第13話 泣き虫令嬢
鳳凰寺剛三の私邸。それは、神戸の山手に鎮座する、石造りの要塞だった。
高く聳える外壁は、外界からの侵入を拒絶する意志そのものであり、夜の闇を吸い込んでさらにどす黒く変色しているようにさえ見える。
重厚な鉄扉は、訪れる者の身分を峻別し、持たざる者を冷たくあしらう無慈悲な門番として機能していた。
俺は、その広大な敷地を遠巻きに眺める公園の茂みで、湿った地面に膝をついていた。
泥がスーツの膝に染み込み、不快な冷たさが皮膚を伝って脳を刺激する。
(……正気かよ。こんな場所、偵察に来るだけで寿命縮むやろ。門の前に立っとるガードマンの体格見てみぃ。首の太さ、俺の太ももくらいあるやないか。俺みたいな無職がフラフラしとったら、一秒で通報されて人生終了や。それどころか、このまま闇に葬られても、誰も気づかへんのちゃうか)
周囲には、夜の静かな闇が濃く澱んでいた。
高級住宅街特有の人工的で清潔な空気感が、かえって俺の卑屈な焦燥を煽り立てる。
街灯の光さえもが、ここでは選ばれた者にのみ降り注ぐ特権のように思えてならない。
俺が握りしめているのは、ディスカウントショップで購入した数百円の安っぽい双眼鏡だけだ。
対照的に、俺の隣で重力を無視して優雅に宙を舞っているのは、この状況を遊戯だとでも思っているらしい銀髪の生霊だった。
凛は、自らの命を奪おうとした剛三の邸宅を見上げ、不敵な笑みを浮かべていた。
彼女の霊体は、闇の中で微かな光を放ち、周囲の植栽をぼんやりと青白く照らし出している。
彼女にとって、物理的な障壁など存在しないも同然なのだ。
その透明な指先が、空を切り裂くように邸宅の窓を指し示した。
《タクミ、何をそのように震えているのです。わたくしが直々に偵察へ向かうというのに、貴方のその肝の小ささは、もはや芸術の域に達していますわね》
凛は、俺の鼻先で指を突き出し、尊大に言い放った。
その声音には、下界の住人を見下ろすような圧倒的な選民意識が宿っている。
たとえ生霊となり、実体を失おうとも、彼女の中に流れる鳳凰寺の血は、その矜持を一片たりとも損なわせてはいないようだった。
「……あ、当たり前やろ。見つかったら捕まるん俺だけやぞ。お前は壁抜けしたら済むやろうけど、俺にはこの脂肪と骨があるんや。物理法則に縛られた哀れな人間に、生霊基準の勇気を要求すんな」
俺は、震える手で双眼鏡のピントを合わせようとしたが、指先の震えが止まらない。
レンズ越しに見える邸宅の窓は、まるで巨大な怪物の眼窩のように、俺たちをじっと見つめ返している気がした。
《ふん、無職の分際で肉体の質量を主張するなど、片腹痛いですわ。いいですか、わたくしが内部へ侵入し、叔父様の醜い密談を暴いて差し上げます。貴方はそこで、犬のようにわたくしの帰りを待っていなさいな。せいぜい、不審者として捕まってわたくしの足を引っ張らないことですわね》
凛は、まるで舞踏会の入り口に向かうかのような足取りで、重厚なコンクリートの壁へと進んでいく。
空気を滑るようなその動きは、あまりにも優雅で、それでいてこの世の理から外れていた。
彼女の透き通った体が、一切の抵抗を感じさせることなく、冷たい壁面に吸い込まれていく。
その光景は、科学の常識を嘲笑うかのような不吉な美しさに満ちていた。
(……行ったか。まぁ、生霊唯一の利点やな。これで剛三の弱み握れたら、俺のこの惨めな生活にも、一筋くらい光が差すかもしれへん。汚職の証拠でも何でもええ。あのお嬢様が、何か一つでも決定的な情報持って帰ってきてくれたら……)
俺は双眼鏡を構え、邸宅の二階、わずかに灯りが漏れる窓を注視した。
心臓の鼓動が耳の奥で早鐘を打ち、喉の渇きが限界に達する。
だが、凛が壁の向こう側へと完全に消えてから、わずか数秒、瞬きをする間ほどの後のことだった。
