第17話 高慢な生霊による無慈悲な激励
剛三の執務室付近から、俺は逃げるようにしてバックヤードの長い廊下を突き進んでいた。
背中を嫌な汗が伝い、安物の作業着がじっとりと肌に張り付いて、不快感を煽り立てる。
ポリエステル混紡のゴワついた生地が、焦る俺の肌を執拗にこすり、まるで逃亡者の罪悪感を具現化したかのように神経を逆なでしてくる。
(……よし、ここまでは完璧や。誰ともすれ違わず、目的の情報は吸い出した。あとはこの迷宮から脱出するだけなんやが、どうにも嫌な予感が消えへん)
俺はモップを抱え直し、不自然に早まりそうな歩調を必死に抑え込む。
壁一面に貼られた防音パネルの隙間に、わずかな継ぎ目も見当たらないこの閉鎖空間は、まるで俺を閉じ込めるための巨大な檻のようだった。
その時、俺の視界の端で、天井のドーム型監視カメラが「クッ」と微かな駆動音を立てた。
(……待て、おかしい。俺は事前にこのビルのシステムを解析して、カメラの死角を把握しとる。やけど、死角やと思って選んだルートに、不自然にカメラのレンズが同期してくる気がする……)
――――
その頃、地下の中央監視室では、一人のオペレーターが不気味な違和感を報告していた。
「こちら監視室。バックヤード通路の清掃員が極めて不審です。……歩法こそ素人ですが、視線の動きが異常です。床ではなく、天井の防火シャッターの隙間に隠された『赤外線近接センサー』の投光部や、壁面の絵画の裏にある『非常用解錠レバー』の格納場所をピンポイントで注視しています。清掃員が、壁の継ぎ目から漏れる『光ファイバーの減衰光』を追うような動きをするはずがありません」
そう、田村のミスは”強すぎること”ではなく、”知りすぎていること”だった。
廊下の角を曲がる際、彼は無意識に、通常の清掃員なら存在すら知らない消火栓の裏に隠された予備の有線LANポートの蓋に指先を滑らせていた。その一瞬の元SEとしての機材のコンディションを確認する習性が、鳳凰寺家が雇ったプロの警備連中には致命的な違和感として検出されたのだ。その報告は、即座に鳳凰寺剛三の手元へと転送された。
――――
そんな俺の緊張を嘲笑うかのように、頭上では浮世離れした美貌を持つ生霊が、退屈そうに欠伸を噛み殺していた。
天井のLED照明を透過させ、透き通るような白磁の肌を輝かせている彼女は、この状況を微塵も理解していない。
《タクミ、何をそのようにコソコソと、ネズミのように背を丸めて歩いているのですか?》
凛は、まるで重力を無視することがこの世で最も容易なことであるかのように、優雅に宙を滑る。
彼女が動くたびに、実体のないはずの空気が微かに震え、俺の頬を冷たく撫でた。
《わたくしの騎士を自称するなら、もっとこう、風を切るように颯爽と歩きなさいな。その無様な歩き方、見ているだけでこちらの気品まで削がれてしまいますわ》
彼女は俺の周囲を軽やかに回転し、あろうことか俺の鼻先で指を弾く所作を見せた。
当然、物理的な音は響かない。
しかし、彼女が指先を弾く動作そのものが持つ圧倒的な”選民”としての圧力は、どんな大声よりも鋭く俺の自尊心を削り取っていく。
彼女が通り過ぎるたびに、壁の超高感度熱源センサーが、凛の周囲でだけ絶対零度に近い超低温ノイズを弾き出し、監視室のモニターに真っ青なエラーログを流し続けていることなど、彼女は知る由もない。
「……少しは黙っとれ」
俺は、床の汚れに悪態をつくのを装い、唇の端だけを動かして毒づいた。
「剛三の耳には、もう俺の『不審な観察眼』が届いとるかもしれんのやぞ」
《あら、あのような無礼な叔父様に、何をそこまで怯える必要があるのですか?》
凛は呆れたように肩をすくめ、俺の焦燥を「庶民の滑稽な過剰反応」として切り捨てる。
《何かあれば、わたくしがその気高い威光で追い払って差し上げますわ。貴方はただ、わたくしの美しさを損なわない程度に、必死に逃げ惑っていればよろしいのです。ほら、もっと足腰に力を入れなさいな。その惨めな背中は、見ていて不愉快ですわよ》
激励のつもりなのだろうが、その言葉は俺の胃をキリキリと締め付ける。
俺は必死に耳を澄ませ、エレベーターホールへと急ぐ。
磨き上げられた大理石の床が、照明を反射して鏡のように俺の焦った顔を映し出していた。
エレベーターのボタンを強打したその時、背後の廊下から、規則正しい靴音が響いてきた。
コツ、コツ、という乾いた音が、静まり返ったフロアに不気味な反響を残す。
監視室からの座標指示を受け、俺を不審な特異点としてロックオンしていた『山の守り』。剛三の私設警備員たちだろうか。
俺は必死に表情を押し殺し、開いた扉の中へと滑り込む。
銀色の金属壁に囲まれたエレベーターの内部は、一時の避難所のようでありながら、同時に逃げ場のない処刑台のようにも思える。
(閉まれ、早よ閉まれって! この一秒が、俺の人生のすべてを決める分かれ道なんや!)
