第18話 執着の暗証番号
鳳凰寺剛三の執務室。厚さ数センチはあろうかというマホガニーの扉が閉まった瞬間、そこは外界の法も道徳も通用しない、逃げ場のない処刑場へと変貌した。
シガーの紫煙が、高級な空気清浄機の吸気音に抗うように、淀んだカーテンを作っている。その煙の向こう側で、魔王のように鎮座する剛三の視線が、俺という不純物を分解し、再構成しようとしていた。
(……やるしかない。ここで黙れば、俺の人生のソースコードはここで強制終了や)
俺は、震える膝を『エンジニアが難解なバグに直面した時の武者震い』として脳内で定義し直し、顔を上げる。背後には、万力のような力を持つ黒服たちが、俺の肩をいつでも砕ける準備をして控えている。
「……お言葉ですが、鳳凰寺会長。清掃員がここまで容易に『設計の急所』を見つけられる現状を、経営者としてどうお考えですか?」
俺の声は、自分でも驚くほど冷えていた。
「私は、フリーのセキュリティ・コンサルタントです。この最上階における『物理層の脆弱性』……つまり、ハードウェアの隙を突いた侵入がいかに容易かを証明しに来ました。今の私は、清掃員ではなく、御社のセキュリティ網の欠陥を象徴する存在ですよ」
剛三の眉が、わずかに動いた。
「ほう……。面白いハッタリだ。工作員ではなく、エンジニアを自称するか。……だがな、小僧。わが社のシステムは、並のハッカーが一生を費やしても辿り着けない領域にある。もし君の言うことが真実ならば、証明してみせろ。この部屋に隠された『物理メディア』を特定し、私にしか解除できない六桁の『日付コード』を当ててみせろ。外せば、君が次に見る景色は、六甲の谷底か、神戸港の水底か、あるいは地獄の入り口だ」
その時だ。剛三の頭上でシャンデリアをなぞっていた凛が、ふわりと俺の目の前に舞い降りた。彼女の白磁のような肌を透過した光が、俺の網膜にだけ不気味な色彩を残す。
《貴方。何をそんなに情けない顔をしているのですか。叔父様のあのような安い挑発に乗るなんて、本当に救いようのない凡俗ですわね》
凛は、剛三の顔を至近距離で覗き込み、その鼻先で指を鳴らす所作を見せた。
《わたくしの騎士なら、もっとスマートに答えなさいな。……ほら、そこ。叔父様がさっきから何度も、無意識に視線を投げている場所がありますわよ?》
凛は、剛三の背後……鳳凰寺家の歴代当主を描いた巨大な油絵に向かって滑るように移動した。彼女はためらいもなく、そのキャンバスの中へと体を沈ませる。
《……あら、面白いものを見つけましたわ! 壁の奥に、不格好な鋼鉄の塊が埋まっていますわよ。貴方、ここですわ! この絵画の裏に、驚くほど頑丈そうな金庫が隠されていますわ。まるでわたくしを閉じ込めるための檻のように頑丈そうですわね》
俺は、凛の言葉をなぞるように、真っ直ぐに油絵を指差した。
「……そこですね。鳳凰寺家の誇りを象徴するその絵画の裏だ。配線の引き回しによる微かな磁界の歪みから、容易に推測できますよ」
剛三の表情から余裕が消えた。
「……続けろ。特定するだけなら運でもできる。だが、暗証番号はどうかな? 君はそこから一歩も動いていない。パネルに触れることすらできない状況で、どう導き出す?」
俺の額を一筋の汗が伝う。だが、金庫のパネルを検分していた凛が、身の毛もよだつような冷ややかな声を上げた。
《…………何ですの、これは? 貴方、信じられませんわ。この男……あの日、わたくしを排除しようとしたその手で、わたくしの『誕生日』を暗証番号に設定していますわよ。……叔父様ったら、わたくしの存在が怖くて、その数字に縋らなければいられませんでしたのね!》
(誕生日……?)
