第11話 化学の檻
煤煙が混じったような鈍色の雲が、郊外の空を低く覆っている。
かつての戦友である佐藤が指定した場所は、大手化学メーカーの広大な敷地の外れ、一般車両の立ち入りが制限された裏門付近だった。高くそびえ立つ無機質な研究棟は、窓の一つ一つが冷たい眼窩のように俺を見下ろしている。そこは、社会のレールから外れた俺にとって、もはや決して足を踏み入れることのできない清潔な世界の最果てだった。
(あいつ、ほんまに来るんやろな。あの日、俺を見捨てたあいつが。いや、見捨てたんは会社で、あいつはただ黙っとっただけか。……そやけど、その沈黙こそが、俺の喉元に突き立てられたナイフやったんやけどな)
俺は煤けたフェンスに背を預け、手元のピルケースを握りしめる。
手のひらに食い込むプラスチックの感触だけが、今の俺がこの世に繋ぎ止められている唯一の証拠のように思えた。
再会への期待など微塵もない。あるのは、ただ泥を啜ってでも生き延び、この真実を暴かなければならないという、呪いにも似た強迫観念だけだ。
錆びついた鉄格子の隙間から、無機質な廊下の奥が見える。冷房が効いているのだろう、開閉のたびに吐き出される空気は不自然に乾いていて、俺の肌を不快に撫でてきた。
この門を一つ隔てた向こう側には、理論と数値によって守られた安寧がある。一方で、こちら側には、生霊の少女に人生をかき乱された男と、実体のない怨念だけが渦巻いている。
《タクミ、何をそのように所在なげに震えていますの。鳳凰寺の恩赦を待つ囚人のような顔をなさって。もっと胸を張りなさいな》
俺の耳元で、重力を無視して浮遊する凛が、退屈そうに欠伸を噛み殺しながら言い放った。
(あぁ、腹立つ。誰のためや思っとるんや)
彼女の全身を包む淡い光は、通行人の目には見えない。それが唯一の救いだが、俺の張り詰めた神経を削るには十分すぎる存在感だった。
凛はふわりと俺の頭上を越え、フェンスの先端に爪先で立つと、まるで世界を支配する女王のような傲慢な笑みを浮かべた。
(お前は黙っとけ。今から俺が、どれだけ惨めな芝居打つ思っとるんや。お前のせいで、俺は昔の友達騙して利用する怪物になるんやぞ。この汚れた手、もう二度と洗えへん気ぃしとるんや)
心臓の鼓動が、アスファルトを叩く雨音のように耳の奥でうるさく響く。
不意に、ゲートの向こうから、重い扉が開く金属音が響いた。
「……久しぶりやな、田村」
白衣を羽織り、首から社員証を下げた男が、硬い表情でこちらを見ている。
佐藤だ。SE時代の面影はあるが、その顔には、日々複雑な成分を分析し、数値の海で正解を求め続ける者特有の感情を押し殺したような硬質さが宿っている。
あの日、オフィスを去る俺と目を合わせなかったその瞳は、今もなお、どこか焦点が合わないまま俺の少し横を向いている。
「ああ。忙しいとこ悪いな、佐藤。どうしてもお前の力が、お前の職場の装置が必要なんや。無理言うとるんは百も承知や」
俺は、精一杯の愛想笑いを浮かべようとして、頬の筋肉が醜く引き攣るのを感じた。
佐藤は俺の姿を上から下まで値踏みするように眺めると、一瞬だけ、視線を泳がせた。
その瞳の奥には、俺への軽蔑よりも、もっと暗く重い色、そう、あの日、何もできなかった自分への苛立ちと、罪悪感が混ざり合ったような澱みが潜んでいるようだった。
彼は白衣のポケットに両手を突っ込んだまま、微動だにしない。
その指先がポケットの中で落ち着きなく動いているのが、生地の揺れで分かった。
俺という存在が、あいつの平穏な日常に、取り返しのつかない染みを落としているのだろう。
「電話でも言うたけど、ここは遊び場やない。私物、まして出所不明のサンプルを勝手に分析機にかけるなんて、見つかったら始末書どころや済まへん。お前、自分が何を言うとるか分かっとるんか? 前の、あの理詰めやったお前なら、こんなリスク絶対取らへんかったはずや」
佐藤は懐から電子タバコを取り出し、俺との間に目に見えない壁を作るように、白く濁った煙を吐き出した。
その言葉は厳しいが、吐き出す煙の手元は、隠しきれない動揺を映すようにわずかに震えている。
彼はあの日から、俺を切り捨てたあの日から、一度もその重荷を下ろせていないのだと、直感的に悟った。
(佐藤め、相変わらずやな。正しい理屈で自分縛って、俺から目ぇ逸らそうとしとる。そやからこそ、俺が用意した最悪の嘘が、あいつの心の防壁を内側からぶち壊す鍵になるんや。このナイフを、あいつの良心の隙間に突き立てたる)
