第12話 分析結果
扉が閉まった後の静寂は、耳が痛くなるほどに鋭いものだった。
佐藤が塗料片を手に研究棟の奥へと消えてから、すでに一時間が経過している。
俺は立ち入り禁止の看板が立つゲートの脇、外灯すら疎らな職員用駐車場の隅で、ただひたすらに、己の指先が冷え切っていくのを感じていた。
時折通りかかる白衣の職員たちは、アスファルトの上に小汚い格好で立ち尽くす俺を不審者でも見るような目で見下し、関わりを避けるように歩を速める。
その視線を受けるたびに、俺の中にある、まっとうな社会への未練が、土足で踏みにじられるような感覚に陥る。
(遅いな、佐藤。最新鋭の装置なら瞬きする間やて言うたんは、俺の見栄やったか。それとも、あいつの中でまだ、俺という劇薬受け入れるかどうか葛藤しとるんか。あるいは、あの日と同じように、俺を透明人間として処理しようとしとるんか)
駐車場に溜まった湿り気のある夜気が、研究棟から漏れ出す化学薬品の匂いと混じり、喉の奥を不快に刺激する。
俺は何度もスマートフォンの時計を確認し、そのたびに電池の残量が減っていくことに、根拠のない焦燥を募らせていた。
《タクミ、そんなにうろうろと歩き回って、アスファルトの亀裂でも数えているのですか? 実に見苦しい。鳳凰寺の真実に触れようとする者が、そのような安っぽい焦りに支配されるなど、わたくしの誇りが許しませんわ》
凛は駐車中の車両の屋根を滑るように移動し、俺の焦燥をあざ笑うように鼻先で冷たく笑った。
彼女の輪郭は、夕闇が完全に落ちた空の下でより鮮明に、より禍々しい輝きを放っている。
彼女は俺の周囲を円を描くように浮遊し、時折、俺の耳元で冷たい吐息を吹きかけるような仕草を見せる。
「お前には分からんやろ。この数十分の間に、俺がどれだけの未来を天秤にかけとるか。もし失敗したら、俺はもう、生きていく理由すら失うんや。不倫調査なんて嘘が通用するんも、今この瞬間だけやねん」
《ふん、そのような瑣末なこと。わたくしの存在そのものが奇跡であるというのに》
その瞬間、俺のポケットの中でスマートフォンが、悲鳴のような振動を上げた。
画面には『佐藤』の二文字。
指先が震え、スワイプする動作すらもどかしく感じる。
「……佐藤か。どうやった」
俺の声は、自分でも驚くほど掠れていた。
受話器の向こうからは、激しいノイズのような呼吸音だけが聞こえてくる。
「……田村。お前、一体どこでこれを手に入れた?」
佐藤の声には、剥き出しの恐怖が混じっていた。
俺はフェンスを握る手に力を込める。錆びた鉄の感触が、手のひらに食い込む。
「不倫調査? 嘘吐くな。こんなもん、そこらの浮気男の車に使われとるわけないやろ」
「何が分かったんや。勿体ぶるんやめてくれ」
「組成確認した。アルミニウムフレークの積層構造、特殊アクリル樹脂の配合、それに紫外線による変色防ぐためのナノダイヤモンド粉末の添加……。全部、既存メーカーの市販データには存在せえへん」
佐藤の声が、震えを隠しきれずに上擦る。
彼は一度言葉を切ると、何かを振り払うように荒い呼吸を吐き出した。
「……ただ一つ、俺らみたいな専門家が都市伝説として語っとる『聖域』のデータ除いてはな」
電話の向こうで、彼が分析結果のシートを握りしめている音が聞こえる。
一呼吸の間をおいて、彼は呪詛を吐き出すかのように結論を口にした。
「これは『鳳凰寺家専用色』や。一族直系、それも現当主とその周辺の人間が所有する車両にしか、特別配合許可されへん秘匿塗料やで」
脳内が、真っ白な光に包まれたような衝撃を受けた。
