爛々と輝き、俺の魂を切り売りする取引を、この上なく満足げに見届けている。
彼女の唇が描く弧は、俺が人間としての尊厳を捨てる瞬間を祝福する、死神の微笑みに見えた。
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