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<全50ep> 鳳凰寺凛の生霊事件簿 ~視えるのは、世界で無職(おれ)一人~  作者: 第三ひよこ丸
第2部 【科学捜査と見えないスパイ】

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第16話 高貴な生霊に通訳

 剛三の執務室へと続く重厚な二重扉の傍らで、俺は一心不乱に壁を雑巾で拭いていた。

 六甲アイランドの海風さえ届かぬビルの深奥は、高性能な空気清浄機が吐き出す無機質な乾燥した風だけが吹き抜け、不自然なほどに澄んだ空気が鼻腔をくすぐる。

 この階層には、鳳凰寺グループの幹部たちが使用する特上の応接室がいくつも並び、床の絨毯一枚をとっても、俺の数年分の年収を容易く踏みつけるほどに上質だ。


(……昨夜のハッキングやと、結局剛三の個人サーバの奥までは辿り着かれへんかった。そやけど、このフロアのどっかには、絶対に凛を撥ねた『動機』と『証拠』が転がっとるはずや)

 

 俺は雑巾を動かす手を止めず、視線だけで周囲の警戒を怠らない。この階の防犯カメラの配置は、昨夜、睡眠時間を削って脳内に叩き込んである。

 

(さっきから片っ端から凛に覗かせとるけど、どの部屋も退屈な収益報告ばっかりや。そやけど、この扉だけはちゃう。スマホの電波が完全に死んどる……。物理的な遮断材を壁の裏に仕込む時点で、『ここからは鳳凰寺の身内だけの話しです』言うとるようなもんやろ)


 物理的な盗聴器を仕掛ける隙などない鉄壁の守りだが、俺には物理法則を無視する最強の偵察兵がいる。

 俺はモップに体重を預け、廊下の監視カメラの死角を突くようにして、生霊のパートナーへと目配せを送った。

 凛は、まるで舞踏会の入り口に立つ王女のように、不満げに鼻を鳴らして宙に浮いている。


《タクミ、貴方はわたくしに何を求めているのですか?》

 

 凛は優雅な所作で透き通った髪を払い、俺の必死な訴えを露骨に鬱陶しがった。

 

《他人の対話を盗み聞くなど、鳳凰寺の教育にはありませんでしたわ。真に高貴な者は、常に正面から堂々と相手を屈服させるものですのよ》

 

 彼女の存在はこの廊下を通る誰の網膜にも映らず、触れられない。

 究極のプライバシー侵害を可能にする、法の網の目を超越した幽かな存在。

 

《それを、このような埃っぽい通路で這いつくばりながら、壁の向こうを覗き見ろなどと……。貴方の魂の卑しさが、わたくしにまで伝染しそうですわ》

 

 潜入して自ら耳をそばだてるなどという行為は、彼女の美学に真っ向から反する野蛮な行為に映っているに違いない。


「ええから行けや! お前の人生を滅茶苦茶にした張本人が、あそこに座っとるんやぞ!」

 

 俺は心の中で手を合わせ、最大限の称賛――あるいは煽りを込めて彼女を突き動かした。

 

(ここへ入っていった連中の顔つき、どいつもこいつも剛三の息がかかった派閥の連中や。俺の勘が正しいなら、この部屋が本命や)

 

「次に何企んどるか分かれば、剛三の喉元まで一直線や。お前のその宝石みたいな耳で、悪党どもの企み全部聞いてきてくれや」


《全く、貴方はわたくしがいないと、何もできない無能な騎士ですわね》

 

 凛はそう言い残すと、煙のように音もなく、分厚い鋼鉄の扉をすり抜けて消えていった。

 

《仕方がありませんわ、わたくしがその汚らわしい密談とやらを、この麗しい鼓膜に刻んでまいります。貴方は、わたくしが戻るまで、その安っぽい雑巾で床を磨き続けていなさい》

 

 俺は独り、廊下に取り残される。

 心臓の鼓動が、静まり返った空間に不自然なほど大きく鳴り響いていた。


(……頼むぞ。変なとこに気ぃ取られんと、重要な単語だけ拾ってきてくれ。お嬢様、お前の理解力が今回の作戦全部握っとるんやからな)


 数分後、凛が壁から突き抜けるようにして戻ってきた。

 その顔は、何やら得も言われぬ不快感と、理解不能な事態に遭遇した時の困惑に満ちている。

 俺は急いでモップを動かし、独り言を装って彼女に問いかけた。

 