「分かっとる。仕事やないんや、これは個人的な……。実は、ある有力者の不倫調査請け負っとってな。その有力者が使っとる特注車両の塗料片なんや。これ特定できたら、俺の細々した食い扶持がようやく繋がるんや。分かるやろ、今の俺には、もうこれしかないんや」
俺は、事前に用意していた卑俗な嘘を、滑らかな毒のように吐き出した。
不倫調査。浅ましくて、泥臭くて、今の俺のような”落ちぶれた人間”がいかにも食いつきそうな、下劣な仕事。
かつてのプライドを捨て、道端に落ちた小銭を拾うような生き様。
佐藤の眉間が、耐えがたい苦痛をこらえるように深く刻まれた。
「不倫調査やと? お前、あんなに優秀やったSE辞めて、今はそないな探偵ごっこみたいなんしとるんか? お前の才能は、そないな汚い泥を啜るためのもんやなかったはずやろ。あの日、お前が会社追われたんも、お前が……」
佐藤は言葉を飲み込んだ。
最後まで言わなくてもわかる。お前が不器用すぎたからだと言いたいのだろう。
佐藤の声に、隠しきれない悲哀が混じる。
俺の胸の奥で、カチリと何かが音を立てた。
佐藤の声に、隠しきれない悲哀が混じる。
俺の胸の奥で、カチリと何かが音を立てた。
屈辱だ。同じ地平で戦っていたはずの男に、ここまで憐れまれる。
ただ、その軽蔑に近い同情こそが、俺が今、この男から引き出さなければならない唯一の感情だった。
「笑いたかったら笑えや。でもな、今の俺には、これしかないんや。頼む、この成分特定してくれ。お前んとこの最新鋭の分析計なら、瞬きする間に終わる作業やろ? このままやと、俺、来月の家賃すら払えへんのや。……なあ、佐藤。一回だけでええんや」
俺は、これまで必死に守ってきた安っぽいプライドをかなぐり捨て、深く頭を下げた。
視界に入るアスファルトの亀裂が、俺の今の立ち位置を無慈悲に象徴しているように見えた。
自分が惨めであればあるほど、佐藤の罪悪感は膨らみ、断る言葉を奪っていく。
最低だ。自分の不幸を武器にして、かつての友を脅しているようなものだ。
《タクミ、貴方、演技にしてもあまりに情けなすぎますわ。鳳凰寺の加護を受けた者が、そのような小者に頭を下げるなど……見ていられません。それに不倫調査? もっとマシな嘘はありませんでしたの? 例えば、失われた古代の王族の血筋を証明するための分析だとか、そういう高貴な目的を使いなさいな。その方が、この男も喜んで傅くはずですわ》
凛が俺の肩に肘をつき、耳元で残酷な言葉を囁く。
彼女の世俗離れした高貴な嘘が、かえって俺の現実の惨めさを際立たせる。
彼女には分からないのだ。この泥にまみれた社会で、首の皮一枚繋ぐために、どれほど醜い言い訳が必要かということが。
(お前の“マシな嘘”の方が、百倍現実離れしとるんや! 黙って見とけ。このまま押し通すんやからな。あいつの罪悪感刺激するには、これ以上ない役回りなんや、俺は。泥被るんが俺の役割や)
佐藤は、吐き出した煙が消えるのを待ってから、ゆっくりと俺に近づいた。
その足取りは重く、まるで処刑台へ向かう罪人のようだった。
「……ふん。ええやろう。お前のその無様な姿に免じて、一回だけや。そやけど勘違いするな。これはお前のためやない。……ただ、俺が個人的に、この不毛な調査に終止符打ちたいだけや。お前が、これ以上惨めな姿晒すの、見てられへん」
佐藤は、まるで自分の心臓を差し出すような苦渋に満ちた表情で、俺からピルケースをひったくった。
指先が触れた瞬間、その冷たさに驚く。佐藤の手も、俺と同じように震えていた。
彼は俺と一度も目を合わさないまま、踵を返して研究棟へと歩き出した。
その背中は、俺を救えなかった過去を、この一度の『不正』という泥を被ることで無理やり帳消しにしようとしているように見える。
俺は、遠ざかる彼の背中を見つめながら、爪が食い込むほど拳を強く握りしめた。
嘘を吐き、友の良心を売り、自分を辱める。
一歩踏み出すたびに、俺の中の人間としての何かが死んでいく感覚がある。
胸が焼けるように熱い。喉の奥に、苦い胆汁のような味が広がった。
それでも、この歩みを止めるわけにはいかない。
鳳凰寺の闇を暴き、この美しくも呪わしい生霊を元の場所に引きずり戻すまでは。
「……悪いな、佐藤」
俺の小さな呟きは、重厚な扉が閉まる音にかき消された。
凛は勝利を確信したように、不敵な笑みを浮かべて宙を舞った。彼女の瞳に映る俺は、もはや人間ではなく、ただの使い勝手の良い駒に過ぎないのかもしれなかった。
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