第21話 侵食される聖域
静寂は、あまりにも唐突に、暴力的な音を立てて崩れ去った。
日没直後、長峰の街並みは薄藍色の闇に包まれ、家々からは夕飯の香りが微かに漂っていた。
湾岸地区の化学工場で、巨大な機械が吐き出す熱風と騒音に半日近く身を置いていた俺は、廃人のような足取りで帰路に就いていた。
名のあるIT企業でシステム構築に心血を注いでいた誇りは、今や『正社員登用あり』という、蜘蛛の糸よりも細く不確かな希望の陰に隠れている。
当面の生活費を繋ぎ、再起の足掛かりを得るために選んだのは、深夜から早朝、そして夕刻に及ぶ工場での重労働だ。
ベルトコンベアから流れてくる重量物を、ただ機械的に梱包し、パレットへと積み上げる。その反復作業は、論理を構築するためにあった俺の指先を、段ボールの切り傷と硬い角質で無残に上書きしている。
肺の奥には、どんなに顔を洗っても落ちない消毒液の刺激臭と、古びた機械油の嫌な匂いがこびりついているかのようだ。
長峰坂の絶壁を上りきった先に待つのは、救いなどではない。ただ、明日を繋ぐためだけの煤けた六畳間。俺が必死に守り抜こうとしていた、唯一の聖域だった。
だが、ようやく辿り着いたその場所で、俺は得体の知れない違和感に足を止めた。
アパートの窓は一つも割れておらず、隣室からはテレビのバラエティ番組の笑い声さえ漏れ聞こえてくる。通報のパトカーが来る気配も、野次馬が集まる様子もない。あまりに平穏な、いつもの風景。
しかし、俺の部屋の前に立った瞬間、心臓が警鐘を鳴らした。
ドアノブに手をかける。施錠されているはずの扉は、音もなく、滑らかに外側へと開く。ピッキングの跡すら残さない、プロの仕業。奴らは周囲に一切の異変を悟らせることなく、俺の城壁を無力化させたのだ。
「……っ!」
一歩足を踏み入れた瞬間、俺は呼吸の仕方を忘れて立ち尽くした。
外側の静寂とは対照的に、そこは、もはや人の住処としての体裁を保っていなかった。
再就職への唯一の武器であり、俺の半身でもあったメインPCの液晶ディスプレイは、中央から鋭利な何かで粉砕され、液晶漏れの黒い染みが、まるで息絶えた者の死斑のように広がっている。
棚に整然と並んでいたはずの技術書や、面接のために書き溜めていた履歴書の束は、ページが乱暴に引き千切られて床一面に散乱し、踏みにじられた俺の希望たちが無言の悲鳴を上げていた。
使い込まれた畳は鋭利な刃物で縦横無尽に切り刻まれ、中身の藺草が傷口のように無残に露出している。そして何より、昨日あれほど美味く感じた、ささやかな祝杯の証であった発泡酒の残骸。それが床一面にぶちまけられ、酸えたアルコールの臭気と、古い壁紙が吸い込んだ埃の匂いが混じり合い、肺の奥を汚濁で満たしていく。
剛三の逆襲は、予想を遥かに上回る精度と、一切の容赦を排した残酷さで俺を捉えた。
奴は、近隣住民にさえ気づかせぬ隠密性をもって俺の居場所を侵食し、工場での過酷な労働に耐えながら必死に立て直そうとしていた俺の生活そのものを物理的に破壊することで、俺の心を根底から叩き折ろうとしたのだ。これは単なる嫌がらせではない。俺の周囲に流れる時間を、奴の暴力が完全に支配したという宣言だった。
《……タクミ……》
部屋の隅、最も暗い影が沈殿する場所に、凛が立ち尽くしていた。
いつもなら《不潔ですわ》《醜い喘ぎ声ですこと》と、不遜な笑みを浮かべて俺を見下すはずの彼女。だが、今そこに、いつもの傲慢な輝きは、欠片も存在しなかった。
震える手で自身の細い肩を抱き、透明な瞳に底知れぬ絶望の色を浮かべている。実体を持たぬ彼女の輪郭は、今にも夜の闇に吸い込まれそうなほど希薄で、意識不明の本体との繋がりが、限界まで細っていることを予感させた。