だが、無情にも閉まりかけた扉の隙間に、漆黒の革手袋を嵌めた手が割り込んできた。
センサーが反応し、プツンという無機質な電子音と共に扉が再び押し広げられる。
そこに立っていたのは、サングラスで表情を隠した、見るからに堅気ではない体格の黒服が二人だった。
《あら、タクミ。何やら、貴方の着ている布切れよりも質の良そうな服を纏った方々が来ましたわよ》
凛は、黒服たちの眼前にまで顔を近づけ、そのレンズの奥を興味津々に覗き込んでいる。
《まあ、なんと無愛想な。挨拶の一つもできないなんて、どのような教育を受けてきたのかしら。タクミ、彼らに礼儀というものを教えて差し上げたらどうです?》
「……あ、あの、何かご用でしょうか? 清掃なら終わりましたが……」
俺は裏返りそうな声を必死に整え、卑屈な笑みを浮かべて見せた。
黒服の一人は、サングラスを微動だにさせず、俺の胸元に付けられた偽造の名札……そこに書かれた適当な偽名をじっと見つめた。
「清掃員の方。……上から、君を連れてくるようにと指示がありましてね」
男の声は平坦で、一切の感情を排していた。
「鳳凰寺会長代理が、君の清掃員らしからぬ視点に大変興味を持たれている。監視室のスタッフも、君がなぜ消火栓裏に興味を示したのかを知りたがっている。……さあ、こちらへ」
俺がエレベーターの中へ踏み込んだ瞬間、もう一人の黒服も流れるような動作で中へ踏み込んできた。
逃げ道はない。
《興味を持たれている? まあ、タクミ。叔父様も案外、見る目があるではありませんか!》
凛は嬉しそうに飛び跳ねた。
《さあ、胸を張って叔父様の元へ向かいなさい。わたくしも、叔父様がどのような顔をして貴方を褒めちぎるのか、見届けて差し上げますわ》
彼女の脳内は、一体どのような極楽浄土になっているのだろうか。
剛三が清掃員を呼び出す理由なんて、この世に「排除」か「尋問」の二つしかない。
(……ああ、終わった。このまま地下の電気室かどっかに連れて行かれて、物理的に強制終了されるわけや。偽名の身分証なんて、あいつらの前では紙屑同然やぞ)
俺は、凛の無邪気な声を聞きながら、じわじわと迫ってくる破滅の予感に震えていた。
「……あ、案内、ありがとうございます。ですが、派遣会社に連絡を……」
俺は強引に横をすり抜けようとしたが、黒服の男が俺の腕をがっしりと掴んだ。
肉に食い込むような、逃れられぬ実力の重圧だった。
「その必要はありません。すべてはこちらで処理します。……さあ、行きましょうか。君がどこでそのインフラの急所を見抜く目を養ったのか、じっくりと伺うことになりますから」
再び歩き始めた廊下の景色は、すべてが俺を嘲笑う怪物のように見えてくる。
凛は俺の先を泳ぐように飛び、振り返っては不満げに眉を寄せる。
《何ですか、その暗い顔は。まるでこれから処刑場へ向かう罪人のようですわよ? もっと威風堂々となさい!》
(……そもそもこんな危ない橋を渡る羽目になったんは、お前の家系のドロドロのせいやろが!)
俺は心の中で叫び、目の前に立ちはだかる剛三の執務室の巨大な扉を見上げた。
重厚なマホガニーの扉が、ゆっくりと、そして威圧的な音を立てて開かれていく。
その先に待っていたのは、豪華なデスクに深々と腰を下ろし、高価なシガーの煙をくゆらせる一人の男。
剛三の冷ややかな瞳が、サングラスの奥から俺を貫いた。
その手元には、俺がカメラの画角を計算し、電子ロックの予備配線を覗き込むような仕草を捉えた解析データが表示されていた。
(……やるしかない。こうなったら、エンジニアの意地を見せたる。どんなに堅牢なセキュリティも、内部からの想定外のバグには勝てへんってことをな)
俺は震える足に力を込め、陰謀の玉座へと向かった。
凛は楽しげに、剛三の頭上で優雅に旋回を始めている。
俺の背後で、重厚な扉がガチャンと閉まった。
退路は断たれた。
《さあ、タクミ! わたくしの高貴さを証明するために、存分に立ち回りなさいな!》
「……お呼びでしょうか、鳳凰寺会長」
俺の声は、自分でも驚くほど低く、落ち着いていた。
それに応えるように、剛三がゆっくりとシガーを灰皿に押し付けた。
「清掃員君。……君は実に面白い。清掃の所作はまるきり素人だが、このビルの設計の急所……予備電源の端子や、カメラの死角になるダクトの継ぎ目ばかりを正確に射抜く目を持っている。……君、一体どこの組織の回し者だ?」
静寂が部屋を支配し、次の一秒にすべてが懸かっていた。
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