第20話 届かぬ香りと安ビールの泡
剛三の執務室という名の魔王の心臓部から、俺は命を削り出すようにして逃げ出した。
深夜の神戸。俺の安息の地は、東へ、そして絶望的なまでの上へと向かった先にある。灘区、長峰台。そこへ至る道筋には、地元住民ですら歩行を拒む『長峰坂』という名の壁が立ちはだかっていた。
最大勾配18.5%。その数値は、都市設計者の正気を疑うレベルの絶壁だ。街灯が夜の闇を薄く切り裂く中、アスファルトに刻まれた滑り止めの円形模様が、獲物を飲み込む獣の口のように見える。
足を踏み入れた瞬間、乳酸の溜まった太腿が断裂せんばかりに軋み、心臓は肋骨を内側から叩き壊さんばかりに暴動を起こす。
背負ったリュックの中には、ずっしりと重い、しかしあまりにも軽いプラスチックの塊。あの惨劇の夜を記憶したドライブレコーダーが収まっている。それは鳳凰寺という巨大な利権を覆す爆薬であり、同時に、隣で涼しげに浮遊する少女の止まった時間を動かすための唯一無二の鍵だった。
「……はぁ、はぁ……っ、この坂……殺す気か……っ。長峰の……神は……どんだけ、俺の膝を笑わせれば……気が済むんや……っ」
一歩進むごとに、喉の奥に血の味が混じる。視界の端で、坂に張り付くように建つ住宅の屋根が、俺の足元よりも低い位置へと沈んでいく。この界隈は、もはや道というより、天へと続く試練に近い。
膝に手をつき、荒い呼吸を繰り返す俺の隣で、銀色の月光を纏ったような少女が、重力などという下俗な法則をあざ笑うかのように優雅に宙を滑っていた。
《タクミ、何をそのように醜く喘いでいますの? 鳳凰寺の騎士が、この程度の傾斜で根を上げるとは。……見ていて、反吐が出ますわ。わたくしの視界を汚さないでいただけますかしら?》
凛は、前髪を指先で弄びながら俺の顔を覗き込み、不機謙そうに鼻を鳴らす。
彼女にとって、この灘百選にも選ばれた「神戸一」の激坂も、ただの退屈な空中散歩に過ぎない。透き通った瞳に映る俺の姿は、さしずめ垂直の壁を這いずり回る虫けらのように見えているのだろう。
(……気楽な生霊様には……分からんのや……っ。この最大勾配18.5%が、どれだけ俺の脆弱なHPを……根こそぎ削っとるか……!)
俺は文句を言う気力すらなく、ようやく辿り着いた、長峰中学校のさらに先、築年数さえ定かではない木造ボロアパートの前に着いた。潮風にさらされて赤茶けた錆が浮いた外階段。それを一段上るごとに、階段そのものが『もう休ませてくれ』とばかりに軋み声を上げる。
ようやく鍵をこじ開け、埃っぽい六畳間に転がり込む。
鍵を三度確認し、チェーンを掛け、そのまま背中でドアを押し潰すようにして床に座り込んだ。暗闇の中、窓から差し込む街灯の光が、宙を舞う埃のダンスを照らし出している。
《おぞましいほどだらしありませんわね。貴方のその貧弱な肉体、そしてその無様な姿を見ていると、鳳凰寺の名の末端に触れているわたくしの尊厳まで損なわれる気がしますわ。少しは鍛えなさいな、その……『エンジニア』という名の怠惰な脂肪を》
凛は、狭苦しい部屋の真ん中にふわりと、しかし絶対的な存在感を伴って着地する。
先ほどのビルの物理法則をねじ曲げた強大なポルターガイストで全霊を使い果たしたせいか、その輪郭は夜の闇に溶けてしまいそうなほど朧げだ。銀髪は薄氷のような透明度を増し、その存在そのものが今にも霧散してしまいそうな危うさを孕んでいる。だが、その不遜な眼差しだけは、煤けた天井を射抜くほど鮮やかに輝いていた。
「……あー、もう限界や。お嬢様、毒舌は……その辺までにしといてくれ。今夜ばかりは、この安物のガソリンを入れんと、明日まで俺のメインシステムが再起動せえへん」
俺は這うようにして、コンプレッサーが喘息のような異音を立てる小型冷蔵庫を開けた。