佐藤の声が、警告という名の悲鳴に変わる。
「市販車一万台買うても、この一ミリグラムすら手に入らん。田村、お前……鳳凰寺の人間追っとるんか?」
(身内……。いや、最初からその可能性は頭の片隅にあった。そやけど、実際に科学的裏付けとして突きつけられると、目眩がするな。あの欠片に染み込んどるんは、ただの色やない。血より濃い、身内同士の憎悪や)
その時、隣にいた凛の空気が、凍りつくような憎悪を伴う絶対的な氷へと変わった。
彼女は、佐藤の口にした”専用色”という言葉をきっかけに、自らの魂にかけられていた呪縛を無理やり引き剥がしたようだった。
《……思い出しましたわ。なぜ、わたくしの記憶に霞がかかっていたのか。それは衝撃のせいではなく、わたくしの心が、あまりの裏切りに耐えかねて真実を封印していたからですわ》
凛の声は、低く、地を這うような響きを帯びていた。
彼女の瞳には、以前宿っていた令嬢としての天真爛漫な面影など微塵もない。
《あの日、わたくしの部屋を訪れ、新しい車の納車を自慢げに語り、わたくしをドライブに誘い出した男……叔父の剛三。あの方は、途中で『忘れ物をした』と嘘を吐き、わたくしを車から降ろしましたの》
凛の体が発する霊的な震動が、周囲のフェンスを小さく鳴らしている。
彼女は、宙を睨み据えたまま、その薄い唇を激しい怒りに歪ませた。
《わたくしは、叔父様を疑うこともなく、あの湿った路地裏で一人、その帰りを待っていましたわ。待っていたわたくしの前に現れたのは、猛スピードで突っ込んできた鳳凰寺の車》
脳裏に浮かんだのは、歪んだ快楽に浸りながらハンドルを握る、一人の男の顔だった。
《叔父は、わたくしをあの掃き溜めのような場所に捨て置き、わたくしを刎ね飛ばしたのです。フロントガラス越しに見えた、あの獣のように笑う剛三の顔。わたくしは、信頼していた身内に、獲物として仕留められたのですわ!》
凛の叫びは、物理的な震動を伴って周囲の空気を震わせた。
叔父、剛三。
一族の重鎮であり、凛の父親を支える立場にあるはずの男。
その男が、姪である凛を誘い出し、人目につかない路地裏に放置し、鳳凰寺の専用色を纏った凶器で彼女を蹂躙し、そのまま闇へと消えた。
それは、緻密に計算された『ひき逃げ』という名の処刑だった。
(叔父やって!? そんな大物相手に、今の俺らがどう戦えっちゅうねん。……そやけど、これで敵の正体は見えた。霧の中に隠れとった怪物の爪の一本を、俺らは今確実に掴んだんや)
「佐藤、ありがとな。……悪いけど、そのデータ消去してくれ。バックアップも残すな」
俺は、震える声でそう告げると、一方的に通話を切った。
佐藤の呼びかける声が聞こえたような気がしたが、それを聞き届ける余裕は今の俺にはない。
《タクミ、何を呆然としているのですか。狩りの時間は始まりましたのよ。鳳凰寺の裏切り者に、死よりも重い絶望を与えるための》
凛の笑い声が、冷たい風に乗って俺の耳を打つ。
彼女の手が俺の首筋に触れた。体温を奪うほどの冷気が、俺の決意を強固な氷へと変えていく。
《貴方はわたくしの手足となり、あの男の首元に食らいつくのです。それが、泥を啜りながら生き長らえてきた貴方の唯一の価値なのですから》
「ああ、分かっとるよ。俺はもう、お前の復讐の道具や。……泥啜る味には、もう慣れたからな」
俺たちは、深い闇へと沈んでいく研究棟を背に、最初の一歩を踏み出した。
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