俺は驚愕を必死に抑え込み、剛三の目を射抜くように見つめた。俺はこの生霊の誕生日なんて知らん。だが、彼女が『屈辱』だと断じるその数字には、剛三の神経を逆撫でするだけの威力がある。俺は、あたかもビルのセキュリティログを脳内で高速演算しているかのようなフリをして、芝居を打った。
「……日付コードですか。ヒントは、貴方が先ほどシガーを置く際に、無意識にテーブルを叩いていた”リズム”にありました。セキュリティの専門家の間では、重要なパスコードを持つ人間が、無意識にその”リズム”を指で刻んでしまう傾向はよく知られています。貴方のその指の運びが描いた、特定の周期性を持つ六桁の数字……」
俺は、凛が空中に描く数字を、あたかも無機質なログデータとして読み上げる。
「……会長。この数字で、いかがでしょうか?」
俺が提示した数字は、凛が叫んだ誕生日である。
部屋の空気が、瞬時に氷結した。剛三の手が激しく震えたのを、俺は見逃さなかった。
彼は無言で立ち上がり、絵画の裏にある隠しパネルにあの日付を入力した。重厚な電子音が響き、金庫の扉が開かれた。その最深部に鎮座していたのは、事故現場から回収されたはずの無惨にひしゃげた一台のドライブレコーダーだった。
《……見苦しいですわね、叔父様。わたくしを消し去ったつもりで、その証拠をわたくしの名の下に封じ込めていたなんて。一生、その数字を入力するたびに、わたくしの顔を思い出すがいいわ!》
剛三は、ドライブレコーダーを慈しむように見つめながら、背を向けたまま、地を這うような低い声で呟いた。
「……君。一体、どこでその数字を手に入れた。……鳳凰寺の内部に、まだ裏切り者がいるというのか。あるいは、消えたはずの記録が……私を呪うために、君をここに導いたとでも言うのか?」
剛三の放つ殺気は、物理的な圧力となって俺の肺を圧迫した。俺は、あえて不敵な笑みを浮かべ、エンジニアとしての矜持を盾に、命懸けの回答を叩きつけた。
「……手に入れた?いえ、鳳凰寺会長。それは解釈が異なります。数字そのものに意味はありません。私が見ていたのは、システムの『外部』にある不確定要素です」
俺は剛三のデスクに視線を落とし、芝居がかった手つきで空中に数字をなぞる。
「……人間というものは、どれほど強固なセキュリティを構築しようと、知らず知らずのうちに『絶対に忘れることのできない数字』を鍵に選んでしまうものです。論理を積み上げた完璧な城壁に、たった一箇所だけ、個人の主観が混じる。貴方が無意識に視線を向け、指先を遊ばせたその数センチの挙動に、設計思想とは相容れない『執着のリズム』が漏れ出していましたよ」
剛三の喉元が、微かに震えた。その瞳に、隠しきれない動揺が走るのを俺は見逃さなかった。
「……それはセキュリティではありません。完璧なプログラムの中に、人間が自ら書き込んでしまう致命的な欠陥です。私はそのバグを読み取ったに過ぎません。会長、貴方がその不純な数字を自らの守りの核に据えている限り、私は何度でもその扉を開けてみせますよ。……私を消せば、この脆弱性をデバッグできる人間は、この世から永遠にいなくなる。鳳凰寺の未来を、その綻びたままのシステムに委ねるおつもりですか?」
剛三は沈黙した。やがて、彼は重々しく口を開いた。
「……面白い。私の作り上げた『王国』をバグだと言い切るか。……小僧、名前を何と言った」
(……本名を教えるわけにはいかん。俺の人生を、この男に完全に握らせるわけにはいかんのや)
俺は脳内の名簿から、最も無害で、かつ追跡の困難な偽りの識別子を即座に引き出した。
「……山村、タクマです」
「山村、タクマか。……いいだろう。今日のところは、その減らず口と観測眼に免じて、出口までの通行権を与えてやる。だが、勘違いするな。君が暴いたのは、私の一部に過ぎない」
剛三は、デスクのボタンを押し、黒服たちに指示を出した。俺は足がもつれそうになるのを必死に堪え、凛の生霊を伴って、死の香りが漂う執務室を後にした。
(……助かった。剛三の奴、俺の語った一般論を自分への指弾と受け取って、俺を雇ったクライアントを確認するのを忘れとったな。あいつほどの男が犯した、あまりにも初歩的なミス……。それだけ、あのお嬢様の誕生日という数字は、あいつの脳を狂わせとるんやな)
エレベーターの鏡に映る俺の顔は、死人のように青ざめていたが、その隣で凛だけは、勝利の女神のような、不遜で美しい微笑を浮かべていた。
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