中に鎮座しているのは、近所の安売り店で買った六缶パック。麦の香りが微かにするだけの庶民の妥協の産物、安発泡酒だ。普段なら、ただ一日の疲労を洗い流すための無機質な作業用ガソリン。だが今夜、結露を纏ったそのアルミ缶は、どの高級ワイナリーの名酒よりも神々しい輝きを放って見えた。
《……よろしいでしょう。今日の貴方は、ほんの少しだけわたくしの期待に応える働きを見せましたから。その……不潔で野蛮な祝杯とやらを、特別に許可して差し上げますわ》
「お、許可が出たか。そら、家臣としては光栄すぎて涙が出そうやわ」
俺は震える指でプルタブを跳ね上げた。
カシャッ、という小気味よい音が、死んだように静かな六畳間に、勝利のファンファーレのように響いた。
プシュリと弾ける泡の音とともに、独特のホップの香りが、埃と古い壁紙の匂いに支配された部屋を塗り替えていく。俺はそれを、砂漠のように乾ききった喉へと一気に流し込んだ。
喉を焼くような強烈な炭酸の刺激。安物特有の鼻に抜ける僅かな雑味。それが五臓六腑を駆け抜け、極限状態にあった神経をゆっくりと解きほぐしていく。
《……クシュンっ! ……な、なんですの、このツンとする下品で耐え難い香りは! アルコールというより、まるで機械の油か、さもなくば不衛生な消毒液のようですわよ!》
凛は、真珠のような白い肌を露骨に歪め、ひらひらと透き通った手で鼻先を仰いだ。お嬢様にとって、発泡酒の安っぽい刺激臭は、高貴な嗅覚を蹂躙する野蛮な襲撃に等しいらしい。
「消毒液って、お嬢様……。これでも俺らみたいな底辺にとっては、明日を繋ぐ唯一の救いなんやぞ」
《いいえ、耐えられませんわ! わたくし、昔からお酒の匂いというものは大嫌いなのです。父様が嗜んでいた芳醇なヴィンテージワインならまだしも、このような……名も無き泡など! タクミ、貴方、明日からはその下等な匂いが全身に染み付いて、わたくしの鼻を腐らせるつもりではありませんの!?》
「鼻を腐らせるって、相変わらず無茶苦茶言うな……。でも、確かにこの安もんは、香りを楽しむような雅な代物やないしな」
俺は苦笑いしながら、再び発泡酒を煽った。
凛は《信じられませんわ》と不満げに眉を寄せながらも、決して俺から離れようとはしなかった。
彼女は、俺のすぐ傍らで、安っぽい畳の上に、まるでドレスの裾を整えるかのような仕草でちょこんと腰を下ろした。その姿は、鳳凰寺の威厳を纏いながらも、どこか一人きりの夜に怯える少女のような、危うい寂しさを孕んでいた。
《……タクミ。その……それは、そんなに美味しいのですか?》
「……いや、別に。ただの苦い水やで。でも、これが無いと自分を保てん夜ってのが、この世にはあるんや。……お嬢様には、分からんかもしれんけどな」
俺の言葉に、凛はしばらく黙っていた。
彼女には、祝杯を分かち合う物理的な感覚も、アルコールによる心地よい微睡みも訪れることはない。ただ、俺の飲む酒の匂いを「嫌い」だと断じながら、共にこの不安定な夜を越すことしかできないのだ。
《……到底、理解しがたい文化ですわ。ですが、今夜だけは……その苦い、野蛮な匂いも、わたくしへの供物として特別に受け取って差し上げますわ。貴方が……不器用ながらも、わたくしのためにあの絶壁を上りきって戻ってきた。その……ただそれだけの泥臭い証拠として》
「……へいへい。そら、どうも。明日からは消臭スプレーでもぶっ掛けますわ」
俺は二本目の缶に手を伸ばした。
狭苦しいアパートの六畳間には、安ビールの匂いと、目に見えない少女が放つ微かな冷気、そして奪還したドライブレコーダーが放つ重苦しい沈黙が、複雑に混ざり合って沈殿していた。
俺たちの反撃は、ようやく始まったばかりだ。
だが、この不味くて苦い酒の匂いだけが、俺が、生きていることを、残酷なまでに教えてくれていた。
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