「……あー、この汚れしつこいな。それで、中どないやった? 何話しとったんや?」


《タクミ! あの中にいた叔父様たち、一体何を考えていらっしゃいますの!?》

 

 凛は俺の周囲を激しく旋回しながら、耳を塞ぐような仕草をして憤慨している。

 

《わたくし、あのような悍ましい言葉、生まれてこの方、一度も耳にしたことがありませんわ! 『お飾りを降ろす』とか『首を挿げ替える』とか……》

 

 どうやら、冷酷な権力闘争の隠語が、箱入りお嬢様の言語フィルターに激しく衝突したらしい。

 

《一体、どこの演劇の話をしていますの!? わたくし、通訳をするのも躊躇われるほど、汚らわしい気持ちになりましたわ!》


「落ち着け、凛。お前の父親……当主に関わることやろ。場所とか日付とか、聞こえたことをそのまま教えてくれ」


《何やら『三億の含み損を、週末の役員会で踊らせる』とか何とか言っていましたわ》

 

 凛は、その言葉の意味を文字通りに受け取っているのか、不思議そうに小首を傾げた。

 

《数字を躍らせる? まあ、なんと風流で、それでいて奇妙な表現ですこと。会計の世界では流行りなのですか?》

 

 俺の背中に冷たい汗が奔る。

 凛のフィルターを通った翻訳はあまりに牧歌的だが、事態の深刻さは嫌というほど伝わってくる。

 

《それに、剛三の叔父様ったら、『今回は、邪魔なネズミをコンクリートの庭に閉じ込めてやる』なんて、慈悲の心もないことを仰っていましたわ》


(……三億規模の不正融資か何かを、当主の責任にして弾劾する気か! 役員会で一気に畳みかけて、その後、父親をどこかの施設に軟禁でもするつもりやな。ネズミって、当主のことか……あるいは嗅ぎ回っとる俺のことか)

 

 俺は、独り言を装いながら、手帳を隠したバケツの裏でペンを走らせる。

 

(凛、それは経営の話やない。お前の家を乗っ取るための宣戦布告や)


「あー、この角の汚れも酷いな……。他には? 何か、具体的な場所の名前とかは?」


《場所? ええ、『有馬の奥にある赤い屋根の別邸』と言っていましたわ》

 

 凛は、俺が何を必死にメモしているのかも理解せず、自分のドレスの裾に埃がついていないか点検している。

 

《わたくし、赤い色は好きですけれど、あのような寂れた場所には興味がありませんわ。それから、協力者のことを『山の守り』と呼んでいましたわね》

 

 古い守衛の集まりか何かですの? と彼女は心底嫌そうに顔をしかめた。

 

《わたくし、あの中の空気は生理的に受け付けませんの。あの中にずっといたら、わたくしの高貴な波長が乱れて、消えてしまいそうでしたわ》


(有馬の別邸……。そこに不正の証拠か、あるいは父さんを追い込むための何かが隠されとるんか? 『山の守り』は……おそらく、剛三が雇った私設の警備チームやな)

 

 殴り書きのメモをポケットにねじ込み、俺は撤収の準備を始めた。

 

(有馬の別邸、週末の深夜。条件は揃た。お前の家も、お前の体も、全部剛三の手から取り戻したるからな)


《タクミ、もうよろしいでしょう? あのような品のない空間に、これ以上わたくしの耳を晒すわけにはいきませんわ》

 

 凛は、俺の称賛を当然の献上物として受け流し、再び俺の頭上で傲慢に顎を引いて浮かんでいる。

 

《さあ、早くこの灰色の迷宮から脱出しなさい。わたくし、潮風を浴びて、この汚れた気分を洗い流したいのです》

 

 彼女の透明な瞳が、不衛生なバックヤードの隅々を軽蔑するように見渡した。

 

《貴方も、その無様に汚れた格好、早く脱ぎ捨てたらどうです? 見ているだけでこちらまで薄汚れる気がしますわ》


「分かってる、すぐに撤収や。よくやった、凛」

 

 俺はモップをバケツに突っ込み、勝利の予感に震える拳を握りしめた。

 

「お前のおかげで、剛三の首を絞めるためのロープが手に入ったぞ。さあ、安全な場所まで引き上げるぞ」


 背後で重厚な扉が開く音が聞こえ、俺は反射的に腰を丸め、存在感を消して廊下の角へと消えた。

 俺たちの戦いは、今、電脳の世界から、策謀渦巻く鳳凰寺の深奥へと舞台を移そうとしていた。

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