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<全50ep> 鳳凰寺凛の生霊事件簿 ~視えるのは、世界で無職(おれ)一人~  作者: 第三ひよこ丸
第2部 【科学捜査と見えないスパイ】

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第15話 傲慢なナビゲーター

 六甲アイランド。海の上に浮かぶこの人工的な街並みは、計算され尽くした無機質な美しさを湛えている。

 海風が運んでくる潮の香りと、整然と並ぶ高層ビルの威容が、これから始まる泥臭い潜入作戦との強烈な対比を描き出していた。

 俺は、糊の効いていない、少しサイズの大きな清掃員の作業着に身を包み、周囲の目を盗むようにして巨大なオフィスビルの裏口へと足を向ける。


(……よっしゃ、身分証の偽造は甘いけど、この時間帯の出入り業者なら、まともに顔を見る奴はおらんやろ)


 目の前にそびえ立つのは、剛三が支配する鳳凰寺グループの中枢の一つだ。空を突き刺すようなガラス張りの外壁が、午後の陽光をこれでもかと跳ね返し、侵入者を拒絶する鏡のように輝いている。俺の手元にあるのは、最新のハッキングツールではない。モップ、バケツ、そして、どこにでもいる無害な清掃員という、透明人間にも等しい記号だけだ。


《タクミ、先ほどから何をそんなに挙動不審に動いているのですか?》

 

 凛は、俺の頭上で優雅に宙を舞い、周囲の警備員を嘲笑うかのように優雅なポーズを決めた。彼女の生霊から放たれる微かな光は、白昼堂々のオフィス街では陽炎のように揺らめき、俺以外の誰にも視認されることはない。

 

《わたくしの騎士を自称するなら、もっと堂々と、胸を張って歩きなさいな。その猫背では、まるで落ちている小銭でも探している卑しい男にしか見えませんわよ。鳳凰寺の名の元に歩く者が、そのような情けない姿でどうしますの》

 

(誰が、おまえの騎士やねん! 勝手に決めるんな!)

 

 彼女は俺の周囲を旋回しながら、さらに不満げな言葉を重ねる。

 

《第一、この服は何なのですか。その機能性だけを追求したような、美意識の欠片も感じられない灰色は! わたくしの側に侍る者が、そのような薄汚れた布を纏っているなど、わたくしの美学が許しませんわ。もっとマシな変装はなかったのですか?》


「……声がでかい。ええか、潜入ってのは、目立たんことが第一なんやぞ。お前の言う『堂々と』なんかやったら、一秒で警備員に囲まれて終わりやぞ。この地味な灰色こそが、この戦場における最強の迷彩服なんや。それくらい理解せえや」

 

 俺はモップの柄を握り直し、自動ドアをくぐった。ロビーの冷房が、緊張で火照った俺の頬を冷たく撫でる。

 

「それにな、この服は日本のインフラ支えとる誇り高き制服なんや。お前みたいな箱入りお嬢様には、汗水垂らして働く尊さなんか分からへんやろうけどな」


 大理石の床は、自分の顔が映るほどに磨き上げられ、俺の安い作業靴が立てる足音さえも不浄な異音として告発しているかのような錯覚に陥る。

 受付には、彫刻のように無表情な受付嬢と、鋭い眼光を放つ警備員が配置されていた。俺は、いつもの日常をこなす労働者のオーラを全身から放出し、存在感を消す。


《あら、あちらの角に、何やら強そうな顔をした男たちが立っておりますわよ。タクミ、右に敵ですわ!》

 

 凛は、楽しげに俺の耳元で囁きながら、俺の進むべきルートを強引に指し示した。彼女が指したのは、三人の屈強な警備員が談笑している受付の脇だ。

 

《そのまま進めば、貴方のその不細工な鼻面を、あの鉄の棒で叩き折られるのが関の山ですわね! わたくしの美しい生霊としての視界に、貴方の無様な流血沙汰を映さないでくださいましよ》

 

 生霊としての彼女は、物理的な壁や障害物を無視して視界を確保できるため、確かにこれ以上ないナビゲーターではある。だが、その指示の出し方は、まるでお遊戯会の主役を応援する観客のように無責任で、あまりにやかましい。


「分かっとるって、見たら分かるやろ……。あそこは避けて、非常階段のルートから回るんや。右に敵、右に敵って、お前はゲームのナビか何かか? もうちょい具体的に状況説明してくれへんか」


《あら、わたくしの親切な忠告を、そのように無下に扱うのですか? 貴方は、わたくしの目という最高の恩恵を授かっていながら、なんと身勝手な!》

 

 凛は、宙に座り込むような仕草で、俺の歩調に合わせて横移動を続ける。彼女の視線は、既に警備員を通り越し、ビルの構造そのものを透視しようとしているかのようだった。

 