《申し訳……ありませんわ……。わたくし、このような……》
ポツリと、消え入りそうな呟きが、埃の舞う暗がりに落ちた。
凛は視線を伏せ、悲しげに眉を寄せている。その顔には、鳳凰寺の名を背負う誇りも、俺を手駒として扱う余裕も、何一つ残っていない。ただ、一人の無力な少女として、自分の存在が引き起こした蹂躙に、その身を苛んでいるようだった。
《わたくしの……わたくしのせいですわ。わたくしが、貴方をそそのかしたから。あのような無茶な攪乱を命じ、あの男の狂気を呼び覚ましてしまった。わたくしが、わたくしという呪いが……貴方を地獄へと引き摺り込んでしまったのですわ……》
彼女は生霊として、この部屋が蹂躙される様を、ただ、見ていることしかできなかったのだ。叔父の命を受けた男たちが、気配もなく入り込み、汚れた土足で畳を汚し、俺の大切な道具を笑いながら破壊し、僅かな再起の可能性をなぶり殺しにする光景を。
物理法則をねじ曲げるほどの強大な干渉能力を持つ凛であっても、組織化された、理性の欠片もない暴力の波濤を前にしては、あまりにも無力で、あまりにも孤独だったようだ。
《ごめんなさい……。タクミ、わたくし、自分がこれほどまでに、誰かを不幸にする存在だとは、思ってもいませんでしたわ。貴方は、ただ平穏に生きたかっただけなのに……わたくしに関わらなければ、このような屈辱を受けることもなかったのに……っ》
彼女の目から、光を凝縮したような雫が溢れ落ちる。それは床に触れる寸前に霧となって消えてしまうが、その悲痛な思いだけは、極北の氷原から吹き付ける冷気となって俺の肌を突き刺した。
初めて見る、折れた凛の姿。高貴なプライドをズタズタに引き裂かれ、自分の存在そのものを呪いだと断じてしまうほどに、彼女の心は摩滅していた。その弱々しく震える肩は、昨日の傲慢な女王の面影を完全に消し去っていた。
「……何、言うてんねん、お嬢様」
俺は震える手で、割れたディスプレイの破片を拾い上げた。鋭いガラスの角が指先に食い込み、熱い血が滴る。だが、その痛みこそが、俺の脳内にこびりついた恐怖を、純粋な殺意へと昇華させた。
剛三は、致命的な計算違いを犯した。
俺の家を壊し、再就職の道具を灰に帰せば、この脆弱な鼠が震え上がって逃げ出すと考えたのなら、それはエンジニアの執念を、そして、どん底まで追い詰められた者の底力を、致命的に舐めすぎだ。
「……全部、壊されたわけやない。一番大事なもんは、まだここにある」
俺は蹂躙された部屋の片隅、乱雑に投げ出されたリュックの底から、肌身離さず持っていたあのドライブレコーダーを、泥の中から真珠を救い出すようにして取り出した。
本体は無傷だ。この小さなプラスチックの塊の中に、血も涙もない叔父を破滅へと導く真実が、論理の弾丸となって充填されている。
そして何より、俺の隣には、まだ彼女がいる。
「自分のせいにするな。生活なら、また工場でシフトを増やして立て直せばいい。だが、奪われた誇りとあんたの無念は、奴を倒さない限り、一生戻ってこない。……剛三の奴、絶対に許さへん!」
凛は、涙に濡れた瞳を大きく見開いた。
外側からは何も変わらない、いつものボロアパートの一室。だがその内部は、安ビールの悪臭と、破壊の爪痕が残る凄惨な戦場と化していた。その中心で、俺と、幽かな光を放つ生霊の少女は、かつてないほど強く、魂の深淵で結ばれていた。
奪われたのは、ただの生活の一部に過ぎない。
俺たちの反撃は、ここから明確な”殺意”を伴って、加速していく。
次に泣くのは、あの玉座に座る怪物だ。
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