第14話 電脳の防壁
六畳一間の安アパートに、ノートパソコンの冷却ファンが放つ悲鳴のような回転音が空虚に響き渡る。
画面から放たれる無機質な青白い光が、俺の無精髭の伸びた顔を死人のように、そして惨めに照らし出していた。
俺は、キーボードを叩く指先の痺れを無視し、目の前の黒い画面に踊る文字列、つまり、剛三が支配する会社の基幹サーバへと繋がる、唯一の脆弱性を探し求めていた。
(……クソッ、何やねんこの鉄壁。ファイアウォールの構成が尋常やない。まるであの豪邸の壁を、そのままデジタル世界に持ち込んだみたいや。俺が昔触っとった大型機のシステムとは、次元がちゃうやないか)
俺の経歴は、いわゆる基幹システムの開発保守だ。
巨大な筐体が唸りを上げる電算室で、何万行ものコードを相手に、銀行や物流の裏側を支えてきた自負はある。
職を失う前、俺が向き合っていたのは、堅実な積み上げの作業であって、他人の城に裏口から忍び込むハッキングとは似て非なる技術だ。
趣味の自作パソコンや、好事家向けの知識で多少の攻め方は心得ているつもりだったが、プロが巨額の予算を投じて築き上げた最新鋭の防壁は、俺のような門外漢を嘲笑うかのようにそびえ立っている。
キーを叩くたびに、画面に『アクセス拒否』の文字が跳ね返ってくる。
それは、社会の底辺に這いつくばる俺のような人間を、物理的にも論理的にも排除しようとする、持てる者の傲慢な意思そのものに感じた。
《タクミ、先ほどからその悲鳴を上げている安物と睨めっこして、一体何を苦戦しているのですか?》
凛は、俺の肩越しに顔を覗き込み、退屈そうに大きな欠伸を噛み殺した。
彼女の生霊から放たれる冷気が、精密機器であるパソコンにとって命取りになりかねない温度まで、室温を急速に下げていく。
《わたくしの知るパソコンというものは、もっと華やかで、直感的に扱える美しい道具でしたわよ。其方のやっていることは、まるで機械の臓物を素手で弄り回しておるようで、見ていて生理的な嫌悪感を覚えますわ》
彼女にとって、アイコンをなぞるだけで全てが完結する洗練された操作こそが文明であり、真っ黒な画面に無機質な文字列を羅列する俺の作業は、前時代の呪術か何かに見えているのだろう。
俺の必死な格闘は、彼女の目には、単なる滑稽な指遊びとして映っているに違いない。
「……静かにしといてくれ。これは遊びやない。ハッキングいう、立派な潜入捜査や」
俺はキーボードから指を離さず、視線だけで彼女を牽制した。
「見てみぃ、この多層防御。ここまで壁を築いとるってことは、その奥に見られたない不都合な真実が詰まっとる証拠や。俺の指先一つで、鳳凰寺の闇を暴いたる」
《ハッキング? まあ、横文字を使えば許されると思っているのですか。わたくしの目には、タクミがただ暗い部屋で一人、文字の羅列に翻弄されている惨めな男にしか見えませんわよ》
凛は、俺の耳元で残酷な真実を突きつけるように、クスクスと鈴を転がすような声で笑った。
彼女は宙に浮いたまま、俺の頭上で優雅に足を組み、まるで見せ物小屋の芸人を鑑定するような目線を投げかけてくる。
《まるで、壊れた鍵盤を必死に叩き続ける猿のようですわ。しかも、その猿は一向に調べを奏でる気配がありませんもの》
その視線を受けるたびに、俺の技術者としてのささやかなプライドが、音を立てて削り取られていく。
俺が大型汎用機で培ったロジックの知識も、最新のクラウドサーバの前では、まるで原始人が火を起こそうとしているような古臭い足掻きに見えるのだろうか。
「猿で結構や。そやけどな、この猿が扉を開けへん限り、お前の復讐は一歩も進まへんのやぞ。少しくらい応援するとか、黙って見守るとかできへんのか」
俺は苛立ちを隠さず、Enterキーを強く叩いた。
「俺かて、趣味の知識総動員して、慣れへん攻めのコード書いとるんや。本職は大型機なんやぞ、ほんまは」
《応援? 仕方がありませんわね。……励むがよい、タクミ》
凛の言葉は激励というよりも、家畜に鞭を入れる飼い主のそれだった。
《あなたのその、少しだけ器用な指先が、わたくしのために粉骨砕身する姿は、見ていて実に愉快ですわ。さあ、もっと必死に、その盤を叩き折りなさい! あなたの唯一の取柄である、その執念深さを見せてみなさい!》
俺は奥歯を噛み締め、再び画面の中の論理の迷宮へと没入する。
キーを叩く音だけが、虚しく部屋に反響する。
だが、現実はどこまでも非情だった。
俺が繰り出すあらゆる攻撃コードは、巨大な壁の表面を掠めることすらできず、次々と無効化されていく。