《いいですか、貴方はただ黙って、わたくしの言葉に従えばよろしいのです。わたくしが見ている世界は、貴方の濁った瞳が見る景色とは、次元が違いますのよ。わたくしが『右』と言えば、それは絶対の真実ですわ》

 

 彼女はさらに俺の頭を小突くような動きを見せるが、もちろん指先は虚空を突き抜けるだけで手応えはない。

 

《さあ、次は左ですわ! そこの角を曲がった先に、何やら清掃員用の物置があるようですわよ。そこで少し身なりを整えたらどうです?その、はみ出しているシャツの裾が、わたくしの視神経を酷く逆なでしますの。整っていないものは、見ているだけで不愉快ですわ》


(……ったく、言う通りにせんといつまでも耳元で騒ぎよる。そやけど、確かにあいつの言う場所に物置があるなら、そこからバックヤードの配線盤にアクセスできるかもしれへん。お嬢様のわがままも、使い道次第ってことか)


 俺は彼女の指示通り、左側の狭い通路へと滑り込んだ。そこは、表側の豪華爛漫な大理石とは打って変わり、コンクリートが剥き出しのビルの内臓とも呼べる無骨な空間だった。埃っぽい空気と、配管を流れる水の音が響くこの場所こそ、俺のような技術者崩れが最も落ち着く戦場だ。


「よし、凛。ここからが本番や。剛三の執務室に繋がる通信回線を特定する。お前は廊下の様子を監視して、誰か来たらすぐ教えろよ。ええな? 絶対に目ぇ離すなよ」


《わたくしに見張りをさせるとは、どこまで不敬な男なのです。ですが、まあ、貴方が無様に捕まって、わたくしまでこの不衛生な場所に閉じ込められるのは御免被りますわ。鳳凰寺の令嬢が捕虜になるなど、歴史の汚点以外の何物でもありませんもの》

 

 凛は、不本意そうに唇を尖らせながらも、壁の向こう側へと頭を突っ込んで周囲を探り始めた。その姿は、高貴なドレスを纏いながら泥棒猫のように隙間を覗き込む、なんともシュールな光景だった。

 

《特別ですわよ、タクミ。……あら? タクミ、また右に敵ですわ!》

 

 彼女が叫ぶと同時に、俺の心臓が喉元まで跳ね上がった。俺は反射的に配線盤の影に身を隠し、呼吸を殺す。

 

《今度は、何やら掃除道具を抱えた本物の清掃員が、怪訝な顔をしてこちらへ向かってきておりますわよ! どうしますの? 貴方のその付け焼き刃の変装、見破られてしまいますわよ!》


「おまっ……! それ、もっと早よ言えや! 余裕持って教えろって言うたやろ!」


 俺は慌てて、バケツから雑巾を取り出し、何の意味もない壁の染みを必死にこすり始めた。背後から近づいてくる、規則正しい足音。俺の心臓が、まるで工事現場の杭打ち機のように激しく胸を叩き、嫌な汗が背中を伝い落ちる。凛は、そんな俺の狼狽ぶりを愉快でたまらないと言わんばかりに、口元を隠すような仕草をして浮かんでいる。


《ほほほ、必死ですわね、タクミ。その腰の引けた拭き方は、素人丸出しでしてよ。まるでお化けでも怖がっている子供のようですわ》

 

 凛は、俺の鼻先まで顔を近づけて、意地の悪い笑みを浮かべた。彼女の瞳には、俺の焦燥が最高の娯楽として映っているらしい。

 

《もっと優雅に、手首のスナップを利かせて磨きなさいな。あ、その清掃員の方、貴方の後頭部をじっと見つめておりますわよ。……あら? 通り過ぎていきましたわ。貴方のその冴えない背中が、あまりに風景に馴染みすぎていたのでしょうね。石ころと見間違えたのかもしれませんわ》


(……死ぬか思た。この生霊、絶対おもろがって報告遅らせたやろ。心臓いくつあっても足りへん。そやけど、この受難に耐えてこそ、あの剛三の喉元に届く鍵が手に入るんや。人工島の迷宮は広い。せやけど、俺とこの口うるさいナビゲーターのコンビなら、必ず正解を叩き出せる)


 俺は、震える手で冷や汗を拭い、暗いバックヤードのさらに奥へと歩みを進めた。耳元で響く、凛の尊大な笑い声と、遠くで聞こえる波の音が混ざり合う。俺たちの反撃は、この海の上の要塞で、静かに、そして確実に熱を帯び始めていた。

 剛三、お前の築き上げた鉄壁の城も、内側から食い破ってやるからな。

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