《ひゃうっ!?!? た、田村ぁ!! タクミぃ!!》
壁の中から、令嬢としてのプライドを粉々に砕いたような、情けない絶叫が響き渡った。
それは高貴な令嬢の泣き声とは到底思えない、まるで尻尾を踏まれた仔犬のような悲鳴だった。
直後、壁を突き抜けて弾け飛んできたのは、顔を真っ青に染め、涙目で両腕をデタラメに振り回す凛。
彼女は、猛烈な勢いで俺の胸元へと突っ込んできた。
物理的な衝突はないはずなのに、彼女が放つ霊的な冷気と衝撃で、俺の肺から空気が根こそぎ押し出される。
鼻の奥がツンとするような、冬の朝の凍てつく空気以上の冷気が俺を包み込んだ。
「ちょ、おまっ、何なんや!? 見つかったんか!? 警備員か? センサーか!?」
《くらっ、暗いですわ! あそこ、信じられないくらい暗いですわよ! 叔父様の屋敷の廊下が、底なしの沼のように真っ暗で……っ。わたくしの美しい足元も見えないなんて、あのような場所、人間が住むところではありませんわ! 悪趣味にも程がありますわよ!》
凛は、俺の古びたスーツの裾を、実体がないはずの指先で必死に掴もうとしていた。
実際には彼女の指は布をすり抜けているのだが、その必死な動作からは、彼女の精神的なパニックが痛いほど伝わってくる。
その瞳は大きく見開かれ、恐怖で激しく揺れていた。
先程までの《わたくしについてきなさい》と言わんばかりの威厳は、どこか遠い銀河へ吹き飛んでしまったらしい。
「暗いって……夜やねんから当たり前やろ! 豪邸やって寝静まったら電気くらい消すわ! お化けの自覚持てや! お前自身が怪奇現象やぞ! 自分で光っとるんやから、足元くらい照らせ!」
《うるさいですわ! わたくしはお化けではありません、鳳凰寺凛ですわ! 暗闇には……暗闇には、何か得体の知れない本物の化け物が潜んでいるに決まっています! わたくしのような清らかな魂を、一口で食べてしまうような恐ろしい何かが! そもそも、暗闇の中で一人ぼっちなんて、そんなの拷問以外の何ものでもありませんわ!》
(こいつ、生霊のくせに暗いとこ怖いんかよ……。設定渋滞しすぎやろ。鳳凰寺家の教育どうなっとんねん。英才教育の中に暗闇耐性くらい入れとけや。この様子やと、復讐始める前に夜泣きで俺の体力削られるぞ)
俺は、俺にしがみついて、物理法則を無視した冷たさを撒き散らしながら震える凛を、呆れ果てた目で見下ろした。
彼女の放つ冷気が、俺の安物スーツを凍らせ、体温を容赦なく奪っていく。
邸宅の豪華な外観と、この情けない生霊の対比。
俺の復讐劇は、作戦開始から数分で、この上なくマヌケな壁にぶち当たっていた。
「ええか、凛。落ち着け。お前が壁抜けせぇへんかったら、俺ら一生剛三に辿り着けへんのやぞ。お前が俺の目になるって約束したやろ。俺を信じろ。そこには、お前以上のバケモンなんかおれへん」
《い、嫌ですわ! あのような奈落に一人で行くなど、死んでも御免ですわ! ……あ、わたくし、もう死にかけていましたわね。でも嫌なものは嫌ですわ! タクミ、貴方が一緒に入りなさい! わたくしの騎士として、暗闇を照らしなさい! その薄汚いスマートフォンでいいから、光を掲げるのです!》
「無茶言うな! 俺が壁抜けられるわけないやろ! 俺は物理法則の奴隷やねん! それに、ライトなんか点けたら一発で警備員に御用や!」
暗闇を怖がるお嬢様生霊と、不審者として捕まるのを恐れる無職。
豪華絢爛な要塞を前にして、俺たちは茂みの陰で、この上なく低レベルな押し問答を繰り広げるしかなかった。
夜風が俺の首筋を撫で、凛の冷気と相まって、俺の意識を遠のかせていく。
この生霊事件簿の前途多難な夜はまだ始まったばかりだった。
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