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<全50ep> 鳳凰寺凛の生霊事件簿 ~視えるのは、世界で無職(おれ)一人~  作者: 第三ひよこ丸
第2部 【科学捜査と見えないスパイ】

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第19話 深夜のポルターガイスト

 深夜二時。鳳凰寺グループ本社ビルの心臓部は、昼間の喧騒が嘘のように冷たい静寂に支配されていた。

 俺は再びこの灰色の迷宮へと侵入した。だが、役員フロアへ続く重厚な防火扉の前に立った瞬間、肺の空気がすべて吸い出されるような、形容しがたい圧迫感に襲われた。


(……剛三の奴、本気で俺を狩りに来とる。これは単なる警備やない、処刑場の設営や)


 昨日の今日だ。あの執務室で、彼が聖域として守り続けていた暗証番号を、部外者の俺が、しかも単なる推論という形で暴き立てた。

 それは剛三という、プライドの塊で出来た絶対的な支配者にとって、喉元に毒を塗った針を突き立てられたも同然の屈辱だったはずだ。

 

 あの日付、凛の誕生日は、彼にとっての罪の証であり、同時に自分が鳳凰寺を支配しているという歪んだ全能感の核だ。それを言い当てられた以上、彼は俺を、小賢しい清掃員とは見なしていない。自分の玉座を、そして鳳凰寺の未来を根底から覆しかねない、正体不明の脅威として認識しているのだ。


(俺を生かして返せば、鳳凰寺の致命的なバグが外の世界に漏洩する。あいつにとって、俺はもはや不法侵入者やない。自分の地位を、そしてこの巨大な帝国を崩壊させるトリガーなんや。だからこそ、今夜のこの異常な警備……これは、俺というバグを完全に消去するためのデバッグ作業なんやな……)


 廊下の角に設置された監視カメラの赤いレンズが、まるで生き物のように俺の動きを追い、冷酷にその姿を記録している気がしてならない。一歩進むごとに、死神の鎌が首筋に近づいてくるような錯覚。

 その時、俺の目の前を、銀色の月光を纏ったような少女が優雅に滑っていった。


《タクミ、何をそのように震えているのですか。わたくしが共にいるのです。鳳凰寺の屋敷の廊下に比べれば、このような場所、ただの殺風景な通り道に過ぎませんわ》


 凛は、重力から解き放たれた存在ゆえの不敵な余裕を浮かべ、俺の周囲を旋回する。彼女が通るたびに、周囲の温度が物理的に下がり、俺の肌をチリチリとした冷気が刺した。


(お嬢様は気楽なもんやで。俺は捕まったら最後、このビルの基礎コンクリートの一部にされ、未解決事件のリストに一行追加されるだけなんやぞ)


 俺は心の中で毒づきながら、剛三の執務室へと続く、長く冷たい直線通路に差し掛かった。そこは外界の音が一切遮断された、無機質な大理石の回廊だ。だが、その瞬間、俺のエンジニアとしての耳が、規則正しい複数の足音、それも、鉄板の入ったタクティカルブーツが床を叩く威圧的な音を捉えた。


「三番通路、異常なし。これより役員フロアの巡回に入る。全部門、配置につけ。一匹の鼠も逃がすな」


 無線機のノイズが、墓場のような静寂を鋭く切り裂く。

 廊下の先から、強烈なLEDの光束が伸びてきた。一人ではない。足音の重なりからして四人、いや、後続を合わせればもっと多い。通常の警備員による巡回ペースではない。明らかに侵入者の逃げ道を段階的に封鎖し、中心部へと追い詰めるための組織的な包囲網だ。剛三は確信している。俺が、あのドライブレコーダーを求めて必ず戻ってくることを。


《……ふん、無礼な番犬どもが。わたくしの目の前で、よくもこれほど我が物顔で歩けたものですわね。この程度の泥犬どもに舐められるほど落ちぶれてはいませんわ。タクミ、そこで見なさい。鳳凰寺を統べる者が真に誰であるかを、教えて差し上げますわ》


 凛が不敵に微笑むと、廊下の空気が一気に凍りついた。

 彼女は、俺が使うような小細工やハッキングなどには目もくれない。デジタル機器の二進法の仕組みなど、高貴な彼女にとってはどうでもいい下々の退屈な道具でしかないからだ。

 だが、彼女は知っている。人間が本能的に恐れるものを。物を投げ、音を立て、平穏な空間を無慈悲に掻き回すという原初的な恐怖が、いかに鍛えられた兵士の心さえも折るかを。


 ガチャン! ドサッ! ガラガラガラッ!