サーバのログには、俺の侵入の痕跡が刻まれることさえ許されない。
圧倒的な資本力が生み出した守護神が、俺という脆弱な個体を、鼻であざ笑っているかのような感覚に陥る。
俺の手元にあるのは、使い古されたコマンドと、付け焼き刃のツールだけだ。
対して相手は、二十四時間体制で監視される最新のシステム。
まるで竹槍で最新鋭の戦車に挑んでいるような、絶望的な格差がそこにはあった。
(……アカン。今の環境やと、これ以上踏み込んだら逆にこっちの場所を特定される。プログラミングの知識があっても、サイバー攻撃専門の連中相手やと分が悪すぎる。俺のスキルは、正面から殴り合うために作られたもんやないんや)
俺は、汗ばんだ額をキーボードの横に押し当て、重い敗北の味を噛み締めた。
目の前の画面には、依然としてアクセス拒否の文字が、残酷なまでに明滅を繰り返している。
このデジタルな壁は、昨夜の剛三の邸宅よりも、ずっと高く、ずっと厚い。
そして何より、俺の技術者としてのプライドを完膚なきまでに打ち砕く厳格さを備えていた。
《あら、もうお終いですの? 先程までの勢いはどこへ行ったのです》
凛は、俺の絶望を見透かしたように、空中で俺の顔の前に回り込んできた。
その紅蓮の瞳には、失望と、それ以上に深い愉悦の色が混ざり合っている。
《わたくしの騎士を自称する男が、たかが時代遅れのパソコン一台に屈するなど、鳳凰寺の名に泥を塗る行為ですわ。タクミの実力とは、この程度のものだったのですか? 期待して損をいたしましたわ》
彼女にとって、俺が苦しみ、足掻く姿こそが、死の淵にある退屈を紛らわす最良の娯楽なのだ。
俺の挫折すらも、彼女の優雅な時間のための供物でしかない。
「……実力不足や。悪かったな。そやけど、お前が昨日の偵察で暗闇怖がらへんかったら、こんな苦労せんで済んだんやぞ」
俺は椅子を回し、宙に浮く彼女を睨みつけた。
「お前が直接データ見てきたら、ハッキングなんかせんで済んだんや。お前のビビりが、この状況呼び込んだんやぞ」
《そ、それはそれ、これはこれですわ! あのような、不浄な気配が漂う場所へ一人で行けと言う方が、どうかしてますわよ!》
凛は、図星を指されたことに顔を赤らめ、空中で激しく身悶えした。
彼女の放つエネルギーが不安定に揺れ、安アパートの湿った空気がバチバチと鳴る。
《わたくしは、清らかで高貴な生霊なのですから、暗くて不衛生な場所は生理的に受け付けませんのよ! それに、暗闇はわたくしの輝きを奪ってしまいますもの!》
古びた蛍光灯が不吉な点滅を開始し、不気味な雰囲気を醸し出した。
暗闇を怖がる生霊と、技術的な限界にぶつかった元エンジニア。
俺たちの復讐という名の無謀な挑戦は、物理と電脳、その両方の壁を前にして、早くも座礁しかけていた。
(……こうなったら、正攻法やと無理や。外からこじ開けられへんなら、内側から潜り込むしかない。デジタルの壁を越えられへんなら、物理的にサーバの懐まで飛び込んだる。あの日、システム組み上げとった頃の根性、ここで見せたるしかない)
俺は、ノートパソコンを勢いよく閉じ、立ち上がった。
椅子が床を擦る嫌な音が、静まり返った部屋に重く響く。
俺の視線の先には、以前にバイトで使っていた糊の効いていない安物の作業着が、ハンガーに力なく掛かっていた。
それは、今の俺の姿であり、同時に、これから始まる潜入という名の泥仕事への招待状なのだろう。
「凛、作戦変更や。電脳戦は一旦休戦。次は泥臭い潜入作戦に切り替えるぞ。お前にはまた“目”になってもらう。今度は逃げるなよ」
《潜入? またあのような暗い場所へ行くと言うのですか!?》
凛の表情が、目に見えて強張った。
《タクミ、あなたは、わたくしを精神的に屈服させるつもりなのですか! それとも、わたくしの美貌を埃まみれにするのが目的ですの!?》
「安心せぇ。今度は夜やない。真っ昼間の明るいオフィスビルや。清掃員に化けて、直接剛三の膝元まで潜り込んだる。デジタルで届かへんなら、足使って届かせるしかないやろ」
俺の言葉に、凛は一瞬だけ呆気に取られた表情を見せた。
だが、すぐにその口元に、傲慢で艶やかな笑みを戻した。
それは、退屈な日常が再び動き出すことを確信した、捕食者の笑みである。
俺たちの戦場は、青白いモニターの中から、コンクリートと鉄筋で出来た現実の戦場へと移ろうとしていた。
俺は、たとえ泥を啜りながらでも、あの男の首元に食らいつく覚悟を改めて固めるしかなかった。
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