 まずは給湯室の入り口に置かれたステンレス製のゴミ箱が、見えない巨人に蹴り飛ばされたような勢いで廊下の中央へと躍り出た。けたたましい金属音がフロア中に反響し、警備員たちの緊張に満ちた叫び声が上がる。

 続いて、受付デスクに置かれた内線電話の受話器が、ひとりでに宙に浮き上がり、そのまま壁に飾られた高価な装飾皿へと叩きつけられて粉砕された。


「な、なんだ!? 誰かいるのか! 今の音は給湯室だ!」

 

「いや、受付の備品が破損したぞ! ライトを向けろ! 全員、扇状に展開しろ!」


 警備員たちが殺気立ち、ライトを一点に集中させる。だが、凛の『お遊び』は、深窓の令嬢の中に眠っていた凄絶な破壊衝動へと加速していった。

 

 彼女がオフィスの中心を横切ると、廊下に並べられた観葉植物の重い陶器の鉢植えが、次々と床に倒れ、黒い土とセラミックの鋭い破片が散乱する。

 さらに、壁際に整然と積まれていた分厚い経営報告書の束が、猛烈な旋風に巻き込まれたように舞い上がり、紙の一枚一枚が剃刀のような鋭さで警備員たちの顔面を激しく打った。


《おほほほ! 拾いなさい、片付けなさい! 無能な貴方たちには、床を這いつくばってゴミを集める仕事こそがお似合いですわ!》


 凛の声は俺にしか聞こえない。だが、その怒気は物理的な衝撃となって空間を支配する。

 

 ジリリリリリリ! ジリリリリリリ! ジリリリリリリ!

 

 突如として、十数台の固定電話が一斉に、耳を劈くようなベルを鳴らし始めた。凛がその思念で、全ての電話機のフックを強引に、かつ同時に跳ね上げたのだ。無人のオフィスで、誰に繋がることもない絶叫のような呼び出し音が狂ったように反響する。


「異常事態だ! 電話が……全部鳴りっぱなしだぞ! 制御盤の故障か!?」

 

「いや、人為的な陽動だ! B通路側を封鎖しろ! 音を立てている実体を見逃すな!」


 警備員たちは、目に見えない高貴な意志に翻弄され、パニック寸前の状態で右往左往している。

 凛は、パソコンのソースコードなど一文字も理解していないだろう。だが、空間そのものを混乱の極致に叩き落とすという点において、彼女はどんな超一級のハッカーよりも遥かに恐ろしく、かつ最強の妨害者だった。


《タクミ、何を呆けていますの! わたくしが道を切り拓いたのです。この程度の攪乱の隙を突くことくらい、貴方のその浅ましい知恵でもできるはずですわ!》


(――っ、そうやった! 行くぞ!)

 

 俺は凛が作り出した”狂乱の空白”を縫うように走り、全速力で剛三の執務室へと駆け出した。

 背後では、重い事務机が床を削りながら数センチ移動する不気味な軋み音が響き、警備員たちの怒号が遠ざかっていく。凛は、この巨大ビルの物理構造そのものを、その凄まじい憎悪で揺さぶっているようだった。


 執務室の前に辿り着くと、俺は震える手で、昼間のうちに仕込んでおいたバックドアの起動コードを叩き込む。

 ピッ、という電子音が一度鳴り、真空状態だった室内へと重厚な扉が開く。俺は滑り込むように室内へ入り、すぐさま扉を背後で閉ざした。


「……助かった。……凛、お前、めちゃくちゃやな。電話まで鳴らすとは、誰も思わんぞ……」


 暗闇の中、凛がゆっくりと姿を現す。だが、その輪郭は陽炎のように淡く、透き通った身体は今にも霧散してしまいそうだった。


《……鳳凰寺の令嬢として、不作法な振る舞いは……したくありませんでしたが……。……ですが、少しばかり、力の加減を間違えましたわね……》


 凛は力なく微笑もうとしたが、その場にふわりと座り込んでしまう。機械の仕組みを完全に無視し、純粋な思念だけで物理的な現実をねじ曲げるという蛮行は、彼女の魂の残滓を激しく、かつ残酷に摩耗させていた。


《タクミ……わたくしのことは構いません。早く、あの男が隠した証拠を……わたくしの命を、人生を弄んだあの代償を、その手に収めなさい。……でないと、わたくしのこの醜い姿が、完全に無駄になってしまいますわ……》


 凛の瞳には、弱りきった身体とは裏腹に、剛三への烈火のごとき憎悪が燃え盛っていた。

 俺は頷き、立ち上がる。

 もう、後戻りはできない。昨日は一般論のハッタリで一時を誤魔化したこの魔王の領域から、今日は真実という名の「猛毒」を奪い出す。


 俺は、凛が指し示した鳳凰寺歴代当主の絵画、その威圧的な肖像の裏にある隠し金庫へと、震える手を伸ばした。

 その最深部に、あの雨の夜の惨劇を記録したドライブレコーダーが、俺を、いや、彼女の血を吐くような無念を待っているはずだった。

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